第四章 【二】

 ガラディア国が主催となって行われる剣技大会は、一年に一回開かれる、言うなれば兵士雇用のための公開試合だった。けれど本当に雇用されるかどうかは王宮人事局の面接が必要であり、また個人意志に任せられる。実際に雇用された兵たちも更なる高みを目指して参加するため、単なる腕試しとして参加する者たちも多い。
 大会は年を重ねるごとに規模を増し、今では噂を聞きつけた猛者たちが、遠くの国からも参加してくるようになった。ガラディアに到着するまで半年かかる場所からの参加者を見た時は、大会参加の受付をしていた兵は驚いたものだ。
 大会は王宮の一角で行われる。年々大きくなる大会のために、国家予算をつぎ込んで完成させた闘技場があるのだ。
 大会が始まって一日目。円形闘技場を囲むように作られた観客席には、大勢の見物人が詰め掛けていた。観客席に入れなかった者たちも、王宮の外で祭りを楽しんでいる。もしくは、聞こえる歓声に一喜一憂しながら空席が出ることをひたすら待っている。
 ランルは貴賓席の二階にいた。闘技場に向けてバルコニーのように作られた建物だ。落ちぬよう最低限の柵が設けられている。その部屋に、李苑や響希、翠沙たちの椅子を用意させ、並んで闘技場の様子を観察していた。この大会に乗じて良からぬ考えを企てる者もいるため警備はどこよりも厚い。部屋の隅に控える護衛兵や使用人たちは、初めて見る響希たちの顔に不審な表情であったが、仕えるランルにそのような心情を見せることはもちろんなかった。
「うそ」
 闘技場を見ていたランルが驚いたように一言だけ洩らし、双眸を瞠った。
「勝者、リオン!」
 観客席から湧き上がる爆発的な歓声。闘技場にいるのは司会者と李苑、そして今回の対戦相手だけ。試合開始から数分で相手を制した李苑は得意げな顔でランルたちがいる貴賓席を振り返り、胸を張ってブイサインを掲げている。
 ランルの隣でその様子を見た翠沙が微笑んで手を振った。
 ランルはいまだ信じられないように李苑を見つめる。膝をついた対戦相手と、その彼よりも二回りほど体が小さな李苑とを見比べる。到底、李苑に勝ち目はないだろうと思っていた。それでもセフダニアで見せた剣技で近衛に相応しいと推薦できるような善戦はしてくれるのだろうと、そう思っていた。李苑にしてみれば酷い過小評価であった。
「だって、彼は去年の優勝候補だったのに……」
 だからこそ一回戦で負けても仕方ないかと、妥協しようとしていたのだ。
 とんでもない思い違いだ、とランルは片手で自分の額を覆った。
 翠沙が微笑みを向ける。
「今回は無差別な勝ち抜き戦だからね。体格差がある相手ばかりだもの。いつもとは戦法を変えて、速攻勝負ね。持久戦になったら李苑の体力がもたないわ」
「そりゃ、口で言うのは容易いけど……」
「だから李苑は凄いのよ」
 まだ動揺の残る口調のランルに、翠沙は微笑んで断言した。誇らしげに胸を張る。それを見たランルはもう苦笑するしかなかった。
「そうね」
 ランルが同意した時だ。
 こちらへ駆けてくる身軽な足音が聞こえてきて、ランルたちは振り返った。階段を上ってきた足音は小さな息も連れてきている。階段を塞ぐように控えていた護衛兵がまずその人物を認め、脇に避けた。続いて元気な声が部屋に飛び込んでくる。
「勝ったよーー!」
 部屋に入ってきたのは言うまでもなく李苑である。小さな体で一杯に喜びを表現し、鞘に収めた剣を持ったままで翠沙に飛びついた。本来であれば武器の類など取り上げられるのだが、こと李苑にとっては特別免除が設けられていた。護衛兵たちは難色を示したが、結局はランルの粘り勝ちだった。
 李苑を受け止めた翠沙は涼やかな笑い声を上げながら一緒に喜んだ。
「おめでとう、李苑。まずは一勝ね」
「うん! このままの勢いでドカーンと、狙うは優勝――あれ。響希は?」
 拳を握り締めて賑やかな決意表明をした李苑だが、部屋に響希の姿がないことに気付いて拳を下ろした。
「さきほど呼ばれて行ったわ。そろそろ響希の試合が始まるみたい」
「そうなんだ。思いっきり自慢してやろうと思ってたのに、なーんだ。つまんないの。それにしても試合の順番も知らないんだね、私ら」
 一般の参加者たちには初期のプログラム表が渡されているだろうが、それは随時変動する。一勝を獲得した李苑の次の対戦相手は、直前になるまで決められない。全ては大会の運営委員が采配を揮うようだ。
「ああ、響希が出てきたわ」
 翠沙の言う通り、闘技場に響希が姿を現していた。李苑は柵から身を乗り出しながらそれを見た。柵の上に座ろうとしたのだが、さすがにそれは護衛兵に止められた。更には翠沙も険しい眼差しとなったので、李苑は無理を通さず身を乗り出すだけに留めた。
「あれ。相手が出てこないね」
 李苑の言葉に、翠沙とランルも首を傾げた。
 闘技場には響希と司会者だけがいる。通常、対戦を組まれた者同士で出てくるものなのだが、司会者も困惑顔で辺りを見回しているだけだ。響希は素知らぬ顔でただ待っている。観客たちも次第に事態に気付き出して小さなざわめきが広がっていく。
「どうしたんだろう。参加者って普通は控え室にいるんだよね」
「ええ……自由に王宮に入ることは許されていないし、見張りの兵も置かれるから……」
 ランルは困惑顔で顎に人差し指を当てた。言葉を濁し、そしてふと眉を寄せた。
 闘技場では司会者がもう一度辺りを見回し、やれやれと深い溜息をついていた。彼はポケットから何かを取り出すと口許へ持っていく。響希がそれを興味深げに見守っていた。
 そして。
『ガラディア国主催、第27回、剣技大会、第6試合が始まります。対戦者、キョウキ、サラン。大会ルールに則り、この放送終了より5分後に対戦者が姿を現さない場合、闘技場に残っている者が勝利者となります。この放送は王宮中に流れる物となります。参加者は急ぎ、闘技場へ向かうよう願います』
 李苑は思わず上を仰いだ。声が頭上から降ってきたような気がしたのだ。
 翠沙はその放送に苦笑し、次いでその放送を聞いたランルが驚いたような仕草を見せたことに視線を向けた。
「えー。響希が不戦勝なのって、納得いかなーい。つまんなーい」
 柵の上で唇を尖らせる李苑だ。
 ランルは羽織っていた上着を脱ぐと椅子の背もたれに掛けた。不審な表情をする皆の前を通り過ぎ、李苑が先ほど使用していた大会の剣を手にする。
「ランル?」
 皆を代表して翠沙が声を掛けた。ようやく李苑が振り返り、ランルの姿を不思議そうに見る。ランルが纏っていたのはお忍び用と称していたものだった。
 ランルは髪飾りや腕輪などの装飾品を無造作に取り外すと椅子の上に置く。そして李苑の隣へと歩き、そのまま柵に足をかけて飛び降りた。
「ランル!?」
 予想していなかった行動だ。皆の声がランルを追いかける。李苑などは自分が落ちる危険性も考えずに手を伸ばしすぎ、バランスを崩して翠沙に持ち上げられた。
 背後の様子を見たランルは苦笑し、その騒ぎが一段落つくと顔を響希に向けた。
 そのまま何の躊躇いもなく闘技場に上る。司会者の驚く視線の中、響希と向かい合うように立った。対戦者の位置だ。
「まさか一戦目で貴方に当たるなんてね」
 響希は腕組みをした。
「これはそういう問題か?」
「そうよ」
 ランルの顔を見知っている観客たちが戸惑いつつ歓声を上げた。
 ランルは剣を抜き放つ。剣と言っても、試合用に刃を潰してあるものだ。しかしそれでも怪我をしないとは言えない。攻撃が当たれば、悪くすれば骨折もある。皇女であるランルがそのような場に参加しても差支えないのか、響希はそんな意味を含む視線を司会者に投げた。司会者は戸惑ったまま響希とランルを見比べる。
 ランルは肩を竦めた。
「いいじゃない。去年だって飛び入り参加したのよ?」
「しかしあれは、優勝者との特別な手合わせであって……」
 司会者は助けを求めるように周囲へ視線を向けた。自分だけではランルに意見など出来ない。普段は会話も交わせない高みにいる貴族なのだ。
 王たちが座る一階の貴賓席でもちょっとした騒ぎが起こっていた。ランルを止めるべく闘技場へ走り寄ろうとした、それなりの地位に就いたもの達がことごとく足止めを食らっていたのだ。見えない壁に阻まれたように、貴賓席から出ることができないでいる。貴賓席の外にいる兵士たちでは身分が低すぎてランルに意見できる勇気が持てない。
 王妃が呆れたように溜息をついて席を立った。彼女たちには、兵士たちを足止めしているものが何の力なのか正確に知っていた。王妃はランルを咎めることもなく、ただ二階へと姿を消した。
 王がその後姿を見送って苦笑する。椅子に肘杖をつき、王妃とは反対側にいたもう一人の女性に目配せした。しかし彼女はその視線を受け止めただけで何の行動にも移そうとしない。王妃よりも奥まった位置に据えられた椅子に座っているだけだ。
 王は響希に視線を戻して、少し間を空けたあとに告げた。
「よい、やらせてやれ。キョウキ殿。手加減は無用だ。私が許す」
 王の声は司会者の声と同じく、遠く離れた響希にもはっきりと聞こえた。大して張り上げたようには思えなかったので、そこにも何らかのカラクリがあるのだろう。
 響希は心底嫌そうな表情となった。いくら手加減無用だと言われても、このような観衆の目がある中で皇女に怪我など負わせられない。しかしランルは王の言葉を鵜呑みにして安心したように響希に向き直る。その胸元には蒼く光る宝珠が掲げられている。
「さぁ、では始めましょう」
 司会者がようやく開始の合図をした。

 :::::::::::::::

 二階の貴賓席にいた李苑と翠沙は、一連の流れを呆れた表情で眺めていた。ランルたちのやりとりは聞こえていないが、雰囲気や唇の動きから正確に読み取っていた。
 そして始められた試合。それは李苑にとって単なる模範試合にしか見えなかった。
「これって、私らがランルの護衛につくための演技試合なんでしょう? それをランル自身が邪魔していたら、響希の立場がないような気がするんだけど」
「ランルにも分かっているわ。そこまで考えてない訳じゃない。けれど――きっとそれでも、譲れないものがあるのよ」
 いつになく翠沙の声は沈んでいた。李苑が視線だけで翠沙を見ると、闘技場を見る彼女の目が険しくなっていた。李苑は視線を戻して頬を膨らませる。
「分かってて邪魔するのって、何か不愉快ー」
 李苑は顎を柵に乗せた。行儀の悪い姿勢で二人を見守る。
 ふと翠沙が声を明るく変えて李苑に問いかけた。
「それで。李苑は、響希とランルのどちらを応援するのかしら?」
 李苑は思わず唸った。困ったような顔で翠沙を見上げるが、翠沙はニコニコと笑顔を崩さない。意地悪に追い詰める。
「傍観者だよ私は」
「あら、響希もランルも可哀想に」
「そんなことないよ! そんなこと言うなら、翠沙はどっちを応援するのよ」
 きっと翠沙だって答えられないに違いない。そんな思いで問い返すと、翠沙は意外にも即答した。
「私は響希を応援するわ」
 李苑は目を瞠る。
「そう、なの……?」
「だって私はここに来て日が浅いもの。ランルと響希を比べたら、付き合いが長いのは確実に響希よ。友達を応援したいと思うのは自然でしょう?」
 李苑は消化不良な物を食べたように複雑な表情となった。翠沙の問いに答えることなく視線を闘技場に戻す。再び顎を柵に乗せ、観察に戻る。
 闘技場ではまだ模範演技のような試合が続いていた。相手の隙を窺って牽制を掛ける。それの繰り返しだ。李苑から見れば、仕掛ける機会は幾らでも作られている。けれど試合をしている二人はその機会を常に流し続けている。
「つまんなーい」
 李苑は苛立ちも含めて棒読みで叫んだ。
 その時、李苑の背後から鈴を転がすような笑いが響いてきた。翠沙ではない。
 李苑と翠沙は振り返り、階段から一人の女性が姿を表すのを目の当たりにして驚いた。
「王妃。なぜ……」
 その先に何を繋げばいいのか分からず、翠沙は口を閉じた。
「リオンは素晴らしい剣技の持ち主と聞いておりました。先ほどの試合を見ていても頷けます。それに加えて今の発言。見る目も確かなのですね」
 優しい微笑みを浮かべる王妃はランルと良く似た面立ちをしていた。淡いドレスを翻して部屋に入ってくる。気付いた兵や使用人たちは膝をついて頭をたれたり、または深々と頭を下げていた。李苑は呆気に取られてその様子を見守る。自分が場違いな気がして落ち着かない。
「えっと、王のそばにいなくて宜しいんでしょうか?」
 李苑は自分にできる精一杯の言葉で問いかけた。
 王妃は微かに微笑むだけで答えない。李苑たちの近くに寄って、立ち止まった。
「ランルは、貴方たちの眼から見てどう? 少しは素質がありそう?」
 王妃はそのまま柵に歩いた。そこからランルたちの試合の様子を見守る。
「少しどころか凄いですよ!」
「けれどそれは宝珠の力を借りてのこと。本来の力はどれ程の物なのかしら」
「信じていないのですか、貴方の娘を?」
 王妃の隣に駆け寄って笑顔で告げる李苑よりも、王妃は翠沙の言葉に顔を上げた。振り返って言葉を詰まらせた。翠沙は人を見透かすような、強い瞳で王妃を見ていた。
「ランルは強いわ。宝珠は常に力を発している訳ではない。ランルの実力も相当なものだと思いますよ」
 非難染みた翠沙の声に王妃は怯んだ。頬に赤味が差し、視線を逸らす。ただ「そうね」とだけ頷いた。
「次の王は間違いなくあの子なのでしょうね……」
 瞳を細め、どこか遠くを見るように王妃は呟いた。消えてしまいそうなほど儚い。
「まるで、不満だというように聞こえますけど……」
 翠沙は微かに眉を寄せて呟く。しかし王妃はその声には何も反応を返さない。翠沙は別の質問を投げかけてみる。
「宝珠――って、貴方たちにとってはそれほど大切な物ですか?」
「まるで、貴方は要らないというような質問ね」
 反応がないと思われた王妃であるが、意外にも反応はあった。小さく笑って翠沙を見る。
「宝珠がなければガラディアは滅ぶわ。私たちにはあの存在と力が必要なのです。必ず」
「そう……」
 翠沙は王妃から視線を外すと闘技場を見た。ランルの首から下げられている宝珠。今は何の力も持たないただのガラス球。
「ランルってさ、誰に剣習ったの?」
 それまで会話から爪弾きにされていた李苑が口を挟んだ。
 二人の視線が李苑に集中する。
「普通、皇女様って最低限の防御力持ってればいいだけじゃない? 手に豆作って、がさがさに荒れるくらい剣の練習する皇女様なんて想像できないんだよね」
 李苑の言う“普通の皇女”という想像の基準がどこにあるのか分からないが、確かにそこまでして剣を習わなければならない立場にないことは事実だ。皇子であればまだしも、皇女であれば護衛の数も半端ではないだろう。武道に興味を持つという事も稀に思える。
 王妃が溜息をついた。
「そうなのよ。周りがどれほど言い聞かせてもあの子は考えを曲げないの。自分が自由になるためには自分が強くなるしかないと言って」
「自由?」
「あの子にとって、護衛は監視と同意語らしいわ」
「なるほど」
 李苑は深く納得した。脳裏には、総理大臣にぴったりと寄り添うSPの姿が浮かんでいた。あれほど近くに寄られた状態が一日中続くのは、李苑でも避けたい事態だ。
「決まった剣の指導者はおりませんわ。内密に、街の施設に通っていたこともあるそうですし、流れ者の剣士を捕まえて指導を仰ぐこともあったそうです」
 李苑と響希は、ああそれでか、と妙に納得した。
 見も知らぬ自分たちを、渋々ながらも直ぐに王宮に泊めることができたのは、ランルが常日頃からそのような行動を取っていたからなのかと。幸か不幸か、王たちにも免疫が出来ていたのだろう。
 王妃は思い出話をするように遠くを見たまま、瞳を微かに緩めた。
「飛躍的に強くなったのは去年からね。去年、この大会で優勝したサウスに、剣を習っていました」
 李苑は瞳を瞬かせた。
「えと……“サウス”?」
「李苑、人の名前よ。南ではないわ」
 李苑が何を思ったのか、正確に読み取った翠沙は静かに訂正の声を入れた。その素早さに李苑は「さすが翠沙」と妙な感心をする。
「その人がランルの先生? 強いんだ?」
「ええ、とても」
 王妃は視線を李苑に移して微笑んだ。
「あの子は無理に自分付けの近衛に任命して、王宮に住まわせていたわ。私達も、それであの子が素直になるのならと、敢えて否定はしませんでしたけれど」
「その人は今どこにいるんですか?」
 李苑はキラキラと瞳を輝かせながら体を乗り出した。ランルの剣の師匠であれば相当に強いに違いない。李苑が道場の師範になってからというもの、彼女は対戦相手に恵まれなかった。悪いが生徒は全員が李苑より格下となり、他道場へ行ってもそれは同様だった。他道場の師範たちをも、李苑は既に超越していたのだ。
 両親が遺した道場を継いだ李苑であるが、自分の腕を磨けないのでは不安がどんどんと溜まっていく。唯一互角に戦えるのは響希であるが、彼女の場合は主力が銃器であるため、剣では滅多に相手にされない。いちいち対戦の場を設けるほど時間があるわけでもない。
 李苑は今回の大会を利用して、普段の鬱憤を思い切り晴らそうと企んでいた。
「頼んだら私とも手合わせしてくれるかなぁっ?」
 興奮を抑えきれないように翠沙を見る李苑に、翠沙は苦笑した。しかし李苑の期待はあっけなく裏切られた。
「サウスは先々週にこの国から去りました。リオンと対戦することは叶わないでしょうね……」
「ええー!」
 李苑は明らかにガッカリとした表情を隠しもせず、不満がたっぷりと詰め込まれた悲鳴を上げた。そして本当にがっくりと肩を落とし、額を柵につけてうな垂れる。
 王妃は微笑んで踵を返した。
「ランルのこと、お願いしますね」
 何の願いか、王妃は振り返らず、まるで独り言のように告げた。返答を待たずに階段へと姿を消す。
 見送った李苑は翠沙と顔を見合わせた。
「えーっと……なんで“頼む”な訳?」
「さぁ……」
 尋ねられても、翠沙にも答えられぬことだった。
 李苑は体を階段に向けたまま、背中を柵にもたれさせた。そして首だけで闘技場を振り返り、仰け反りながら観戦する。試合はまるで進展がないように思われた。
 やる気の無い李苑の態度に翠沙は肩を竦め、視線をランル達に移した。
「近衛って、簡単にやめられるものなのかしらね」
 柵近くに寄せた椅子に座りながら翠沙が呟く。何気ないその呟きに、李苑は反応した。一瞬の間を開けて両手を打ち鳴らせた。何かを思いついたような表情だ。
「そっか。そうよね。うん、よし」
 自己完結させる。そして李苑はくるりと体を反転させると、両手を口許に当てた。
「響希ーー頑張れーー!」
 力の限り大声で叫ぶ。
 ランルはその声に一瞬気を取られた。響希はその隙をついて足払いをかける。ランルが尻餅をつく。響希はそのままランルの首を取りかねない勢いで剣を突きつけた。観客が一斉に息を呑み、ランルも動きを止める。響希はランルの首に刺さる寸前で剣を止めた。
「試合終了ーー!」
 息を呑んだのは司会者も同じだ。響希の剣が止められたことにいち早く気付き、これ以上皇女を危険な目に合わせてたまるものかと、大声で試合終了を叫んだ。その声を合図に響希は剣を引く。平然とした表情で鞘に収める。呆然としたままのランルに手を貸して立ち上がらせた。
「……強いわね……」
 ランルは諦めに似た溜息を吐き出した。響希は片眉を上げたが追及することはない。そのような時間を奪うように司会者が急かす。
 憂いを帯びたランルの瞳は響希を映さない。李苑から借りていた剣を響希に押し付けると、ランルはそのまま足早に立ち去った。その後姿に、響希は溜息を零した。