第四章 【七】

 夜の闇が深まり、とても静かな部屋の中。ときおり微かに響く高音は何の音か。響希は少しだけ寝返りをうち、寝台の天蓋を見上げた。重たげな布が中央で絞って吊り上げられている。深い眠りを誘うように、闇に似た色が天蓋に映りこんでいる。
 響希は天蓋の中央を見つめながら、さきほど自身を襲った衝撃を思い出していた。
 ルヴァイヤと名を彫られた肖像画。
 描かれた人物は確かに響希と顔立ちが良く似ている。
 響希は宝珠を取り出した。目の前に掲げると、窓からの月光を映して宝珠は微かな色をつける。今は半透明の黒に輝いている。
 響希の母は産褥で息絶えた。記憶に残らない母は写真の中だけで微笑みを響希に向ける。とても響希に良く似た顔立ちで、肖像画の中の人物のように優しく微笑んでいた。
 響希は腕を下ろして宝珠を握り締めた。
 父親から、母親の形見だと告げられた宝珠。大切そうに桐の小箱に収められていた宝珠は、響希の手に渡ると黒味を増して鋭利に輝いた。その時のことを響希は思い出していた。
 写真の中で微笑む母親と、肖像画の中で微笑むルヴァイヤ。
 この肖像画を父に見せたら何か分かるかもしれないのに、と響希は思って自嘲した。見せて、その後どんな展開を望むのだろうかと。肯定して欲しいのか。それとも否定して欲しいのか。
 母の亡骸など見たことはない。しかし父の落胆は今でも響希の脳裏に、鮮明に刻み込まれている。これまで生きてきた中で、最も情けない父親の姿。その姿が腹立だしくて、あまりにも哀れで、死んだ母を恨んだこともあった。
 響希は歯噛みして眉を寄せた。ふと何かが琴線に引っ掛かった気がして、もう一度記憶を辿り直す。
 産褥で息を引き取った母親。母親の形見だと言って響希に宝珠を手渡した父親。失われた母親を想って悲嘆に暮れた父親。
 なぜ、父が悲嘆に暮れた日を知っているのだろうかと響希は思った。物心つくまえに母親は死んでいる。それなのに、父親が悲嘆した日は映像として鮮明に蘇ってくる。
 幾ら考えても答えは出ない。響希はふと溜息を吐き出した。
 仮にルヴァイヤが響希の母親だとしても何も変わらない。本人は既に死亡している。そして母親の出生が分かったからといって、響希の現実が変わる訳でもない。父親に告げたりなどしたら興味をもたれてしまうだけだ。組長として忙しい彼の手を煩わせる訳にはいかない。早く一人立ちして組長の負担を軽くするのが自分の役割だ、と響希は思っている。
 響希は再び寝返りを打った。
 窓からは月が見えている。満月からやや丸みを欠いた月だ。強い光を放って存在を主張している。
 組員たちは、父は今、何をしているのだろう。抗争はまだ続いているはずだ。武器の売買利益や商売範囲で持ち上がった抗争問題は、そう簡単に片はつかない。敵対する相手は、過去に何度か対立している大きな組だった。そのような面倒ごとが起こっている中、自分は一人でこのような所で安穏としていなければいけないなど御免だった。ただひたすら勝ちを目指していた大会中とは違い、考える時間ができてしまうと焦燥ばかりが募っていく。
 ――そこまで関わるつもりなのか?
 昼間に翠沙へ向けた言葉を思い出していた。
 あの言葉を自分に投げかけるとしたら、響希の答えは否だ。組長の側に立ち、彼を支え、多くの人間を担っていくのが自分の役目だと思っている。そこに繋がらない労力は必要ない。なぜこんな事をしなければいけないのだと、誰よりも強く響希は思っている。
 それでも今は何が起こっているのか、どうすれば元の場所へ戻れるのか、自分でできることは何もなくて、苛立ちだけが溜まっていくのだ。
 響希は眠れない思いを抱えながら月を見ていた。宝珠を強く握り締めていると、まるで月の光に吸い込まれていきそうな錯覚に陥ってしまう。
 背後で李苑が動く気配がした。
 響希は視線だけで李苑を一瞥し、そのまま寝たふりを続ける。
 李苑はゆっくりと起き上がって寝台を下りる。そのまま静かに部屋を横切り、扉を開けると廊下へと出て行った。
 響希は舌打ちする。李苑が戻ってくる気配はない。李苑の足取りはしっかりとしており、寝ぼけている気配はなかった。体を起こした響希は翠沙を見た。
「――起きてるだろ?」
「ええ」
 翠沙からは直ぐに答えがあった。確かなその声は、同じく翠沙が眠っていなかったことを示している。
「俺はとりあえず李苑を連れ戻すぞ。ったく。自覚がないのかあいつは」
 寝台を下りて首を回すと、翠沙も起き上がった。
「私も行くわ」
 止める間もない。翠沙は直ぐに寝台を下りて上着を羽織った。
 大会が終わって疲れているはずなのに、結局は三人とも眠っていなかったのだ。
 響希は翠沙を止めようとしたが途中で諦めた。
「まぁ、戦闘にはならんと思うがな」
 そうは言いながら一応剣を手にして、響希たちは部屋を出た。廊下はひんやりと冷え込んでいて何の物音もしない。世界中から人間が消えてしまったようにも思える。
 二人は極力足音を殺しながら、このまえ襲われた場所へと足を向けた。
「静かね……」
「さっきまで騒ぎ放題だったからな。皆して疲れてるんだろ」
「貴方のほうが疲れてるのじゃない? 試合数でいえば、響希がずっと多いんだもの」
 響希は鼻で笑った。
「あれくらいでくたばるほど、俺はやわじゃない」
 二人はこのまえの噴水まで来ていた。しかし李苑の姿はない。ここにいないとなると、他に彼女が行きそうな場所など思いつかない。この世界へ来てから日が浅いのだ。
「どこ行きやがった」
 毒づいた響希は周囲を見回した。李苑の姿は影もない。
 響希の袖を翠沙が引っ張った。
「――こっちよ」
 響希は翠沙に引かれるまま歩き出した。噴水を通り過ぎて林の中へと入っていく。王家が管轄する狩場に繋がる道だ。しかしそんなことなど知らない響希は、ただ木々が連立するその風景を眺めている。木々の合間に李苑の姿が見えないかと探るが、薄暗くて人の影はあまり分からない。翠沙がなぜこのような場所を知って、そして迷わず歩いていけるのか、響希は翠沙を見た。
「翠沙?」
「泣き声がするの」
 響希は耳を澄ませた。しかし聞こえない。
「誰……?」
 翠沙が誰にとも知れない呟きを洩らす。彼女が見つめているのは虚空の彼方だ。
「おい。本当にこっちなのか?」
 城の姿が遠のいていく。樹木の陰に隠れていく。道はまだ続き、いったいどこまで続いているのか知れない。
 不安を覚えて問いかけた響希であるが、翠沙はしっかりと頷いた。
「泣き声が大きくなって来ているもの」
 翠沙は断言する。しかし相変わらず響希には何も聞こえない。
 まさか李苑が一人で泣く為に出てきた訳じゃないだろうなと響希は眉を寄せた。けれども李苑に泣くほどの理由は見当たらない。あえて上げるとなれば優勝できなかったことだが、それは李苑にとって泣くほどのものとは思えなかった。
 いったい何を指しての言葉なのか、響希は首をひねりながら考える。
「ああ、李苑が止めに入ったわ」
 翠沙が安心したように胸を撫で下ろした。彼女の視線を辿った響希だが、そこには闇に霞んだ樹木が見えるばかりだ。組で鍛えた自分よりも、翠沙が闇に慣れているとは思えない。響希は怪訝な表情を強めるばかりだ。
 反対に翠沙は晴れ晴れとした笑顔を見せて、響希を引っ張った。

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 月明かりが見守る夜空の下を、李苑は何の迷いもなく歩いていた。
 いまごろ柔らかな寝具に埋もれて素敵な夢を見ていたはずなのに、聞こえた泣き声がそれを妨げた。李苑は唇を尖らせ、安眠妨害の原因となった泣き声の元へ向かっていた。しかし意識は半分眠っているのか、李苑の瞳はどこかぼんやりとしていた。視界が明瞭とせずに思考もあまり働かない。ただ「うるさい」という思いだけが脳裏を占め、足は目的地を知っているように勝手に動く。
 林の中へ入った李苑は首を巡らせた。
 瞼が重い。
 手を伸ばして近くの樹に触れ、力強くその樹を押す。
 李苑は反動を利用しながらかろうじて前へ進んでいく。
 目指す者が見えた。天空に広がる夜と同じ色を宿した髪の毛。幹に寄りかかっている彼女はそのまま月を眺めていた。それだけで一枚の絵になりそうな情景だった。
 鮮やかなその情景を目撃した李苑はようやく意識をはっきりとさせた。思考が冴えて眠気が飛んだ。
「眠れないの?」
 声をかけた。
 ランルの肩が震えた。月を見上げていた彼女は少し間をあけてから李苑を振り返った。声の主が誰かは知っていたのか、振り向いたランルは微笑んでいた。
「リオン」
 その笑顔に、李苑も同じく笑みを浮かべて返す。すたすたとランルの隣に並ぶ。パチンとランルの頬を叩いた。
「え?」
 痛みはまるでないが、突然叩かれたランルは驚いた。
「我慢しないで泣けばいいじゃん。近衛の地位にサウス以外がついて、そんなに哀しい?」
 ランルは瞠目した。なぜ李苑がサウスのことを知っているのか理解できないようだ。
「王妃に聞いたの」
 ランルの声を遮って告げると、ランルはホウと息をついた。李苑が来る前までそうしていたように、再び幹に体を預けて空を見上げる。その横顔には複雑な表情が浮かんでいる。
「安心しなよ。ランルの言った通り、私たちはお飾りだから」
 ランルは訝るような視線を李苑に向けた。その視線を受け止めて、李苑はニッと笑う。親指でも立てそうな勢いだ。
「サウスを連れ戻すんでしょ? その時、サウスが戻る場所はちゃんと空けておくからさ」
「貴方は……どこまで知っているの」
 李苑は首を傾げた。本当をいうと、李苑には何も分かっていない。響希の言う通り、単なる勘と勢いだけで言っているだけだ。しかしあながちそれらが間違えてはいないので、誤解を招くことが多くなる。
「ありがとう」
 ランルは微笑んだ。李苑は満足してランルの足元に座り込む。草木に夜露が光っていたが、ランルの足元だけは乾いた地面が広がっていた。
「人前で泣くのって、癪だけどさ……」
「ああ……それもそうだけど……違うわ」
 ランルは静かにかぶりを振った。
「私はガラディアの皇女だから……」
「弱いところを見せられないって?」
 直ぐに反応した李苑に、ランルは頷いた。
 いずれは民を治める身だ。民たちはやはり強い者に治めて貰いたいと思うだろう。簡単に心を揺るがせる王になど安心して任せていられない。
 李苑はゆっくりと思考を巡らせた。
「偶像崇拝ってさ、必要な時もあるけど……」
「え?」
 言葉が上手く伝わらない。李苑はしばし迷うように唸り声を上げる。
「うーんと。皇女のランルと生身のランル。偶像っていうのはランルが演技してる、王族としてのランルでしょ? でも本当はそんなの嘘だから、えっと」
 ランルは瞳を瞬かせ、不思議なものを見るような目つきで李苑を見た。
「難しい言葉を使うのね」
 李苑は、伝わったと思って笑った。言葉はすべて、教科書からの受け売りだった。
「だから、つまり、民たちに偶像は必要だけど私たちには要らないってことよ、うん」
「私たち?」
「そこで様子を窺ってる響希と翠沙」
 李苑が視線を向ける先に、ランルも視線を向ける。そこには大きな樹がそびえていたが、その影から響希と翠沙が現われた。
 気配がなかった二人の登場に、ランルは瞳を見開かせた。
 李苑に言い当てられた響希は不機嫌そうだ。しかしランルを見る彼女の視線は決して鋭いものではない。翠沙も同じだ。
「……いつから気付いてたんだよ」
「ランルに話しかける前からー」
 響希は溜息をついた。天然なのか意図的なのか、李苑はいまだに理解不能な所が多い。響希の睨みを笑みで受け流し、李苑はランルに向き直った。
「話戻すけど、だからさ、私たちに偶像見せられたって、そんなのサウスを助けるために邪魔でしょ?」
「おい!」
 李苑の言葉に、誰もが目を瞠って驚いた。響希が牽制を込めて呼んだが李苑は笑うだけだ。
「だって、もう関わっちゃったもんね。今更おりる気もないんでしょ? どうせさ」
 李苑の言葉に困惑する空気が流れる。
 翠沙がそんな空気の中で躊躇うように一歩踏み出す。
「李苑。助けるって……」
「あ、それは言葉のアヤ」
 李苑は何の躊躇いもなく告げる。
「ただ捜すってのより、救い出すってのの方が燃えない?」
 響希は問答無用で李苑を殴った。
 二人の口喧嘩が始まる中、それを見守りながらランルは溜息をついた。そして宝珠を外す。宝珠と共に鎖に吊るされていた指輪を手の中に落とす。
 ランルは銀色の指輪を三人に渡した。
「何だ?」
「貴方がたの近衛への申請が受理されたわ。これは私の近衛の証。次に会うときに渡そうと思って、持っていたの」
 李苑は手の平に落とされた指輪を月光に透かし見て感嘆した。さっそく指にはめてその手を返したり、再び月光に掲げてみたりする。やがて力強い笑みを浮かべてランルを見た。
「近衛の証っていうより、同志の証ね」
 月光を浴びた銀の輪が輝いた。
「これで貴方たちの身の証は立てられるわ」
「ありがと、ランル!」
 響希と翠沙も指輪をはめた。翠沙は少しだけ困惑しているようだ。
「でも、私は近衛ではないのに……」
「今の大異動であれば、多少の融通を利かせることが簡単にできるからね」
 ランルは軽く笑った。そして息を吐き出し、皆の顔を見渡すと告げる。
「こんな事を言うのも悪いけれど……サウスのことは私の問題だから、あなた達を頼るつもりはないわ」
 李苑はすかさず「だーめ」とふざけるように告げた。
「私たち、もうランルの近衛だもんね。ランルがサウスのことで無茶するなら、私たちはそれを止める権利を持ったのよ」
 ランルは困惑するように皆の顔を眺め渡した。誰もが李苑の言葉に賛成しているようで、止めようとはしない。
「けれど私は――」
 ランルは言葉を濁す。確かに初めは三人を利用してサウスを助け出すという打算が働いていた。しかし三人の人隣を簡単だが知り、王妃に目論見が露見してしまった今では、三人の言うようなサウス救出は見込めないだろう。
 翠沙がいたずらを仕掛けた子どものような表情で李苑の隣に立ち、李苑の手を握った。そしてランルを見つめる。
「貴方が危険に陥ったら助けなければいけないものね」
「そう。それに、あのいけ好かないセフダニア。人を気色悪いゾンビ攻めにしてくれたあそこだけには、きっちり借りを返しておかないと!」
 李苑は握りこぶしで強く訴えた。
 主人であるランルを無視して話は進む。近衛という地位を得たことで、彼女たちには城内でも不審に思われない立場を確立した。むしろその動きやすさを得るために近衛に志願したのでは、と思えるほどだ。
 ランルは徐々に表情を曇らせていった。このままでは王妃に打ち明けたことが他の者たちにも露見してしまうのではないかと恐怖が湧いた。それだけは避けなければならない。彼女たちを簡単に近衛に申請してしまったのは早計だったかしらと唇を噛む。自分勝手なわがままだと悟ってはいても、ランルは三人を疎ましく思った。
 笑いあう李苑と翠沙とは別に、腕組みをしたままランルを見ていた響希は眉を上げた。何かが自分の胸に働きかけた気がした。しかし何の証拠もないそれは直ぐに過ぎ去ってしまい、響希の中に奇妙な胸騒ぎだけを残す。
 ランルが顔を上げて三人を見た。
「よろしくね、新しい近衛さんたち」
 一番近くにいた響希へと、ランルは握手を求めた。
 響希は笑ってその手を握り返す。李苑ほどサウス救出に興味は抱けないが、乗りかかった船を途中でおりる気にもなれない。燻る焦燥とはまったく逆の展開だ。しかしそれも仕方ないかの一言で済ませようとしたその時だ。
「え?」
 その場にそぐわない緊張した翠沙の声が上がった。
 誰もが問いかける間もなく、ランルと響希の胸元で宝珠が光輝いた。
「何で……!」
 ランルが驚愕したように宝珠を掴んだ。しかし宝珠は発熱し、とても触れるような物ではなかった。手の平に軽い火傷をつくり、宝珠は鎖から自分で外れてランルの目の前に浮かび上がる。ランルが意図した力とは全く関係ない力を放つ。
「何だ……?」
「響希!」
 鋭く放たれた翠沙の声に、ランルの宝珠に見入っていた響希は自分の足元に視線を落とした。そこには眩く輝く魔法陣が出現していた。足元から広がる光は響希を徐々に飲み込んでいく。
 まるで光に消えてしまいそうだ。
 李苑はとっさに響希の腕にしがみ付いた。それを追いかけるように、翠沙が李苑の腕を掴んだ、その刹那。
 それぞれ三人の悲鳴が響いた。
 宝珠の暴走を必死で止めようとしていたランルは顔を上げた。夜だというのに辺りには一面の光。視力を失ったように何も見えない。三人の悲鳴は次第に小さくなり、消える。
「リオンッ?」
 返事はない。
 必死で周囲を掻き分けるように捜したが、すぐ近くにいたはずの響希にも当たらない。
 そして唐突に、ランルの視界は元の林に戻された。
「え……?」
 ぽとりと宝珠が地面に落ちた。
 ランルは恐る恐る宝珠を拾い上げたが、宝珠は冷え切っていた。透明な蒼を描く宝珠は静かにランルの顔を映し出すだけ。
 ランルはゆっくりと周囲を見渡す。
 林には何の異変も見られない。動物たちが悲鳴を上げることもない。
 けれどランルの前に、三人の姿はなかった。