第四章 【四】

 響希とランルの試合が終わると会場は静まり返った。
 ガラディアでは珍しい漆黒の髪を持つ女性。堂々とした立ち姿はランルに並んでも遜色ない。自国の皇女を打ち負かしたというのに悪印象もなく、滲み出る戦士としての気質にむしろ好印象を抱く。しかし響希が会場を見渡すと、その視線の鋭さに観客は息を詰めた。まるで畏怖するように小さくなる。
 ランルが去った闘技場で、観客の反応を一瞥した響希は細く息をついた。注目されることには慣れているが、この世界でこのように注目されてしまうことに小さな危機感を抱く。それが何を指すのか分からずに苛立ちが募っていく。
 響希は李苑たちがいる貴賓席を仰ぎ、そこに王妃がいることに眉を寄せた。司会者の声を聞き流しながら闘技場から下りる。闘技場の外で見守っていた他の参加者や警備兵などの声も無視して足早に部屋へ向かう。
 途中、王妃とすれ違った。階段を下りてきた彼女はやや浮かない顔をしていたが、響希に気付くと微笑んで祝詞を述べる。王妃に付き従う女官たちは脇によけて響希に道を譲った。
 響希は複雑な胸中のままで頭を下げ、王妃の脇をすり抜ける。王妃もそれ以上の言葉はかけず、そのまま階下へ向かった。
 ――ランルのところへ行くのだろうか。
 響希はそう思いながら階段を上りきった。ランルをそれほど深く知っているわけではないが、部屋には戻らないだろうという確信があった。二階貴賓室の前で警備をしている兵士を見やりながら、仕切る幕を通り抜けると、案の定、部屋にはランルの姿がない。響希に気付いた翠沙が微笑みを向ける。
「響希。おめでとう」
「ああ」
 響希は素直にその言葉を受け止めてから、翠沙の隣にいた李苑を殴った。容赦ない力だ。
「った、たーっ! なにすんのよ響希!」
 予想と寸分違わぬ反応だ。李苑は殴られた頭を押さえながら涙目になる。
「やかましい。いきなり大声出しやがって。おかげで手元が狂っただろう」
「応援してあげたのよ! 感謝して貰ってもいいくらいだ! 今までの通算殴られ回数かぞえたら絶対頭の形変わってるわ!」
「感謝なんてしてたまるか。お前のせいでランルと一層やりづらくなったんだからな」
「ふーんだ。私の声で動揺するなんて、まだまだ修行が足りない証拠……っと、ふふふ。一日にそう何度も殴られてたまるかってのよ」
 再び伸びた響希の手をよけて李苑は笑ったが、すかさず足払いをかけられてすっ転んだ。
「だっ」
 尻餅をついて顔をしかめる。
「ひどいよもう……」
 響希は耳も貸さない。そのまま李苑の脇を通り抜けて闘技場を眺めた。
 一連のやりとりを見ていた翠沙は苦笑しながら響希の隣に並ぶ。李苑も顔をしかめながら響希の隣に並んだ。闘技場では次の対戦が始まっている。
「私たち、優勝しなきゃいけないのかな? もちろん負けるつもりはないけどさ」
「それなりの結果さえ出せればいいんだろ。ランルの推薦もあるからな」
 李苑は数秒考え込んだようだが、やがて何かを切替たのか笑顔で響希を仰いだ。挑戦的に言い放つ。
「響希には負けないけどね」
「俺の台詞だ」
「楽しみね」
 翠沙さえもが微笑んで告げる。李苑と響希が優勝戦まで勝ち進むことを疑っていない。
 長引く闘技場の試合を何とはなしに眺めながら、李苑がポツリと呟いた。
「ランル、帰ってこないねー……」
「なんでいきなり応援する気になったんだよ」
 語尾を奪うように話題をねじ曲げ、響希は李苑を見た。幸いなことに李苑は追及せずに反応を返す。
「えー? だって、ランルの近衛にならなきゃいけないじゃん、私たちー」
 手すりに顎をつけながら間延びした声だ。両手はだらりと下ろされている。だらしないとも取れるその姿に、響希は片眉を上げながら息を吐き出す。
「お前は単に遊ぶ手段としてしか見てなかっただろうが。遠回しに言ってないで、率直に言え」
 李苑はしばし沈黙する。
「率直。率直ねぇ……」
 ぶつぶつと呟きながら考えをまとめていたようだが、やがて一言だけ吐き出した。
「サウスを助けるために」
 当然のことながら響希には意味不明な理由だった。それでもしばし理解しようと悩んだ響希だが、諦める。
「……筋道立てて、俺に解るよう簡潔に言え」
「人に頼むのに命令口調なわけー?」
「別に言わなくても構わん。お前の話は疲れるだけだからな」
「ああああ、待って、聞いてー」
 ニヤリと笑う李苑にそっけなく態度を翻す響希。慌てた李苑の様子に、それまで聞いていた翠沙が笑った。微笑みを浮かべ、二人のやり取りを視界の端に入れながら闘技場に視線を移す。そこではまだ先ほどの対戦が続いていた。対戦者たちは疲れたように息を切らせている。今回はどちらも素人のようだ。迫力に欠けて、観客の興味はもう次の試合に移っている。
「で、なんだって?」
 響希の声に翠沙は再び視線を二人に戻した。
「ランルのお母さんに聞いたのよ!」
「何を」
「サウスのこと」
 まったく要領を得ない李苑の言葉に、響希の眉が不機嫌に寄せられる。見かねた翠沙が助け舟を出す。
「ランルの剣の指導者らしいわ。今はこの国を出て行ってしまっているらしいけど」
「ふん。それで、俺らが近衛になるのとそれと、どう関係があるんだ」
「やだなぁ。分からないの、響希?」
 響希がスウッと瞳を細めた。翠沙もこればかりは助けられない。続く怒声を予測して小さく息をついた。そして次の瞬間、予想に違わず響希は怒鳴りつけた。
「お前の脳の構造なんて、まっとうな俺に理解できるわけねぇだろうが!」
「うっわ、やだ響希。自分のこと、まっとうだなんて信じてるの?」
「脳の皺が一、二本くらいしかなさそうなお前には言われたくねぇ!」
「そんなの! ないほうが綺麗そうでいいじゃない!」
「脳の皺がなくていいわけあるかーっ!」
 怒鳴り疲れた響希は、壁際に寄せられていた椅子を一脚だけ持ち出して座り込んだ。背もたれを抱えるように頭を垂れる。
「で、話を戻すけど」
 響希の怒鳴り声をやり過ごした李苑は何事もなかったかのように話を続ける。誰が脱線させてるんだよという響希の内なる声は伝わらない。
「ランルって、セフダニアにいたじゃない、初めて会ったとき。だから、他の誰かにランルの近衛の地位を取られないようにするために、私たちがなるってわけよ。私たちは言うなれば流れ者って奴だからね」
 得意気に胸を張って締めくくる李苑だが、響希は更なる混乱に頭を抱えた。
「話が繋がってねぇ……!」
 聞くのではなかったと後悔したが後の祭りだ。しかし翠沙は理解できたのか、小首を傾げて微笑んだ。
「ランルの近衛は以前、サウスが務めていたそうね。指南役、兼護衛といった役どころかしら」
 李苑は明るく頷く。
「そう! だからさ。サウスとランルのためにも頑張らないと」
「だから何を」
 響希は半ば以上、聞く気も失せながら呟いた。そんな態度に慣れていた李苑は気にしない。声を潜めながら内緒話のように囁く。忘れているが、部屋の外にはガラディアの兵士たちがいる。薄い布一枚で隔てているため、防音など無いに等しい。
「サウスって、きっとあのセフダニアにいるのよ」
「……なんで」
「ランルがセフダニアにいたじゃない」
「それだけか」
「まだあるよ。この大会にランル自身が出場したじゃない」
「何の関係があるんだよ」
「この大会の目的はランルの近衛も含まれてるんでしょう? だったら、ランルが優勝しちゃえば近衛の座は埋まらないじゃない」
「んなわけあるか」
 この大会はあくまで力を見るためだけの物だ。たとえランルが優勝したとしても近衛は選ばれるだろう。ランルがそれを理解していないわけはない。
「けど」
 翠沙が響希を労わるように呟いた。
「ランルなら、自分より弱い者に守られるなんてごめんだと言いそうね」
 響希は視線を上げた。その先では翠沙が微笑んでいる。それを見ると答えを見つけたような気がして、響希は背もたれから起き上がる。自分よりも弱い者に守られるなど冗談ではない。たとえ自分より強い者だったとしても、守られる立場に自分がいるということ自体が許せない。
 響希は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
 そのとき、闘技場から李苑を呼ぶ声が聞こえた。いつの間にか先ほどの試合は終わっていたようだ。李苑は慌てて響希から剣を預かり、階段に走る。ランルのように手すりを飛び越えなかったのは、翠沙の険しい視線があったためだ。
「だから、絶対に近衛になろうね、響希!」
 駆け下りざまに李苑は叫んだ。その声が階段に反響していくのを聞きながら、響希はため息をつく。
「あいつの説明はさっぱり分からねぇ」
 同意するように翠沙は肩を竦めた。
 ほどなくして闘技場に李苑が走り出てきて、試合は直ぐに開始された。けれど翠沙たちは李苑の試合を見ることもなく、貴賓室の奥で顔を付き合わせる。李苑がいた時と変わって声には気を配っている。ここにはもう王族はいないのだからと警備員たちも遠くに追いやる。そうしてようやく息をついた。
「で。なんで俺らはランルの近衛にならないといけないんだ」
「あら。目的は変わってないわよ。この世界で他に行くところもない私たちが、この国の住民権を得ることが第一の目的」
 翠沙の言葉はすんなりと頭に入ってきた。響希は素直に頷く。
「その目的とは別に、第二の目的がついただけよ。李苑の言葉を借りるなら“サウスとランルのために”ということだけど」
「もっと細かく説明しろ」
 もっともな言葉に翠沙は肩を竦めた。翠沙にもすべてが解っているわけではない。説明ではなく考えを整理するために、と翠沙はひとつずつ頭の中で組み立てながら言葉にした。
「まずはサウスね。彼は去年、国外からの参加者として大会で優勝した。そしてランルの近衛になったわ」
「へぇ」
「そして、理由は不明だけれど、彼は最近、この国を去ったそうね」
「近衛って、そんな簡単に辞められるものなのか?」
 それは先ほど翠沙が感じた疑問と同じものだった。翠沙は苦笑する。
「こちらのことは良く分からないわよ。けど、そう簡単に辞めたりできないものよね。普通なら」
「まぁそうだよな」
 響希は当然のことだと頷いた。そして翠沙を見る。
「その情報はいつ手に入れたんだ?」
「貴方が試合をしているときよ。王妃が話してくれたわ」
「ああ……その話だったのか」
 響希は先ほどすれ違った王妃を思い出した。浮かない顔をして――いや、もっと正確に表すならば険しい顔をしていた王妃。何を思ってこのような話をしていったのか。響希はさきほど感じていた漠然とした焦燥を思い出して、苦く顔を歪める。
「李苑が言っていた、サウスがセフダニアにいるということを前提として考えましょうか。李苑の考えを知るために」
「……まぁ、異論はねぇ」
 反発はあるが、という言葉だけは胸中で吐き出した。結局、ランルがセフダニアにいた意味は分からない。李苑がなぜ、サウスがセフダニアにいると直感したのかも分からない。けれど李苑の直感はときに鋭く本質を見抜くことがあるから侮れない。
「サウスがガラディアを離れてセフダニアに行った。兵が簡単に辞められるものではない以上、何かがあったのかもしれないけど、それは憶測に過ぎないわ。ここでは触れない。そして、ランルがセフダニアにいた。この理由は」
「サウスがセフダニアにいるからか? 今のところはそれしか関連付けることがねぇしな」
「そうよね。あと“近衛の地位を他人に取られないため”っていうこれは、やっぱり、サウス以外に、ということよね」
「ランルがサウスを近衛に戻したがっているから他の奴らには渡さないってことなんだろ。ランルがそう考えてなきゃ、セフダニアにいた理由が説明つかない」
「あら、でも……そういえばランルは追われていたのよね。あれは何かしら?」
「そういえば昨日もここまでつけてきていたな。あれは結局、俺らをつけて来たのかも分からんが……」
 沈黙がおりた。憶測も浮かばない。そのことに関連付けられる事柄はもう二人の手にはない。響希はため息をつく。
「その疑問を残したとしても、はっきりしていることは近衛か」
 李苑のことだからここまで深く考えることはせず、もっと軽く、単純に考えたのだろうと思う。しかしやはり、侮れない奴だと、響希は舌打ちしたくなった。
「あとはランルに聞くしかないわね。近衛になったら、ランルの身辺を守るためという名目で聞きだせるわ」
 笑顔で強硬手段を告げる翠沙に苦笑しながら響希は問いかけた。
「そこまで深く関わるつもりなのか?」
「え?」
 意外なことを言われたように翠沙は目を瞠る。
「俺らは李苑が言った通り、流れ者に近い。いつ元の場所に戻るか分からない。そんな奴が、無責任に関わっていいのか。人の内面に関わる問題に入り込むなら責任持たなきゃいけないだろ」
 翠沙は沈黙した。もしも途中で元の世界へ戻されてしまえば、きっとやりきれない思いばかりが残るだろう。
「そうね……ここに近衛として居場所を作るのだって、もとはこちらに定住する気がなかったからで……」
 定住を望むのであれば上辺の居場所ではなく、土台を作ろうとするだろう。町で働く場所を見つけ、稼いで積極的に人と関わりを持つ。けれども近衛であれば国との契約に縛られるだけで、突然辞めるとなっても代わりは大勢いる。重要な地位に就くことさえなければやり過ごせるはずだ。
 翠沙は迷うように告げた。
「けど……李苑は納得しないわ」
「そうだろうな」
 響希はそっけなく同意した。翠沙の瞳が揺れる。
「李苑の意志より自分の意志だろ」
「え?」
 響希は背もたれに顎を乗せて翠沙を見つめる。
「俺が今ここにいるのは他の道がないからだ。仕方なくここにいる。俺はもとの世界に帰りたい」
「それは私だって一緒よ?」
「ただ帰りたいだけならランルの話を聞く必要はないだろ。ランルの話を聞いてしまえば絶対に巻き込まれる。簡単には帰れない。少なくとも、ランルの問題が解決するまでは。その間、もし帰る機会があったとしてもだ。みすみすその機会を逃すことになる」
 翠沙は瞳を瞬かせた。
「響希は……どうするの?」
 響希は肩を竦めて笑う。
「自分の意志が固まらない奴に俺の意志は伝えない」
 突き放すような物言いだが、長い付き合いからそれが決して見捨てる物言いではないことを知っている翠沙は瞳を伏せた。天野組を背負っているという気負いがあるためか、響希は早くから独立の道を歩んできた。
 響希はあくまで遊戯の延長として微笑んでいる。
「……そうね。聞いたら流されるもの……聞かないわ。でも」
 翠沙は眦を強めて響希を見返した。
「ランルのこと、私は聞くわよ」
 翠沙は挑戦的に微笑んでいた。そんな翠沙の表情は滅多に見られない珍しいもので、響希は思わず破顔する。立ち上がった。
「なら、とことんまで付き合うか?」
 疑問ではなく確認するための問いかけだ。
 そっと手を挙げた翠沙の手の平に、響希は自分の手を叩き合わせた。