第五章 【一】

 響希は自分が立っている事に気がついた。
 いつからこうしていたのか、この場所がどこなのか、深く考えることはない。
 視線を上げて、目の前に少女がいると気付く。
 華奢な体を持つ彼女は、光に透けてしまいそうに白い肌を持っていた。艶やかな黒髪をスルリと背中に流し、響希を見つめて微笑んでいる。
 ――強い、強い想いと願いを持っていれば、私たちは時空も次元も超える事が出来るの。
 少女の唇が言葉を紡いだ。
 響希はただ黙ってその言葉を受け入れる。疑問は何も浮かばない。そういう物なのだと享受する。
 ――私たちはこれを守らなければいけないのよ。いつか、あの人にお返しする時まで。
 少女は微笑みながら響希に告げる。そして静かに瞼を閉じる。
 一度目の力の発動は、鮮烈な想いを持った、紫の皇女の為に。
 少女は閉ざした瞼を静かに開けて響希を見据えた。微笑みは無かったが、それでも響希を見つめる瞳はとても優しい。
 響希は静かに瞬きを繰り返しながら見つめ続けた。
 一度目の発動がランルの為であるならば、今度は誰の為であるのだろう。響希が見つめ続ける前で、少女が首を傾げる。漆黒の髪がサラリと彼女の肩を滑る。
 響希はなぜか、少女の笑顔に胸を痛めた。喉の奥に言葉が詰まるような気がした。
 この笑顔を見せてやりたい。
 誰に、とも分からぬまま響希は思った。
 まるで響希の想いを読み取ったかのように少女が首を振る。意志の強さを感じる漆黒の瞳が哀しそうに歪められる。響希が望んだことは、世の理に反することだから。
 ――ごめんね?
 少女は顔を上げると響希に謝った。瞳に宿る哀しみは消えない。
 ――貴方はもう、自分の道を定めなければならない。
 声は空気に溶ける。
 ――私があの人に会うことを、どうか許して。
 漆黒の髪が宙に舞う。遠ざかろうとする少女に響希は足を踏み出した。少女の隣に、誰かの影が映った気がして双眸を瞠る。切望する思いで手を伸ばす。
 少女を連れて行くことは出来なくても、少女の元に向かわせることは出来るのか。けれどそれは、響希との永久の別れを意味している。
 響希は叫んだ。
「行くな! 駄目だ!」
 涙が滂沱と頬を濡らす。響希のそんな姿はとても珍しいと驚く者は、その場にいなかった。
 眩く光を放つどこかへ消えて行こうとする二人に走ろうとしたのだが、足は誰かに掴まれているかのように動かない。
 少女の笑顔はもう響希には向けられなかった。新たに隣に現れた人物へと向けられる。そしてその人物の胸に頬を寄せて、とても幸せそうに瞼を閉ざす。
 響希はその場に縫いとめられたまま見上げていた。
 二人が消えた後、胸には空虚な風が通り過ぎていった。

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 目覚めた響希は、見慣れない天井を不思議に思った。
 夢の中で感じた寂寞は消えずに響希を縛っていた。
 響希は体全体に妙な疲れを感じながら視線を巡らせる。窓があり、そこから覗く青空の眩しさに瞳を細める。起き上がろうとして力が入らない事に気がついた。
「響希。気がついた?」
 横から聞こえてきた声に視線を向けると、李苑がそこに立っていた。
「おう」
 李苑はいつになく真剣な表情で響希を見つめていた。その事と、先程までの夢が響希を落ち着かなくさせていて、戸惑いながら響希は頷いた。
「どこまで覚えてる?」
「――ランルの近衛になったこと。握手して、形見が熱くなった。……あとはさっぱりだ」
 思い出すように眉を寄せた響希に、李苑は頷いた。
「うん。指輪を貰ったことも夢じゃない」
 夢、との言葉に響希は肩を揺らせたが、李苑は気付かなかったようだ。視線を自分の手に落とし、その手を響希に翳す。李苑の中指には銀色に輝く指輪が嵌められていた。
「ここは?」
「ランルの世界に行ってから、何日経ったか覚えてる?」
 響希の質問には答えず、李苑は問いかけた。響希はいつもと違う李苑の様子に首を傾げながら考える。
「セフダニアとかいう所でランルに会って、ガラディアに泊まったのが一日目だろ? その夜に襲われて、次の日は遅く起きて、ランルに大会に出ろと言われたのが二日目。大会当日は三日目だ。その夜にランルに近衛の指輪を貰ったから、今日は四日目だろ」
 響希は再び窓に視線を向けた。外は昼間のような明るさを宿しており、あれからずっと眠っていたのかと眉を寄せる。しかしなぜか、その窓に違和感を覚えて釈然としない気分になる。何がどう、と言葉として考える前に李苑の声が響希の意識を攫った。
「私たちが日本から消えて、四日経った」
 響希は視線を李苑に戻す。寝台に横たわったままで翠沙の姿を捜したが、見渡せる範囲に翠沙はいなかった。部屋の中に感じる気配も李苑の物しかなく、他には誰もいないのかと不思議に思う。
「響希、聞いて。ここは日本だよ」
 李苑の言葉に響希は瞳を一度、瞬かせた。
「日本?」
「そう。響希が魔法陣に包まれて消えて、そこから移動したんだと思う」
 ようやく、響希は周囲の違和感の正体に気がついた。窓も、天井も、見慣れた日本の建造物だったのだと納得する。そして“魔法陣”との言葉に記憶をさらってみたが、生憎響希の記憶には無かった。
「気付いたら私たちはこの病院に収容されてた。あの橋で倒れてたみたい」
 響希は軽く頷いた。ここが病院だという事は素直に納得できる。
「翠沙は?」
 響希の問いかけに李苑は瞼を伏せた。その様子が不吉な物を感じさせて、響希は胸を騒がせる。もしや翠沙は自分たちと一緒に転移されなかったのではないかと李苑を見つめた。
 李苑は一拍置いて口を開いた。
「翠沙は……今、私たちの代わりにお葬式に行ってる」
 心配したことではないようで、響希はひとまず安堵の息をついた。強張らせていた体から力を抜く。
「誰の葬式だ?」
「――響希のお父さんの」
 響希は息を止めて李苑を凝視した。
「親父、の……?」
 李苑は顔を俯けて続ける。
「私たちが消えてた三日間、こっちでも同じ時間が流れてて……私たちは行方不明として扱われていたんだって。それで、その間に、響希のお父さんは……亡くなったって……!」
 徐々に昂ぶっていく感情を示すように、李苑は細く悲鳴のように告げた。そんな李苑を響希は不思議に見つめた。
 まさか、あの父に限ってあり得ないと、悲痛な声を出す李苑を馬鹿馬鹿しく思った。しかし否定した端から黒い感情に飲み込まれていく。
「誰にやられたんだ」
 李苑は首を振る。
「心臓発作だったって」
「心臓?」
 響希はますますこれは李苑の悪質な冗談なのだと信じるように、李苑を見た。
 しかし李苑は涙を堪えて響希を見ている。ただの冗談だと片付けるには、その演技は中々の物と言える。
 響希は自分がどこか遠くに置き去りにされたような感覚を味わった。
「響希がいなくなって、お父さんが倒れて、それで、そのまま」
 李苑は言葉を切らせると踵を返した。響希の視界から李苑が消え、そして直ぐに別の音が聞こえる。何かの電子音と、それから流れ出す音声。
 テレビをつけに行ったのだと、直ぐに気付いた。
 戻ってきた李苑は響希に手を伸ばした。その手に支えられながら響希は体を起こす。なぜこんなに衰弱しているのか、良く分からなかった。
 体を起こした響希は真正面にテレビを見た。真っ白な病室の中で、テレビの黒枠だけが浮かび上がるように視界に入った。
 映されていたのは響希の自宅だった。
 何かのニュース番組らしい。画面の右下には「関東最大の組織、天野組の組長、死亡」というテロップが映されている。
 響希はそれを見てなお信じられなかった。
 李苑はテレビを食い入るように見る響希の様子を確認し、音量を上げた。小さかったアナウンサーの声がはっきりと聞き取れるようになる。
「――大の組織でしたからねぇ。相続問題で、現在は傘下の組員たちも――」
「娘さんが近くで発見されたという情報も――」
「しかし意識はまだ――」
 響希はその声を聞きながら首を傾げた。音声の所々が聞こえないように思えた。
 無意識下で聞きたくないから認識しないようにしているのだ。けれど響希は理解できずに苛立ちを募らせる。
 上空から邸宅を映していたテレビ画面が、地上からの映像に切り替わった。組の玄関には大勢の報道陣が詰め掛けている。中には無茶苦茶なレポーターが、止める組員の腕を掻い潜って中に走り込んでいた。
 組員たちも、これほど大きく取り上げられるとは思っていなかったのだろう。報道陣に対する牽制は万全とは言い難く、彼らの隙を潜って中へ入り込む者たちは多い。
 響希たちが見ているテレビ局のカメラマンも同様だった。手薄な所を狙って門を通りぬけ、掴まる前にと弔問客が集う場所へ全速力で駆けていく。画面が大きく揺れて見難い場面が続いた。
 そんな報道陣に、ついに怒りを閃かせた天野組は一喝して全報道陣を追い出した。
 響希は何も言わずにその流れを見続ける。
 テレビ画面に映し出される、見知った組員たちの表情が、嘘ではないと伝えてきている。彼らは酷く不器用で、嘘の表情は作れないと知っている。
 そして響希は、カメラマンが邸宅を追い出されようとする際に、一番奥に建てられた離れに人々が集っているのを見た。殆ど一瞬しか画面には映されなかった。しかし実際その場に住んでいる響希には見て取ることが出来た。
 大きく開け放たれた離れの入口。そこから見えた中には多くのパイプ椅子が並べられ、黒と白の鯨幕が張られていた。部屋の一番奥には大きな何かが飾られていた。そこまで見て取ることは出来なかったが、そこまで見れば充分だ。
 李苑が部屋からそっと出て行ったことにも気付かず、響希は布団に打ち伏せた。