第三章 【五】
 扉の先に広がっていた小さな異世界に、李苑たちは軽く目を瞠った。
 乳白色で統一された部屋は落ち着きと柔らかさを感じさせる。部屋の温度は一定に保たれており、調度品も品が良いものばかり。
 控えの間らしきその部屋には長椅子と小さなテーブルが中央に据えられていたが、本棚には幾つかの本も収められていて、休憩室としても充分機能しそうな小部屋だった。
 ランルに続いて部屋に入った李苑は顎を引いた。石造りの廊下とは明らかに足元の感触が違ったのだ。視線を落とすと毛の長い絨毯が敷かれていて、硬直した。土足で入って良かったのだろうかと焦ったが、ランルが靴を脱いだ様子などなかったから、これで正しいのだと思い直す。しかし落ち着かない。絨毯には汚れなどついておらず、もしかしたら誰かが毎日掃除をしているのではないかと思わせた。自分が踏むことで誰かの手間を増やしてしまう、と余計なことにまで気に病んだ。
 思わず振り返った李苑は、響希と視線を合わせて笑みを零した。どうやら響希も同じことを考えていたらしく、頬を引きつらせていたからだ。どちらからともなく視線を交錯させて苦笑いを浮かべた。
「夜分に申し訳ありませんが、王にお目通りを願います」
 向こう側の扉前に佇んでいた女性が微かに微笑んだ。
 慇懃に礼をしてから踵を返し、部屋へ入ろうとしたとき、向こう側から扉が開かれた。女性は素早く扉から離れて道を開ける。黙ったまま頭を下げた。
「ライール=ガラディア=サラン様がお見えでございます」
 部屋から出てきたのは華奢な女性だった。
「ランル?」
「ただいま戻りました、お母様」
 ランルは衣装の端をつまんで軽く礼をする。
 お母様と呼ばれた女性は一瞬だけ険しい表情をしたが、瞳は直ぐに緩んで寒々しさを消し去った。母親の瞳でランルを見つめる。
 彼女の後ろから背の高い男性も姿を現した。軽装に身を包んだその姿は眠る直前だったことを物語っている。同時に、軽装でも頓着しないのだと、ランルとの距離の近さを感じさせた。
 李苑は居心地の悪さを覚えて視線をさまよわせた。心臓をつかむように右手を胸に当て、俯く。両手で響希と翠沙をつかんだ。二人が李苑を振り返ったが、その視線は直ぐにランルたちに戻された。繋がれた手はそのままだ。
「そちらは?」
 男性の矛先が李苑たちに向けられた。どことなく硬い声音に聞こえる。
 李苑が顔を上げると、女性の前に出た男性が検分するような視線を送ってきていた。威圧感に空気が重くなる。李苑は唇を引き結んで男性を見返した。悪意などもちろん持っていないが、男性の視線に敵意を感じたためだ。
 ランルに紹介された通り、目の前の二人が王と王妃なのだろう。
 衣装から判別はできないが、李苑たちを眺める視線はどちらも強い。見も知らぬ人物たちに寝室まで侵入されているのだから当然か。今更ながら、いくらランルに促されたとは言え、のこのこと部屋までついてきたのは間違いだったのではないかと思い始めてきた。
 しかしランルは気付いているのかいないのか、二人の質問に頷いて振り返る。
「城下で夜盗を撃退していたのです。年の頃はほとんど私と変わらないながらも見事な武術に惚れて、思わず引き込んでしまいました。流れ者ではありますが人となりは私が保証します。滞在の許可を頂きに来たのです。ね?」
 李苑ですら絶句するような見事な嘘を、ランルは次々と明るく告げる。笑顔で同意を求められた李苑は困惑した。返事に窮していると意外なことに響希が同意する。
 王妃が眉を寄せて口元に手を引き寄せた。
「――本当なのですか、ランル。王の目があるこの王都で夜盗とは」
「ええ」
 もちろん嘘だ。
 それでもためらいなく頷くランルの態度はやけに場馴れしていると感じさせた。もしかしてランルは何度もこうやって誤魔化してきていたのだろうか、と李苑はチラリと考えた。
 王妃の表情がますます強張る。
 口を開こうとした王妃を遮って、ランルは続けた。
「あいにくと逃げられてしまいました。憲兵たちは遠く、彼女たちも王都には今日辿り着いたばかりで、地の利は向こうにあった。けれど心配いりません。夜盗の噂など城下で聞いたことありませんし、今日限りの輩だったのでしょう。彼女たちと争っている様子を遠くから見ただけの判断になりますが、攻撃に迷いが多くて及び腰でしたし、慣れていないことは明らかで、危険度は低そうです。この時期は例年、他国からの受け入れが多くなりますからね。民たちへの注意喚起と、例年の見廻りで充分対処できると判断して、深追いはしませんでした」
 李苑は違和感を覚えると同時に感心した。夜盗の目撃者であることにしておけば、いざ夜盗たちが捕まったときに証言するため、手近に置いておくことに不自然はない。今回の件では夜盗など初めからいないのだから、捕まらないことを言い訳にして李苑たちの滞在を長引かせることもできる。日本から来た、と本当のことなど言えない苦肉の策。ちらりと窺うと、響希はなんでもないことのように飄々としていた。
 いつもながらの鉄面皮は健在かとおかしくなって頬を緩め、視線を前に戻した李苑は心臓をつかまれた気分になった。
 王が真っ直ぐに李苑を見ていた。
 思わず背筋を伸ばしてその瞳を見返す。先ほどから感じていた威圧感が強い圧迫感となって押し寄せてくる。一片の嘘や誤魔化しも通用しない。強い瞳の前に、すべてを白状したくなってしまう。
「ランルがそう言うのならそういうことにしておこう」
 放たれる声音は強いものだった。含むような視線が李苑たちを眺める。
 響希ですら背筋が伸びたのだから、彼が持つ眼力は相当なものに違いない。
 王が李苑たちの事情など知っているはずがないが、それでもその視線は、まるですべてを知っている賢者の瞳に思えて落ち着かない。
 無言の圧力に必死で耐えていると、ふとその雰囲気が和らいだ。王の視線が再びランルに向けられる。その瞳が王妃と同じように柔らかく和む。
「城下で毎日のように情報収集を努めているランルの言葉だ。真実なのだろう」
 ランルは憮然として下唇を尖らせた。皮肉が多分に含まれていたからだ。
 その様子を見た王妃が額に手を当てて大きなため息をつき、王は朗笑を響かせる。
「滞在の許可を与えてもよろしい? ガラディア王都に入ったのは夕方らしいけど、宿が満室で探している最中だったらしいの」
「旅人にしては無謀な旅路だな。この時期に宿探しは無謀だよ」
「ガラディアに来るのは初めてらしいから無理ないわ。数年前までは私もこんなに人の交流が盛んになるとは思っていなかったもの。それで、どうかしら?」
 僅かに身を乗り出して問いを重ねるランルに、男性は苦笑する。
「お前が信用する人物なら、私たちに異はないよ」
「さっきまで品定めしてたくせに、良くも言ってくれるわ」
 笑う王につられ、頬を膨らませていたランルも笑った。
「それが王たる私の役目だ。とりあえずの接見は済ませておく。あとはランルの好きにしたらいい。基本的に、私たちはお前の味方だよ」
「――それはどうも」
 頬に口づけられたランルは頬を染めながら微笑んだ。
「お前が惹かれるぐらいだ。武術の心得もあるのだろう。学ばせてもらいなさい」
 ランルは何か言いたげに口を開いたが、思いとどまったように閉じた。
 はーい、と唇だけの笑みを作って退室しようとする。
「ランル」
 少し低い王妃の声がランルを引き止めた。
 先ほどまでの温度差に気づいたランルも表情を引き締めて王妃に体を向け直す。王妃がランルに向ける視線は、先ほどまでとは変わって冷たかった。
「貴方が文武に長けていることは承知していますけど、あまり外へ行かないで頂戴。今の貴方は危なっかしいわ。せめてサウスが」
 ランルの瞳が途端に険しくなった。気づいた王妃は思わず口をつぐむ。続く言葉はない。
 李苑たちは不思議に思って顔を見合わせた。何のやり取りだったのか分からない。
 その場に流れた奇妙な沈黙が流れ去るまで黙って待つ。
 王が李苑たちに意識を向けた。
「名を聞いておこうか」
 突然の会話に李苑は思わず背筋を伸ばした。隣で翠沙が頬だけで笑う。学校の先生たちと態度が随分と違う、と思っているのかもしれない。
 李苑は唇を尖らせて一瞬だけ翠沙を睨んだ。
 意を決して王に答える。
「私は、李苑、です。初めまして」
 緊張しすぎて動きが鈍い。軽く腰を折るだけの簡単な礼だが体全部の関節が軋んでいる気がした。
 学校で教わった礼儀作法は肝心なときに役に立たない。もっと本腰を入れて覚えておくんだったと後悔する李苑だが、後の祭りである。
「俺は響希。世話をかける」
 響希は極道の娘であるがゆえ、誰に対しても敬語を使わない。確立された自己は決して揺らがない。響希の意識が上下に揺らぐことのないように、そう教え込まれた。そのため響希に対する予備知識がない者には、ぶっきらぼうとも取れる言葉には面食らう。礼儀がなっていないと怒り出す者もいる。しかし王は目を見開くだけで何も言いはしなかった。簡単に「ああ」と頷いて視線を翠沙へ移す。
「翠沙、です。ガラディア王国の好意をありがたく思います」
 まるで決められていた台詞のように述べて翠沙は微笑んだ。
 なぜか王は驚いたように軽く瞬きを繰り返した。瞳を険しくする。まるで翠沙の中に何かを見出すかのように瞳を細めて集中する。
 翠沙はそんな視線を臆することなく受け止めた。ただ見つめ返す。
 王の口が無意識に開きかけたとき、彼は我に返った。
「いくらスイサが綺麗だからといって、見惚れていては駄目よ」
「そんな訳なかろう!」
 その場の気まずさを押し流すような明るい声は、ランルだ。娘に揶揄られた王は一喝する。咳払いをして翠沙に向き直る。
「スイサ殿……どこかでお会いしたことはありませんか?」
 翠沙に敬意を払うかのような声音だった。李苑と響希は少し戸惑う。翠沙も軽く瞳を見開かせて苦笑する。
「人違いでしょう。私は、貴方にお目にかかるのはこれが初めてになりますもの」
 普通に高校生活を過ごしてきた翠沙がガラディア王と面識があったら、それこそ驚愕である。やんわりと否定された王は頭を掻いて肩を竦めた。
「お父様。もう休んでもよろしい? さすがに疲れました」
「ああ。我らもいささか疲れた」
 退出を許されたランルは微笑む。型通りに礼を取ると、気付いた李苑たち三人も慌てて礼を取った。ランルに視線で促されて廊下に出る。
「セフダニアから通信が来ていますよ、ランル」
 廊下に出た直後、ランルだけを引き止めるように、王妃の固い声が追いかけた。その内容がランルの表情を険しくさせる。不思議そうに振り返る李苑たちの前で、慌ててかぶりを振って笑顔を見せた。
「先に出ていて」
 李苑は響希たちと顔を見合わせたが、話に立ち入るわけにもいかずに素直に従う。
「直ぐに終わると思うから、ここで待っていてちょうだい。客室に案内しないといけないものね」
「うん……」
 少しだけ不安になってランルを見つめるが、ランルは手を振る。
 廊下に出た三人の前で、扉は閉まった。


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 ランルは不安そうな表情をした李苑たちに心の中で詫びながら王妃を振り返った。
 城から抜け出す少し前、実は王妃から秘密裏に呼び出しを受けていた。話の内容はおおよそ見当がついていた。だから、呼び出しをあえて無視して城を抜け出した。
 知らぬ者たちの前で込み入った話はしないだろうという打算を込めて、李苑たちを伴った。しかしこれでは意味がない。李苑たちにも聞かれてしまった。たとえ今の彼女たちに意味が分からなくても、この世界を知っていけば、いつかは分かることになるだろう。
 ランルは苦々しく息を吐き出した。
 時と場所を選べないほど切羽詰まった状況になったのだろうかと思う。
 いつもは王に伝わる前に、王妃の判断で行われていた情報操作。けれど今は王の前で口火を切った。王もある程度は知っているということだ。
 視線を床に落として強く断じる。
「応えるつもりはありません。返事は、私が病に倒れているとでも言って遅らせてください」
「ランル」
 先ほどまでいた侍女は李苑たちが廊下に出ると同時に姿を消していた。一緒に出て行った姿は見ていないから、続きの間へ移ったのだろう。人払いがされた訳だ。
 困ったように呼ぶ王に、ランルは激昂した。
「セフダニアとガラディアは対等のはずよ。私に強要する権利などない!」
「それでは自分で話をつけるが良かろう。時間を稼いでも仕方がない。お前のは、ただの逃げだ」
 両脇に下ろした手を握りしめて瞼を閉ざす。瞼裏に浮かんだのは鮮やかな深紅。
「……待っていれば、帰って来てくれるかもしれないじゃない」
 瞼を開けたランルの瞳に、王妃が露骨に顔をしかめるのが見えた。
 この発言こそが問題だ。
「ランル。サウスがいなくなって」
「私はまだ何も聞いていないわ。聞かないまま判断するのは絶対に嫌よ」
 本来なら本人に向かうべき苛立ちが別に向かう。八つ当たりであることなど分かっている。長らくこんな状態を続けていて、そろそろ限界なのだ。必至に押さえ込んでいる苛立ちを、周囲は知らない顔で揺り動かす。
「お休みなさい、お父様。お母様」
 これ以上余計なことを言いたくなかった。背中に母のため息が聞こえたが、聞こえなかったフリをした。
 唇を引き結んで扉に手をかけ、廊下に出て。
 約束通り廊下で待っていた三人がランルに視線を向けた。
 相変わらず李苑と響希は何か言い争いをしていたようだったが、3人を繋ぐのは間違いなく強い絆で、ランルはその雰囲気に癒された。肩から力を抜いて笑みを浮かべる。
「話を合わせてくれて、ありがとうね」
「――いや」
 響希は片眉を上げ、素っ気なく返した。他に説明のしようがなかった、と続ける彼女にランルは微笑む。清々しさを覚えながら彼女たちを先導する。
「部屋に案内するわ。少し歩くけど、構わないわよね」


 今日のできごとがすべて導きだとしたら。
 出会ったすべての事象が、私の動く指針となる。


 部屋へたどり着くまでの短い時間だが、ランルは色々と説明を交えながら城内を案内した。李苑は顔を輝かせ、響希は把握しようと険しい表情で聴き、翠沙は変わらない微笑みのまま頷きを返す。
 ランルが案内したのは王族の私宮だった。
 宮仕えをする者たちの住まいも、少し離れた場所に大きく建てられている。
 吹き抜けの廊下ばかりだ。景色はいいが、距離が長い。李苑は途中から自転車が欲しくなった。
 そんな中、ランルはもちろん迷いなく進んで行く。
 湾曲した廊下を抜けてしばらく進んだ頃、ようやく目的地にたどり着いた。
 王宮には賓客をもてなすための客室が多くある。他国の王族が泊まれるよう造られた部屋から、多目的に造られた一般的な客室まで。とはいえ平民が王宮に泊まることは通常ない。叙勲のため地方から呼ばれた騎士でさえ、王室で手配した宿屋に泊まる。
 直前まで、ランルは迷っていた。
 大義名分があるとはいえ自分のわがままで彼女たちの部屋を用意させることが、どういう未来に結びつくのか。どのような部屋を手配するのか。
 それでも、後戻りはできない。
 ランルは、とある部屋の扉を開いて振り返った。
「貴方たちにはここを使って貰うわ。ほとんどの部屋は公式に使われているから、ちょっと質素な部屋になってしまうだけど」
 いち早く李苑が部屋に飛び込んだ。そして絶句した。その後姿に、ランルは吹き出すのを必死でこらえ、努めて笑顔を払拭する。
「学校の教室二つ分……」
 李苑の呟きに響希がため息をついた。
「誰でも自由に使って。あとの二人は向かいの部屋と、廊下の角の部屋を使って構わないから」
「いや遠慮する」
 別の部屋を指しながら説明するランルの言葉を響希は強引に遮った。
 今が修学旅行や合宿の最中だというなら響希にも否はない。けれど現在は頷けない。
「俺らにはここだけで充分だ」
 このように広い部屋ならば、たとえ三人一緒だろうが窮屈さは感じない。元の世界へ戻るための相談をするにも、他の部屋を訪れるのは時間がかかる。さすがこちらに電話という文明の利器は期待していない。修学旅行で六人一部屋だったときとは規模が違う。
「けれど」
「いいから」
 怪訝に眉を寄せたランルだが、響希は強引に打ち切った。
「俺らは狭い方が慣れているし落ち着くんだ」
 変なところを強調するのねと思いながらランルは了承した。
「じゃあ、私は向こうの宮にいるから。何か足りなかったら呼んで頂戴。眠るだけなら何の不都合もないはずよ。細かなものは明日にでも取り寄せるから、我慢して頂戴ね」
 そう言って示すのは、今来た道。植樹された林の向こう側に建つ、大きな建物。背の高い木々に阻まれて丸い屋根だけが顔を覗かせている。王たちの住まいはもっと向こう側にあるため、今来た時間よりは早く着ける。
 李苑と響希が頬を引きつらせたが深くは追及しないことにした。
 お休みの挨拶だけをして、ランルは手を振った。


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 ランルを見送って、響希は長くため息をつく。
「王位継承者、ねぇ……」
 響希はようやくその言葉を実感として受け入れた。
 先ほどランルが示した宮は、それ自体が体育館として機能しそうなほど大きなものだった。
「これだけ広かったら剣道の練習もできるんじゃない? ああ、どうして竹刀置いてきちゃったんだろう!」
「埃が立って困るのは誰なんだろうな」
 李苑の言葉はすげなく却下された。
 部屋を確認する李苑と響希の掛け合いを笑いながら聞き流し、翠沙は寝台に向かった。三人くらい余裕で眠れる大きさの寝台だ。そして天蓋がついている。
 腰を下ろすと程よく沈みこみ、あっという間に疲れが払拭されていく気がした。
 翠沙は遠慮なく横になることにした。お風呂に入りたかったけれど、それよりも疲れていて、眠りたかった。お風呂がどこにあるのか探すのも面倒だ。横たわって瞼を閉じる。
 部屋の探索を終えた響希と李苑は、翠沙が寝台に向かったのを視界の端で確認しながら窓の前にいた。寝台と同じ位置にあり、横になっても空が望める。李苑が両手を広げてもまだ足りない、大きな窓だ。
「ねぇ、見える?」
「いや」
 はめ殺しなのかは分からないが、窓に鍵はついていなかった。
「なんなんだろうな」
 ひたすら外を見ていた響希は消化不良な気分を抱えて爪を噛んだ。眉を寄せ、険しい視線は城壁を滑っていく。李苑も同じような気持ちを抱えながら唇を尖らせていた。視線を遠くまで飛ばす。しかし心に引っかかるものは見つからない。
「さすがに城には入ってこないかな。でも、入るまでは絶対に何かついてきてたよね」
「俺たちか、ランルか。まぁ、考えても無駄だろう。いくらランルが想像上の王女様と違うからって、護衛くらいいるだろう。心配することはない」
 森を抜けてからガラディアの城に入るまで、背中に吸い付くように追って来た気配。振り返っても人物は見出せず、李苑と響希は神経を尖らせてきた。
 一度、李苑の暴走を止めると見せて二人がランルから離れても、気配は途切れることなく続いていた。これで狙いはランルではないのかもしれないと思ったのだが、響希たちにはこの世界で付け狙われる理由がない。
 翠沙はもちろん気づいていない。ランルにも気づいた様子はない。けれど城に入る前に一度振り返っていたから、もしかしたら気づいたのかもしれない。どちらにしろ、姿を見せず、目的も分からない。そんな正体不明な何かに対してできることはない。
「あのゾンビたちが蠢きながら追いかけてきてたりして」
 李苑の呟きに想像した響希は顔をしかめた。李苑を殴る。
「今日一日とんでもなく疲れた」
 李苑の抗議は無視して伸びをする。髪ゴムを緩めると、高く結ばれていた髪があっと言う間に崩れた。漆黒は頬に落ちて、突っ張っていた皮膚が少し痛い。かなりきつく結んでいるため、型はなかなか戻らない。
「さっさと来い」
 響希はまだ窓に張り付いていた李苑を呼びながら寝台に向かった。
 翠沙は寝台に横になっている。よほど疲れていたのか、身動き一つしない。いつもと違う様子に違和感が湧いたが、この異常事態ではそれも当然かと納得する。特に翠沙は、周囲の変化をそのまま受け止めるには緊張しすぎるきらいがある。李苑のように順応性があり過ぎるのも困りものだが、限界が近づいて倒れるまで緊張するのも考え物だ。
 響希は部屋の灯りを消そうと視線を巡らせた。
 電気ではない。天井全体がほどよく光り、響希たちを照らしている。
「消せねぇよ、あんなもん」
 最終的に響希は諦めた。明るいままだが疲れているから眠れるだろう。上着を脱ぎ、先に入っていた翠沙を起こさないよう気を付けながら横になる。
「あ、私は真ん中ね!」
 横になろうとした響希の邪魔をするかのように、李苑が滑り込んできた。
 埃が立つほど勢いよく跳ねて来た李苑を罵倒し、翠沙を見る。李苑も慌てて翠沙の様子を確かめた。寝台は結構跳ねたはずなのに、翠沙に起きる様子は見られない。李苑は胸をなでおろして響希を見ると肩を竦めた。まったく堪えていない。真ん中に滑り込む。
 響希はため息をつきながら李苑に布団をかけた。
「寝相が悪かったら蹴り落とすからな」
「はいはーい」
 本当に幸せそうに李苑は笑って、瞼を閉じた。響希が横になる間に眠りに落ちる。彼女ほど寝つきのいい子どもを、響希は知らない。
 いつものことながら李苑の眠りの早さに響希は呆れた。ため息を零し、軽く笑って瞼を閉じた。翠沙たちと同じように、睡魔は直ぐに訪れた。