第四章 【一】

 ランルが部屋を訪れたのは夕方のことだった。
「大会?」
 微笑むランルに、李苑たちが首を傾げる。ランルはそのまま「そう」と頷いた。
「国で主催している大きな大会よ。ここで好成績を出すことができれば国に雇用されるわ」
 響希は「下らない」と吐き捨てる。興味は一瞬にして失せ、ランルのことを疎ましくさえ思う。国に雇われることがどれだけの名誉だというのか。冷たく睥睨する。
 李苑は響希の思いに同意するように視線を向けたが、少しだけ考えるような間を置いてランルに向き直った。確かにガラディアには恩も義理もなく、日本には自分たちを待つ人々がいる。けれど。
「雇われれば宿舎も与えられる?」
「ええ、もちろん。あなた達の場合は私の近衛にするつもりだから、実際には宿舎に入らないと思うけど――」
「でも住民権はできる訳だね」
「くだらない。たとえ優遇条件が出されようが、俺は出ないからな」
 李苑は寝台に腰掛けながら響希を振り返った。
「えー。でもさ、今の私たちはどう考えても不審者だよ? 身元不明だし事情も明かせないんだから。それでここに留まり続けようと思っても無理だよ。いつまでいる事になるのか分からないしさ。ランルが幾らいいって言ったって、周りが黙ってないでしょ。いつか追い出されるよ」
 響希は舌打ちした。李苑はときどき妙に鋭くなるから侮れない。
 李苑の正論にランルは軽く笑って頷いた。
「そうね。確かにその可能性は高いわ。もともと私の我侭なのだし、いつか――政治的に追い出されてしまうのかもしれないわね」
 まるで脅しだ。響希は低い唸り声をあげる。
「――貴方の近衛になって、戦場へ駆りだされることはないの?」
 一連の流れを見守っていた翠沙が体を乗り出した。
 ランルは苦笑して首を振る。
「ないわ。戦争なんて起こらない、と言ったでしょう。宝珠国に戦争を仕掛けるような馬鹿はいないわ」
 ランルの胸元で宝珠が淡い光を纏った。セフダニアで見せた圧倒的な力を忘れた訳ではないだろうと主張する。
「スイサに至っては王宮医療院へ配属されることになるわね。もちろん表面上だけなんだけど」
 ランルはもう一度響希たちを振り返り、どうする? と尋ねた。
 李苑は握りこぶしを固めて満開の笑顔を見せた。
「もっちろん、参加に決まってるじゃない! 国が主催っていうくらいなんだから、相当な人たちと戦えるんでしょう? 剣道の全国大会に向けていい腕鳴らしができるよ!」
「その大会と同じにするな」
 響希は呆れた目を李苑に向けた。そして自分も渋々頷く。
「念を押すが、表面上だけなんだな? 俺らが近衛になるというのは」
「ええ。あなた達には自由を約束するわ」
 ランルと響希の視線が交錯した。黒曜石の光は嘘を許さぬように、鋭くランルを見据えている。ランルは知らず体を緊張させながらその視線を受け止めた。
 やがて響希がふと息を吐く。
「分かった。それで、いつなんだ。その大会は」
 それなりの準備は必要だろうと、腕組みをしながら問いかけた響希に、ランルはにべもなく言い放った。
「明日よ」
 響希の目がランルを捉える。二人の話を聞いていた李苑も、目を点にしてランルを見た。
「明日?」
「明日って、ランル、だって……」
 呆然と呟く二人は視線を部屋の窓に向ける。大きな窓の向こう側には、沈みかけて赤々と光を放つ太陽がある。あと一刻もすれば日没だ。
 ランルは二人の様子を見ながら笑みを刻んだ。
「明日」
 追い討ちをかけるように、更に言葉を重ねる。
「武器のたぐいなら私が用意させるわ。期待してるわね」
 どこか怒りを孕むような笑顔を見せながらランルは踵を返した。淡い蒼のドレスが揺れる。涼やかな衣擦れの音を響かせてランルは部屋を出て行った。李苑と響希は扉を見つめたまま動かない。
「……おい李苑。体は平気なのか」
「……それくらい平気に決まってるじゃない」
 翠沙は寝台に腰掛けて微笑んだ。
「頑張ってね。私も期待しているから」
 さきほどランルに向けた視線を優しく変えて、翠沙は二人を眺める。
 二人は複雑な表情で翠沙を振り返った。
 昨夜の疲れがあったのか、三人が目を覚ましたのはつい先ほどのことだ。気だるい眠気に苛まれながら体を起こした時にランルが訪れた。
 翠沙は疲れたように寝台に横になった。そっと瞼を伏せて呟いた。
「昨夜の影――あれが、あなた達が言ってた気配の正体?」
「多分な」
「うーん。私は実際に見てないからなんとも言えないけど」
 響希が溜息をついて李苑を見る。
「お前、何であそこで寝てたのか覚えてないのか?」
「知らないってば。あ、夢遊病なんかじゃないからね!」
 疑惑の目を向けられて、李苑はむきになって否定した。響希を真似て腕組みをし、頭痛を覚えるほど考え込む。
「私をエサにして誘い出したの? ランルか響希か、どっちを?」
「知るか」
 響希は寝台に腰掛けて足を組んだ。昨夜は自分たちを追ってきたのだと確信していたが、誘い出されたのは果たしてランルだったのか、今となってみては判然としない。敵の目的が再び分からなくなった。
「ランルが来たら、あいつは消えたぞ」
「じゃあ響希狙いかなー。どんな恨み買ったのさ」
 茶化す李苑の後頭部を叩き、響希は視線を部屋の隅に向けた。昨夜のできごとを脳裏で再現する。間近で対峙したはずなのに、相手の顔は覚えていなかった。覚えているのは恐ろしいほどの虚無を湛えた相手だった、という事だけだ。真っ黒な影を背負ってただ観察しているような存在。
 翠沙が首を動かした。
「多勢に無勢だと悟ったのじゃない? 貴方とランルを一人で相手にするのは容易じゃないわ」
 響希は視線だけを翠沙に向けてその顔を眺める。半分が枕に埋もれて見えないが、翠沙は徐々に血色を取り戻してきたような頬をしている。
「狙われてるという点が腑に落ちない」
 響希は憮然と呟いた。いったいなぜこんな事になったのだろうか。
「後でランルを問い詰めるか」
 響希がボソリと呟くと李苑が直ぐさま反応した。
「響希が問い詰めたら怖いから駄目! 私がやる」
「お前がやったら良い様に逃げられるだろう」
「そんなことないもん!」
「はいはい」
 響希は肩を竦めて寝台に倒れ込んだ。仰向けになって天蓋を見る。
「そんなことより日本に帰る方法はないのかよ」
「今のところ、打つ手なしね」
 響希は溜息をついた。