第四章 【三】

 闘技場から下りたランルは真っ直ぐに自室へ戻った。
 足元だけをジッと見つめ、祭りで浮かれている王宮の人々を横目に、ランル一人だけに別の重力がかかっているかのような足取りで自室へ戻った。
 部屋の前には誰もいなかった。いつも扉守をしている衛兵たちも大会に駆り出されている。ランルは自分で部屋の扉を開け、一番の女官であるユーハの笑顔を見た。
「お帰りなさいませランル様。今回は随分とお早いお戻りでしたのね」
 ランルは入口で立ち尽くした。素早く歩いたため乱れた髪の毛を少し整えようとする。それを見たユーハが近づいてきた。
「それじゃあ駄目ですよ、余計に崩れてしまいます」
 ユーハはそう言いながら、制服のポケットから髪飾りを取り出した。ランルの物ではなくユーハ自身の物だ。里帰りした際に通った下町の露店で売られていた物らしい。蝶々の姿をした髪飾りには、それほど価値があるとは思えない、ただのガラス玉の欠片が埋め込まれている。
 ユーハはランルの手をどかすと手際よく髪をまとめて髪飾りをつけた。満面の笑みをランルに向ける。
「私の髪飾りは失くしたら嫌ですよ。それと、それをつけるのはこの部屋だけですからね」
 ユーハは唇に人差し指を当てて微笑む。ランルもつられて微笑み、頑なだった心が僅かに溶けたのを感じた。
「今は誰も部屋に通さないで頂戴」
「心得ました」
 ユーハは何も聞かずに了承した。
 窓に干していた大きなテーブルクロスを畳みながらランルに頷く。
 ランルはそっと安堵しながら広い部屋を横切り、寝室へ入った。扉を閉めると一切の音が遮断される。何にも心煩わせることがないように作られた、ランルの為だけの部屋だった。
 ランルは壁際へ歩くと窓を開け放った。その途端に静寂は破られて歓声が飛び込んでくる。連れてきたのは爽やかな風で、ランルはそっと半眼を伏せた。賑やかな歓声に包まれて瞳を閉ざすと、一年前の情景が鮮やかに蘇るようだった。
 ランルは不意に唇を引き結ぶと瞼を開けた。表情を硬く強張らせたまま寝台に飛び込む。
 去年までは皇女だからと何からも遠ざけられていた。自分で出来ることなどごく僅かであった。それこそ闘技場へ飛び入り参加するなど許されなかっただろう。一回だけならばまだしも、今回は勝ち抜き戦が何度も繰り返される熾烈な大会だ。直ぐにも引き摺り下ろされていただろう。それでもこのような無茶が許されるようになったのは、最近のことだ。全てはただ一人による全面的な信頼のために。
 彼がランルの指導者という事実だけで、ランルの行動は許容された。彼が側にいるならば決して危険はないであろう。そこまでの信用が彼に向けられていた。
「……馬鹿じゃないの」
 ランルは苛立ちを覚えて呟いた。この感覚は、全ての行動に制限がついていた頃と良く似ている。最近は綺麗に忘れていた感覚だ。
 寝台の上で寝返りをうち、ランルは天蓋を見つめた。苛立ちを消してしまわなければ李苑たちの元へは戻れないと思っていた。
 何も考えないようにしているとノックの音が響いた。人払いをして寝室へ姿を消したのだ。ユーハであれば、ランルが自発的に部屋から出ない限り、呼び起こすようなことはしない。もしくはよほど火急の件がない限りは。
 眉を寄せると同時に、ランルの意志を無視できる人物が訪れたのだと、漠然と悟った。ランルが体を起こすと同時に扉が開いた。
「……お母様」
 ランルの予想通り、寝室に入ってきたのは王妃だった。
 ランルと同じ紫の髪を硬く結い上げている。王が観戦する公式の行事であるため、民達への威光を示すように着飾っている。貴賓席で観戦していたままの格好で訪れたことは明白であった。ランルの後を追ってきたのだろう。
 ランルは視線を扉の向こうへ向けた。王妃の背後に垣間見えたユーハの顔は、申し訳なさそうに歪み、深々と頭が下げられていた。王妃に強行されてしまえば、幾ら彼女でも止めることはできない。
 ランルは「気にしないで」とユーハに微笑んだ。ユーハは恐縮しながら扉を閉める。部屋にはランルと王妃だけが残される。
「なぁに、またお小言? 聞き飽きたわ」
「ならば控える努力をしてみせて欲しいものね」
 扉が閉まると同時に王妃はランルの側へ近寄った。心なしか彼女の表情が強張っているようで、ランルは内心で首を傾げる。昨夜から今まで、王妃の不興を買うような真似をした覚えがなかった。大会に一般参加したことは別問題であるが、それでも、それは人払いをしてこの宮で話し合いを設けるほど重要な物ではないと思っていた。たとえお小言があるとしても、大会が終わった後になるだろうと思っていた。結局のところ、ランルの両親は娘に甘いのだ。平和な国の証拠である。
「ランル」
 硬い声がランルの声を呼んだ。母親としてではないその声音にランルの背筋が伸びた。寝台から降りると立ち上がる。王妃の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今朝早く、私の元へこれが届きました」
 王妃が両手を叩いた。彼女の両の平が離れると同時に、その中央に水晶球が浮いていた。決められた合図で決められた動作を行う、宝珠の模倣品。それらは一般の人々が使えるように、市場に出回っている。宝珠の力の欠片の欠片が吹き込まれた、力石と呼ばれるそれらは高価なものであるが、市民の手が決して届かないほどではない。なくても困らないが、あれば便利な生活品として普及しているものだ。国によって価格が違うが、力石は確かに人々の生活に浸透している。
 王妃が取り出した力石もその内の一つであろう。
 一体なんの力を秘めた水晶球なのだろうか。
 ランルは眉を寄せながら力石を凝視した。
「――セフダニアからです」
 ランルは双眸を瞠って顔を強張らせた。その表情が、王妃の無言の問いかけに答えていたらしい。
「貴方のその様子では、この中に何が映っているのか知っていますね?」
 ランルは答えられなかった。その場に立ち竦む。周りの音一切が遮断されたような感覚に陥った。
「これはまだ誰にも見せていません。私の部屋の中へ突然に送り込まれたものです。王も知らないこと」
 ランルは王妃の言葉に含まれたもう一つの意味に気付いて顔を上げた。
 結界を素通りして王妃の寝室に直接送り込まれたというのか。
 昨夜から宝珠の不審が育っていたが、それを増長させる王妃の言葉に、ランルは悔しくて歯噛みした。両手を強く握り締めた。
 王妃はそんなランルの様子を視界に映しながら力石に触れた。中の映像を開く。
 この力石は映像記憶装置となっている。一度しか書込みができないが、何度でも高画質で再生できる。たった一度しか書き込めないため、中に保存されている記憶の信憑性は高い。
 力石が映し出したのは一人の影だった。
 ガラディアの結界を抜け、セフダニアの結界を壊して森へ侵入する。影がセフダニアに入ったことで映像は鮮明さを増す。まるでカメラが近寄ったように影を拡大する。
 力石が映し出していたのはランルだった。
 セフダニアの城壁を飛び越えたランルは、城内へ侵入した。こうも易々と侵入できたのは、この辺りの警備が薄くなっていたためだ。ガラディアと隣接する結界は宝珠を持つものでもなければ潜れないため、こちらに警備の手を裂くのは非常に効率が悪いのだ。
 結界を通った人物は間違いなく宝珠の管理者ということになる。
 城内を徘徊するランルはやがて巡回の兵士に見つけられた。応援を呼ばれる前にと、ランルは電光石火で速攻を仕掛ける。廊下が血で染まる時もあれば、単に兵士たちが眠りに落ちる時もあった。
 ランルは映像を見ながら唇を噛み締めた。
 宝珠を利用して警備に引っ掛からないよう、もちろん映像も撮られないよう注意していた。この映像は城の警備専用の力石が記憶したものではない。宝珠の力に対抗でき、この映像を撮影できる人物など、ランルには一人しか思い当たらない。
 表情を強張らせるランルを、王妃は更に険しく見つめた。
「これは明らかに侵略行為。一般の者ならいざ知らず、責任ある地位にある者がなんということを。貴方はその身分を利用して罪を逃れようと思っていたの?」
「違います!」
「ええ、そう願いたいわ」
 冷たい王妃の言葉。ランルはかぶりを振って悲痛な表情となった。言葉が届かない。酷く悔しい。
 王妃は力石に触れると映像を消した。万が一にもこの映像が外へ流れるようなことがあってはならない。
「事情を伺います。理由もなしにこのような事をしたのではないと信じたいですから」
 寝室に備え付けのテーブルへとランルを誘い、王妃も椅子に座る。
「話して貰えますか」
 ランルは王妃の手にある力石を凝視したまま口を開こうとしない。表情を暗くさせたまま動かない。外からは場違いな歓声が何度も響いていた。
「ランル」
 かなりの時間、沈黙が流れた。
 しびれを切らした王妃が溜息混じりに娘の名を呼ぶ。テーブルに肘をついて両手を組む。
「この状況だけを判断すれば国家侵略罪に問われます。そのような者に国を任せられる訳はないでしょう? セフダニアもイフリートも評議会も。貴方を認めるとは思えない」
 もちろん王妃はこのことを公にしたいのではない。しかし条件はセフダニアが握っているのだ。対抗策を練らなければ、ランルは民衆に不満を抱かれ信頼も揺らぐ。いくら皇女の身分を慮ったとしても、ガラディアには王位を継げる者が他にもいる。ランルの王位継承権を放棄させることも可能である。不審を抱かれ地位が揺らいだランルを、支える権力者たちもこぞって別の手段を考えるかもしれない。そうなれば困ったことになる。ガラディアは宝珠と人による治世を望むのだから。
「サウスが、セフダニアにいるんです」
 絞り出すように、ようやっとランルが言葉を紡いだ。
「サウスはガラディアに所属する兵士で、私の近衛ですっ。取り戻す権利はあるわ!」
 王妃は眉を寄せた。
「サウス? なぜ言い切れるのです。消息が途絶えたのは確かにセフダニアとの境界付近と聞いていますが――それだけで決め付けるのは早計でしょう。他に根拠がありますか?」
 ランルは唇を噛み締めた。根拠ならばあるのだ。それを明かせば必ず納得する。そして、サウスがセフダニアの城にいると断言できる。けれどそれを告げてしまえば、ランルがこれまで暗躍してきた意味が全て無意味へと転じてしまう。
「本当にサウスがセフダニアにいるのならば使者を向かわせれば良い。もしあちらが不当にサウスを迎えているのならば兵を向けることも可能でしょう。ガラディアとセフダニアは共存関係にあるのですから。根拠があるならば、の話ですがね」
 ランルは何も答えられなかった。これはただの我侭だった。サウスには、あくまでも自分の近衛として戻ってきて欲しかった。
「セフダニアからは貴方に以前から婚約の話も来ていましたね」
 ランルは肩を揺らした。知らず両手を握り締める。脳裏にある男の顔が過ぎり、瞼裏が真紅に染まる。
「全面的に悪いのはこちらです。次にその話が来た場合、我らは断る権利を持ちませんよ。この国の王位継承など他の者にやらせれば良いとあちら側は思うでしょうからね」
「宝珠が認めたのは私よ!」
「思い上がらないで! 確かに貴方ほど宝珠を扱える者は、いま現在をもっていないわ。それでも、罪を犯した者を王座に据えるほど甘くはないのよ。宝珠であれば、評議会に預けることも出来るわ」
 ランルは目を瞠った。
「本気で言っているの、お母様。いま評議会に巫女はいないわ。そんな事をして、宝珠が暴走したら……」
「宝珠を暴走させるのは貴方です。貴方の行動がその結果を生むのです。分かってないとは言わせませんよ。宝珠を扱う者がそのことを理解していないなどという事はあり得ませんからね」
 王妃の言葉は完全にランルを突き放していた。糾弾する瞳がランルを映し、見えない棘が体中に刺さっていく。ランルは肩を揺らして嗚咽を堪える。
「ランル。それが嫌なら話しなさい」
 これが最後の譲歩であるとランルは知った。
 後戻りはできない。サウスを取り戻すと決めた時から覚悟をしていたはずだった。
 ランルは震える指で宝珠を握り、部屋に結界を張った。誰もが決して、これから話すことを聞くことが出来ないように。
 ランルのその行動に、王妃は内心で安堵した。誰に似たのか強情なんだからと、分からない程度に口の端を緩める。そして心を痛めた。誰が好き好んで娘の心を傷つけたいと思うものか。
 張られた結界の内側で交わされる密談。
 ランルは自らの望みが果たされないことに絶望し、王妃は驚愕した。