第三章 【六】

 部屋がまだ暗さを湛えている時分に響希は目覚めた。眠る前に覚えていた、光溢れる光景とはあまりに違う。瞼を開けたまま夢を見ているのかと思った。
 響希は右手の指をそっと動かしてみた。
 ――動く。
 連動する筋肉の揺れは手首を伝わり、二の腕を伝わり、肩にまで微かな揺さぶりがかけられる。そんな僅かなキッカケが響希の意識を完全に覚醒させた。
 響希は軽く瞬いた。これが夢ではないと悟って息を詰めた。
 天井の光は沈黙している。月光が静かに天井を照らしている。滑らかな大理石を思わせる。響希はそのまま天井を見つめ続け、数秒その状態が続いた後にフッと息をはいた。緊張していた体から力を抜くと、体が寝台に深く沈む。起き抜けに襲われることが多い響希としては習慣になっている事だった。
 響希はそっと視線を動かし、天井を端から端まで眺めた。眠る前に一度スイッチを探したが見つからなかった。人物の動きを察知して、自動でスイッチが切り替えられるようになっていたのだろう。
 便利な物だと思いながら響希は寝返りを打った。窓から見える月の位置で、寝入ってからまだそれほど時間が経っていないと知ったのだ。
 特殊な環境下で育ったため眠っていても周囲の変化には敏感だ。それが殺気なら尚のこと。危険が何もなければ朝まで熟睡できる。それが途中で目覚めるのは酷く珍しい。この異常事態に緊張していたのかと、響希は苦く思って眉を寄せた。自分の溜息を聞きながら瞼を閉じようとして跳ね起きた。
 ――隣にあるべき人物の姿がない。
 響希と翠沙の間に滑り込み、鬱陶しいほど幸せそうな笑顔を浮かべて眠った李苑を思い描いた。彼女が横になっていた部分に触れてみたが温もりはない。
 響希は部屋を見渡した。月光の中で動く影はない。
 響希は逡巡して寝台を下りる。翠沙がまだ眠っているので寝台を揺らさぬようにする。そうして寝台の下を覗き込んだが、そこにも李苑の姿はなかった。本人が知れば激怒するだろう捜し方である。しかし周囲からすれば「有り得る」と完全否定はできないのが実情だった。
 響希は眉間の皺を深めた。
 部屋にはいない。そうなれば自分の意志で外へ出たという事になる。見知らぬ気配が部屋に入ってくれば、必ず響希か李苑が眠っていても気付く。
 響希は脱ぎ捨てていた上着を羽織った。音を立てぬよう廊下へ出て扉を閉じる。翠沙一人を残すのは気が引けたが、李苑を野放しにしておく方が危険のような気がした。
 足元から昇る冷気に体を震わせた。吐く息は僅かに白く染まっている。
「寝ぼけて外に行った訳じゃねぇよな」
 響希は左右に視線を動かし、胡乱な瞳で呟いた。
 もしかしたらトイレに行って迷っただけかもしれない。そう片付けようともしたが、部屋に備え付けの物があったと思い直して溜息をつく。李苑に関してだけは、どんな可能性でも否定できないのが痛い。
 響希はひとまずランルの宮を目指すことにした。
 歩いていれば妙案が浮かぶかもしれない。浮かばなくても、ランルであれば人数を動かして捜索させることが可能だろう。
 もちろんそこまで緊急だとは思えない。それどころか、単に眠れないから散歩に行った可能性が高い。何事もなかったような顔で戻ってくるのが関の山だろう。もしくは散歩に行った途中で迷い、自力で部屋に戻れなくなったのか。可能性は限りなく高い。
 普段であれば放っておく響希であるが、今ばかりはそうできなかった。響希は自分がなぜこれほど苛立たなければいけないのかと疑問に思いながら足を早めた。
 ランルの宮へ行くには二つの方法がある。
 このまま中庭を突っ切っていく方法。二つ目は二階の渡り廊下を進む方法だ。
 響希は特になにも考えず、ただ単に、近くにある階段を上った。歩く音以外には何も聞こえない。
 響希は二階の渡り廊下を足早に通り過ぎながら中庭を見た。何気ない風景の中、中庭の中央に据えられた噴水で視線が止まった。なぜか素通りできない物を感じる。首を傾げて橋から身を乗り出す。噴水の側に誰かが倒れているように見える。
 焦点がその人物に絞られた。誰であるのか理解できた途端、叫んでいた。
「李苑!」
 響希は手摺に足をかけて飛び降りた。壁を蹴って落下の勢いを横に殺す。横に滑る地に手をつけて再び跳ね上がり、李苑の側に着地した。
「おいっ?」
 李苑の返事はない。
 触れた肌は冷え切っていた。いつから倒れていたのか。その冷えようは長い時間を感じさせる。
 響希は誰かの姿が見えないかと辺りを見渡した。
 その瞬間だ。
 響希は舌打ちした。
 明らかに強い視線が響希を貫いた。姿はまだ見えないけれど、首の後ろがチリチリと警告を送ってきていた。セフダニアの森を出てからずっと後をつけて来ていた気配だ。それが明確な殺意となって響希を――もしくは李苑を、捉えたのだ。
 これで標的ははっきりとした。
 ランルではなく響希たちだ。こちらの世界へ来たばかりの響希たちに何の理由で殺意を抱くのか分からないが、厄介者を引き込んだという苛立ちが響希を包んだ。武器になりそうな物ぐらい持ってきていれば良かったと後悔する。
 響希は李苑を横たえたまま腰を上げた。李苑を担いで部屋まで戻る余裕はない。
 息を整え、現われた敵を迎え撃つ。

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 翠沙は寝台の中で身じろぎした。
 蒼白な顔だ。
 もしも響希と李苑が翠沙を見たなら、何が何でも起こそうとしただろう様子だった。
 翠沙は悪夢を見ていた。
 深い闇の中で彷徨う。誰かを捜していた。けれど捜し人は見つからず、疲れ果てた翠沙はその場にしゃがみこむ。そうすると決まって囁きが聞こえてくる。どことも知れぬ闇の中から。
 ――裏切り者。
 そんな意志を含み。憎悪が篭った声で、ひたすら翠沙を罵る。
 翠沙にはこれが夢だと気付いていた。しかしどうやって目覚めれば良いのか分からない。震える手で両耳を塞いだが効果はない。
「やめて……」
 耐え切れずに翠沙が呟くと、闇は嬉しそうに震えるのだ。
 闇は形を成して翠沙となる。しゃがみこむ翠沙の目の前に立って、翠沙と同じ顔で翠沙を見下ろす。
「やめてよ……」
 翠沙は泣きだしそうな顔を俯かせて首を振った。闇は消えない。
 翠沙の顔をした者は、翠沙のものではあり得ない笑みを浮かべて、翠沙の体に剣を突き刺した。
 翠沙は一瞬、息が止まったように感じられた。
 死なない事も分かっていた。
 これは夢でしかないのだ。
 そう思おうとする翠沙だが、痛みは本物のようにあった。流れ行く血が赤々と大地を染めていく。翠沙の体からは力が抜けていく。座っているのも辛くて横に倒れる。
 翠沙の姿をした闇は喉を震わせて笑った。
「お前の仲間は殺してやろうね。お前には必要のないものだろう?」
 翠沙は目を瞠った。
「やめて……」
 なぜそんな事を言うのか、信じられなかった。
 他ならぬ自分の姿で紡がれる言葉を呆然と聞いている。これが本当に自身の望みなのかもしれない、と意識が乗っ取られそうになる。
 痛みに苛まれて現実へと意識が浮上する。そんな感覚の中で翠沙は、暗闇から現われた自身と視線を交錯させた。
「負けないから……」
 現実は間近に迫っている。
 目覚める寸前、翠沙はもう一人の自分に手を伸ばした。しかし彼女は背を向けて去ろうとする。
 ――行かないで。
 祈りにも似た想いで願った翠沙は、扉が閉まる音を聞いたと思った。その音に目を覚ます。しかしもう何の音も聞こえなかった。
 静寂と仄かな暗闇。その中で翠沙は体を起こした。寝台に一人でいる事に気付いた。
「響希。李苑?」
 部屋を見渡しながら呼んでみる。月光が味方しているとはいえ部屋の隅まで見通せている訳ではない。利かない視界の中に動く影はない。
 目覚める直前に聞こえた扉の音は、どちらかが出て行った音なのかもしれない。
 扉に視線を向けて、翠沙はそう思った。扉が閉まってから時間はそれほど経っていないはずだ。急げば追いつくかもしれない。
 翠沙は滲んでいた涙を拭って寝台を下りた。
 あのような悪夢を見た後で独りになるのが怖かった。響希と李苑の笑顔を見て安心したい。夢の中で感じた不安は杞憂だと信じさせて欲しい。
 彼女たちは光の中にありすぎて眩しいほど。暗闇を抱える自分には、触れてはいけない聖域のような存在だけれど、二人の強さは常に翠沙の暗闇を取り除いてくれていた。
 翠沙は扉を開けて廊下を窺い見た。人影はない。
 そのまま廊下に出ようとしたが、温度差に気付いて部屋に戻る。着込めそうな上着を羽織ってもう一度廊下に出ようとする。
 ――棚の横に肖像画がかかっていた。当初、部屋に入った時には気付かなかった物だ。
 月明かりの中で目を凝らした翠沙は、額縁に「ルヴァイヤ」と彫ってある事に気付いた。
「響希に似ている」
 艶やかな黒髪と意志の強そうな瞳。纏う雰囲気は響希を彷彿とさせた。
 けれど、肖像画からは響希が纏う威圧感を感じさせない。響希ほど髪が長い訳でもなく、髪は胸の辺りで綺麗に切り揃えられている。
「ルヴァイヤ……」
 翠沙はぽつりと反芻した。
「李苑!」
 外から響希の悲鳴が聞こえたと思った。
 翠沙は弾かれたように廊下へ飛び出す。辺りを見回した。
 どちらから聞こえたのか分からない。
 逡巡した後、内宮ではなく中庭へ続く進路を選んだ。
 中庭からは、冷えた外気には不釣合いな生温い風が吹き込んでいた。外へ走る翠沙の視界に響希が映る。立ち上がった彼女の足元に倒れているのは李苑だ。
 翠沙は更に足を速めて駆け寄ろうとしたが、漂う異様な雰囲気に気付いて立ち止まった。
 何かが翠沙の脳裏を掠めた。それは形を成す前に消えてしまう。
 翠沙は先程の悪夢を思い出して立ち尽くした。