第四章 【五】

 取るべき行動は決まった。
 響希と翠沙は互いに決意の篭った眼差しを交し合い、力強い笑みを零す。そして李苑の試合観戦に戻ろうとした。しかし試合は既に、李苑の勝利で幕を下ろしていた。
 ――けれども。


 戻ってきた李苑へと響希は呆れた眼差しを向けた。
「阿呆」
 どうしようもない、と非常に呆れた口調だ。
 李苑はそんな響希を睨みつけた。目尻に涙が溜まっている。
「うるさいなぁ、高く跳びすぎただけだよ! だって相手の身長、見た? 二メートル軽く越してたんだよっ?」
「だからってそれに合わせて跳んでたらキリがねぇだろ。他の方法くらい考えろ」
 響希の指摘に李苑は唸る。
 つまり李苑は相手の上から剣を振り下ろそうとしたのだ。並みではない跳躍力を見せて、李苑は驚く相手を見事に制した。けれどその後が失敗だった。相手にのみ集中していて高さなどに気をつけていなかった李苑は、あまりに高く跳びすぎたためバランスを失ったのだ。着地に失敗して足を挫いた。
「気をつけてね、李苑」
 翠沙が心配そうな眼差しで李苑を見上げた。
 李苑は足の治療を彼女にして貰いながら、響希とはあまりに違う気遣いに涙ぐんで翠沙に抱きつこうとする――しかしそこで次の試合が李苑に告げられた。
 いまだ一回戦しかこなしていない響希よりも早い、李苑の三回戦目。三人は驚いて案内係を見たが、彼はひたすら恐縮して「ルールですから」を繰り返した。
「困ったわ……」
 翠沙はようやく腫れが引いた李苑の足を見ながら頬に手を当てた。もう少し治療を続けなければ、李苑は試合などできそうにない。しかしここで棄権するなど、李苑はもっと納得しないだろう。
 李苑は頬を膨らませていたが、やがて力を込めて立ち上がった。痛みが響いたようで顔を顰める。
「どうして私だけ? なんかすっごい不公平!」
 それでも李苑は剣を持つ。
 恐縮した男は安堵した様子を見せて李苑を促す。
 翠沙は憂う眼差しでその背中を見守り、李苑が出て行った後は溜息をついて響希を振り返った。響希は肩を竦めてその眼差しに応える。二人で舞台に視線を移した。
 響希は眉を寄せた。翠沙も微かに顔を顰める。
 李苑の対戦相手であろう人物がすでに舞台上に登場していた。少しして舞台に現われた李苑も、相手が誰であるのか悟って顔を顰めた。これまでで最大に不機嫌な表情だった。
「昨日のランルの御付の人」
「ヨールと申します」
 ヨールは警備隊の隊長を示す紋章を胸あてに掲げ、大きな剣を片手に持っていた。李苑の言葉に苦笑を零して向き直る。父親と娘ほど歳が違い、激戦を繰り広げたとは思えないほど華奢な李苑を見下ろしてヨールはやりにくい相手だと思った。同時に楽しそうだ、とも。ヨールを見る李苑の瞳には、確かに消えぬ炎が宿っていた。それを感じてヨールは司会者を見た。
 李苑もまた準備は整ったと伝えるように司会者を見る。
 舞台で李苑の登場を待っていた司会者は、二人の視線に頷きで応えて舞台から降りた。
「……絶対、誰かの嫌がらせよね」
「さすがに連戦はきついか。一勝でもできたことには驚嘆する。ここで負けても観客は納得するだろう」
「私、観客を納得させるためにここにいる訳じゃないから」
 何かを含んだ声音のヨールに李苑は眉を寄せた。胸を張って見せる。
「貴女は何を望んでここにいる?」
 李苑は勝気に微笑んだ。
「私の望みは全部だよ!」
 司会者が舞台を下りるのを確認しながら力いっぱい叫んだ。

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 太陽は真上を過ぎて落ちていくばかり。この大会はいつまで続くのだろうと、響希は李苑の試合を見ながらぼんやりと思っていた。
「響希の試合はまだなの?」
「さぁ。何の連絡もないな」
 横から掛けられた声を横目で確認して、響希は肩を竦める。翠沙が少しだけ唇を尖らせて眉を寄せていた。彼女の視線は舞台上の李苑に向けられている。李苑の足を心配しているのだろう。
「ったく、あと何試合やればいいんだ? トーナメント式のようだが、対戦表なんか何も公開されてないよな。普通は本部にあるもんだろう」
 響希は鞘に入った剣を持て余してクルリと宙で回した。
 翠沙は少しの沈黙を保った後に話題を変える。
「この大会は剣だけ、とルールが決まっているのかしら。剣以外の参加者は見かけないわよね」
「ああ、そういえば見てねぇな」
 響希も同意した。
「弓が使用可能だったら私も参加できたかもしれないのにね」
「……それこそ殺傷能力が高くないか?」
 翠沙は中学校で弓道部だった。弓道で名高い高校に推薦入学を勧められるほど腕の確かな射手だ。しかし翠沙は全ての手を払って今の高校に進学した。ここにも弓道部はあったが、翠沙はそれまでの優勝経歴を意に介さず弓道部には入らなかった。弓道部の顧問は非常に悔しがったが仕方がないと諦めた。翠沙は学問でも優れた成績を残し、生徒会に推薦され、部活に励む時間など取れなくなったからだ。
 響希がボソリと呟いた後、翠沙は軽く笑って李苑に視線を戻した。
「大丈夫かしら? 腫れは取ったけど、治療が充分じゃないから直ぐにまた腫れてくるわ」
 翠沙が何を心配しているのか悟って、響希も不意に真顔となった。
 しかし零れた言葉は表情から掛け離れたもの。
「まぁ……李苑だしな」
「そうね。李苑だしね」
 その一言で会話が成立してしまう。
 響希と翠沙はそれぞれ違う感情を抱きながら、友人の試合を観戦するのだった。

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 頭上で何が交わされているのかなど全く知らない李苑は剣を抜いていなかった。鞘に入ったまま、片手を下げて自然体でヨールと対峙している。司会者が下りて試合開始の合図と共に剣を構えたヨールとは正反対だ。ヨールも観客も、李苑の様子に訝りを抱く。
「――ランル様より凄腕だと聞いていたが」
 李苑はキョトンとした後にニッと笑った。
「そりゃ光栄」
 まったく真剣みが感じられない姿勢だった。
 ヨールは意外に李苑に期待を抱いていた事を知り、またその期待が裏切られて苛々が溜まっていくのを悟り、静かに息を吐き出した。
「貴方はサウスと会ったことがあるの?」
「……ランル様よりお話があったか? サウスは私直属の部下だ」
 李苑は少しだけ眉を寄せた。王宮警備隊の組織図が、李苑の脳内で崩れたようだ。
 しかしそんな些細なことはアッサリと聞かなかったことにして、再びヨールに意識を戻す。
「じゃあサウスが今どこにいるかも知ってる?」
 李苑は質問ばかりを繰り返す。ヨールは強く息を吐き出して肩を下ろした。
「試合する気がないのか?」
「あるよ。でも聞き出したいのも本当」
 李苑は邪気のない笑顔を見せて剣を振った。本当の所、李苑の足は痛みをぶり返しており、試合などせず休んでいたい気持ちが強い。次第に痛みは増していき、立っているのも辛い状態に晒されている。しかしここで時間を稼いでも状況が変わらないことも知っている。むしろ試合は迅速に終わらせた方が良い。それでも李苑は更なる問いかけを繰り出した。
「サウスって自分の意志でここを出ていったの?」
「自分で確かめればいい!」
 とうとうヨールが待ちきれずに仕掛けた。剣を構えて李苑に迫る。
「じゃあ私が勝ったら教えてね」
 李苑は挫いていない足を軸にして体を反転させた。挫いている足の膝裏で足払いをかける。
「あー、もう。やっぱりビクともしないし!」
 ヨールは足払いなど物ともしない。挫いている李苑の力では尚更だ。膝裏では遠心力が足りなさ過ぎる。
 李苑は直ぐにも跳んで間合いを取り直した。
(ていうか今の衝撃でもけっこう響いて痛いんですけど)
 それは心の中だけで零すことにする。涙目になっているのは気付かれない。
 ヨールは李苑に休む暇を与えず攻撃を仕掛けた。李苑はその攻撃を紙一重で避けながら何とか隙を窺い、挫いていない足で大きく跳んだ。体を丸めてヨールの頭上を飛び、背後に回ると体を伸ばして足をつく。即座に反応できないヨールは背中ががら空きになる。それを狙って李苑は彼の後首を鞘で力いっぱい殴った。しかしヨールが落ちる気配はない。
 李苑は目を瞠り、次いで悔しげに歯軋りした。
「いいよね、そんなに筋肉があるのって!」
 着地した際に響いた痛みに顔を顰める。腹立ちと共に、密かな羨望を口にする。李苑では筋トレを幾ら重ねても、望む筋肉は得られない。
「やっぱり不公平!」
 李苑はそのまましゃがみこんだ。それが正解だ。頭上をヨールの剣が空振りする。もしも李苑がしゃがみ込まなければ脳震盪では済まなかった。
 李苑はそのまま横っ跳びに跳ねてヨールの間合いから抜け出した。攻撃の手は封じられ、闘技場の端にまで追い詰められる。ヨールから意識を逸らさないまま視線だけを外野に向けた李苑は唇を引き結ぶ。駆け寄って来るヨールを睨みつけて、フッと笑う。
「窮鼠ネコを噛むって言うしね。ここに両方の動物がいるのかも分からないけど!」
 李苑は繰り出された腕を掴んだ。足の痛みを堪えて飛び上がる。相手の上空で剣を構えて背後を取る。そして、自分よりも場外に近くなったヨールの背中を、捻挫も忘れて思い切り突き飛ばした。
「勝者リオーーン!」
 司会者の力強い勝利が告げられた。
 この大会においてルールは説明済みだ。場外は即座に負けとなる。
 李苑は司会者の声を聞いた途端、押し込めていた痛みが全身を支配した気がして、剣を投げるとうずくまった。場外に落とされたヨールはあまりの出来事にしばし絶句していたが、やがて笑い出すと戻ってきた。舞台上でうずくまっている李苑に声をかける。
「大丈夫か?」
「んな訳ないでしょう!」
 李苑は涙目になりながら怒鳴りつけた。娘のように小さな李苑の剣幕にヨールはたじろいだが直ぐに微笑ましく目尻を下げる。王族付きの近衛であるヨールはもちろん李苑の試合を全て見ていた。李苑が足を挫いたことも知っている。それなのにまさか足技が来るとは思っておらず、とっさの反応が遅れたのだ。ルール上で許された武器は剣のみだが体術を禁止するルールは加えられていない。
「次の試合の邪魔になる。控えの間まで抱えていくが、いいか?」
 李苑はしばし呆けた顔をしたが、続いて嬉しそうに笑った。
「お姫様だっこがいい」
 腕を伸ばしたヨールに遠慮なく抱きつく。ヨールは李苑の剣も腰に佩いて、望みどおり横抱きにしながら舞台を下りた。舞台下では部下たちが複雑な表情でヨールを見ていた。上司が負ける姿はあまり見たくないのだろう。
 ヨールはそのような視線を気にせずに肩を竦めて見せ、貴賓席へと続く階段を上がる。その途中で李苑が気付いたように声を上げた。
「あ、サウスのこと。勝ったんだから聞いていいでしょ?」
 部屋と階段を遮っている幕をめくると響希と翠沙が振り返っていた。ヨールに抱えられた李苑を見て、響希が何かを言いかけた。しかし李苑の質問に気付いて口を閉ざした。ヨールはその様子を見ながら小さな溜息を吐く。
「ランル様を差し置いて私がお答えするなど」
「だってランル、帰ってこないもん」
 ヨールは柔らかな座り心地の椅子を引っ張り出して李苑を下ろす。李苑は部屋の中を見渡しながら唇を尖らせた。ランルはまだ戻っていない。
「もちろん、ランルには響希があとで聞くから」
「おい」
 腕組みをしながら二人を観察していた響希が不機嫌に頬を引き攣らせた。李苑に駆け寄って足の具合を見ていた翠沙は軽く笑う。
 李苑は翠沙に礼を言ってヨールを見上げた。
「聞かせてよ。サウスって自分の意志でここを出て行ったの?」
「まぁ別に隠すことじゃないんですが」
 そうは言いながらヨールは周囲を気にする仕草をした。聞き耳を立てていた使用人や護衛兵たちが慌てて体を戻し、視線を逸らす。ヨールは口調を和らげながら少しだけ音量を下げた。
「ランル様がお心を乱されてしまうので、そのことは禁句になっていたんです」
 ヨールはそう言いながら、腰に佩いていた李苑の剣を抜いた。李苑に見えるように近くの棚に置く。
「出て行ったのはあいつの意思ですよ。俺の所にも挨拶に来ていました」
 李苑は振り返ったヨールをじっと見つめた。ヨールもそれに応えて見つめ返す。
 やがて沈黙を破ったのはヨールが先だった。
「それがどうかしたのですか?」
 李苑は淡々と口を開く。
「サウスをランルに返そうと思って」
 告げた途端、李苑は響希に殴られた。
「捜そうと思って、だろーが」
 ヨールは目を瞠っていた。李苑の言葉で誤解した彼であるが、続く響希の言葉で誤解は解ける。「ああ」と納得して息をついた。
「これまでにも捜索隊は出されましたが、手がかりは少ない。今は誰もが諦めている状態です。突然現われた貴方たちには荷が勝ちすぎるかと思いますが。貴方たちがサウス失踪に関わっているというなら話は別ですが」
 暗に警告しているようなヨールの言葉に、李苑は無邪気な笑みで応えた。
「荷物は大勢で分けた方が軽いのよ」
 ヨールは瞳を瞬かせ、ただ「そうですね」と告げるだけに留める。
「では――私は試合に負けたので、通常業務に戻ります」
「え?」
「また後ほどお会いしましょう」
 李苑が引き止める間もなくヨールは部屋を出て行った。兵士たちは一様にヨールに礼をし、手を上げかけた格好になった李苑は溜息と共に椅子に座り直した。
「逃げられた。ぜんぜん聞けてない気がする」
「お前の要領が悪すぎるんだ」
「フォローしてくれたっていいじゃん」
「フォローすると後はぜんぶ俺に回ってくるからイ、ヤ、ダ」
 李苑は思い切り顔を顰めた。それでも言い返さないのは、それが結局のところ本当だからだろう。
「はい、李苑。どう?」
 会話の合間を縫って翠沙が顔を上げた。気付いた李苑は慌てて自分の足を上げる。
「え、あ、楽。翠沙ありがとう!」
 翠沙の手が足から離れる。李苑は足首を捻ってみたが全く痛まない。少し足を乱暴に揺らせてみたが、それでも痛むことはない。痛みは完全に抜けていた。李苑は感激して翠沙に抱きついた。
「良かったわ。これからは気をつけてね、李苑。あまりアテにされては困るわ」
「はい、気をつけます隊長!」
 翠沙はやれやれと溜息をついた。全く懲りていない李苑の態度である。
 李苑は元気良く椅子から立ち上がって背伸びをした。軽く両足で跳ねてみる。完全に通常を取り戻している。笑みを刻んだ所で気付いた。
「あれ? 響希、呼ばれてない?」
「あ?」
 響希は少しだけぼんやりとしていたが、その言葉に顔を上げて闘技場を振り返った。気付けば確かに名前が呼ばれている。響希は慌てて向かおうとしたが、それでは間に合わないと悟ったのかよほど慌てていたのか、貴賓席のバルコニーから飛び降りた。ランルの時のようなパフォーマンスに観客が湧く。
「響希待った! 剣の忘れ物!」
 二階から李苑の大きな声が響いた。見上げた響希は、確かに自分が武器を帯びていないことに気付いて憮然とする。剣は直ぐに投げ渡された。それをしっかりと腰に佩いてから舞台に向かった。
 李苑はそんな響希の後姿を見ながらニンマリと笑みをつくり、剣を渡した後はグッタリと塀の柵に突っ伏した。
「あーあ。本当にそろそろ疲れたよ」
「試合が終わらなかったら徹夜になるのかしらね」
 翠沙が恐ろしいことをサラリと告げる。李苑は頬を引き攣らせた。
「そうなっても翠沙はもちろん応援してくれるよね?」
「夢の中でしっかりと応援させて頂くわ」
 悪びれない翠沙の言葉に李苑は肩を落とした。