第五章 【二】

 李苑は廊下に出ると扉を閉めた。そして扉の前に座り込む。
 この病室は特別に、他の患者たちの部屋とは離してある。天野組の顧問にあたる病院である為、そのような優遇も利く。
 李苑は廊下の床に両手を着いて、その冷たさを感じた。
 今回死亡した組長とは面識があった。何度か遊びに行った響希の邸宅で、何度も話をした。恐ろしげな風貌とは別に、優しい心にも触れた。
 どうして皆、こんなに容易く死んでしまうのだろう。
 やるせない気持ちで一杯だ。
 李苑の両親もまた、買い物へ出て行ったっきり、戻っては来なかった。
 響希よりも一日早く目覚めていた李苑と翠沙は病院で状況確認をしていた。その時にはまだ、組長の死亡など知らなかった。知らされたのは、病室に駆け込んできた組員がいたからだ。
 ――慶≪けい≫。死亡した組長の側近頭を務めていた男だった。
 彼は、まだ意識を取り戻していない響希の寝顔を見るなり涙を零した。
 そしてそのまま響希に近づき、膝を折って謝罪した。
 李苑は扉の前で膝を抱えた。唇を引き結んで瞳を硬く瞑った。
 ランルはどうしただろう、と想いを巡らせる。人を簡単に化け物へと変えるような者が治めるセフダニア。そこに捕らわれているというサウス。もしサウスが死んだりなどしたら、ランルは――。
 ガタン、と部屋の中で大きな音がした。
 李苑は慌てて扉を開ける。
 響希が寝台から落ちていた。寝台の側にうずくまって、痛みに顔を顰めている。
 常ならば考えられないその光景に李苑は驚愕して駆け寄った。
「何で……っ!」
 途中、響希の苛立った声が響いた。床に着いた手を震わせ、必死で起き上がろうとするが力が入らないらしい。自力で体を起こすことも困難なようだった。
 起き上がらせようとした李苑は、その声に足を止めて立ち尽くした。拳を握り締めて震わせる。
「……翠沙が言うには、宝珠のせいなんだって」
 李苑の声に響希が視線を向けた。
「向こうからこっちに渡ってくる為に、宝珠は響希の体力を使ってしまったんだって、言ってた」
 響希は首に掛けられている宝珠を見た。今は服の下から零れ、床に転がっている。黒い輝きを宿す宝珠は響希の目の前にあり、情けない今の姿を映し出す。
 何の変化もない宝珠には、今は暗い色が宿るばかりだ。
 その場から動けない響希に李苑は手を差し出した。そしてわざと、偉そうに胸を張って見せた。
「私が響希に手を貸すなんて滅多にない経験なんだから。有難く掴んで経験していいわよ」
 響希は嫌そうに、本当に嫌そうに顔を顰めた。それでも李苑の手を取る。李苑は力を込めて響希を引き上げた。
「……家に戻るんでしょ? 私だけじゃ無理だから、ちょっと待ってよ。翠沙が慶さん連れてきてくれる筈だから」
「慶?」
 問いかけた響希に、李苑は笑顔で頷いた。そして視線をテレビに戻した。テレビでは相変わらず天野組が映されている。屈強で強面の男たちが幾人も門前に立ち塞がり、中の様子を知りたがる報道陣を威圧している。
「中にはもう入らせてくれないんだ」
「当たり前だろ」
 答えた響希の脳裏に過去が過ぎった。
 塀を乗り越えてまで侵入を図った、幼い李苑の姿。
「……あれから警備も強化したんだから、二度とあんな真似するなよ」
「だって正面から行っても入れてくれなかったんだもん。いっくら響希の友達だって訴えてもあしらわれるし」
 どうやら両者とも、考えていた事は一緒だったらしい。李苑は頬を膨らませながら当時を振り返る。
 そんな李苑を見ながら響希は溜息を落とす。
「今はお前、顔パスだから」
 響希としては不本意であるが、組員たちは李苑と翠沙のことを、響希の親友として認めてしまったのだ。響希もその事に強固な異論がある訳ではない。しかし、抵抗感は拭えない。
「ね。私たちはこっちに帰ってきちゃったけどさ。ランルの事、あのままにしておくなんて出来ないよね?」
 李苑は響希を窺うように問いかけた。
 響希は李苑から視線を外し、真っ直ぐに前を見据える。病院の白壁を睨みつけるようにしながら素っ気無く答える。
「……どうでもいい」
 思いとは正反対の事を告げる。
 李苑が何か口を開く前に、響希は続けた。
「だが、あの世界にはまだ用がある。行く方法は探す」
「用?」
 李苑が首を傾げて見つめる中、響希は視線を宝珠に落とした。父親から渡された、母親の形見である宝珠。ランルがいる世界に関係がある物。
 ――母親が何者であろうと構わなかった。しかし、知りたいという欲求は湧いた。父の訃報を聞いた今では更にその想いは強い。何を求めているのか自分でも分からないが、このままでは納得が出来ないような気がした。
 そういえば――と、響希は李苑を見た。
 先程まで感じていた焦燥感が綺麗に失せている事に気付いたのだ。
 響希は溜息を零し、その意味が分からなかった李苑は首を傾げて響希を見上げた。

 :::::::::::::::

 響希と李苑は同時に扉を見た。
「お嬢!」
 大声を上げて体格のいい男が飛び込んできた。
 響希が寝台に腰掛けているのを見ると、扉から一歩入り込んだ所で固まる。
「うるせぇぞ慶。ここは病院だ」
「あら響希。目が覚めたのね。良かったわ」
 慶に隠れていた翠沙が顔を覗かせた。その事に響希は微笑みかける。
「元気そうで何よりだ」
「ありがとう」
 黒いドレスに身を包んだ翠沙も微笑み返した。
 その事でようやく慶も金縛りを解いたらしい。見る間に涙ぐんで響希に近づく。
「お嬢……」
 ベシリと慶の顔面にスリッパが投げつけられた。
「その呼び方、やめろって言ってんだろ!」
 響希は肩を怒らせて怒鳴った。そのことでバランスを崩し、倒れようとしたのを李苑に支えられる。慶の顔が引き締まった。
「まだ衰弱しているのですね。私が連れて行きますが、宜しいですか?」
「その為に来たんだろう」
 抱き締めるように腕を回す慶の首に、響希は掴まって抱え上げられた。
 幼い頃から組長は響希を厳しく育ててきた為、父親代わりにもなっている慶である。彼にだけは響希も弱味を見せる。
「私も一緒に行っていい?」
「車にはまだ余裕がありますから」
 響希を抱えた慶は、李苑の言葉に頷いた。翠沙が病室のテレビを消す。
 病院の中は結構混み合っており、待合所を通り過ぎる時には慶の姿を見た幾人かが囁きを交わしていた。慶の姿がテレビで報道されていたからだろう。
 当の本人たちは気にした様子もなく、悠然と歩いて病院を出た。玄関には大きな黒いリムジンが停まっている。
 慶は後部座席のドアを開けると、響希を抱えたまま乗り込んだ。
 李苑と翠沙は、響希と向かい合うように座る。
「出してくれ」
 天野組専属のドライバーなのであろう彼は、響希の姿に笑みを零してアクセルを踏んだ。
 車はゆっくりと病院を離れ出し、車道へと出る。その直後、車外が騒がしくなった事に気付いた李苑はそちらに視線を向けて顔を顰めた。一体どこから嗅ぎつけたものか、病院の門前で幾人かの報道陣がシャッターを車に向けていた。車に取り付こうとするのを止めているのはやはり、天野組の者たちだった。
 響希は彼らを一瞥したのち慶に視線を向けた。
「父はいつ?」
「お嬢が行方不明になられたと知ってから、それ程しなかった頃に」
「そうか」
 響希は顔を顰めた。そのタイミングであれば、響希が原因とも捉えられる。しかし響希が顔を顰めたのは、自分を責めての事ではない。
「組の看板背負うような奴が、娘の不明に動揺するなっての」
 忌々しく舌打ちする響希に、慶は笑った。
「お嬢は稀ないい子でしたからねぇ」
「やめろ」
「世の“いい子”に失礼だ」
 李苑と響希が同時に吐き捨て、翠沙は軽く吹き出した。
「それで、今はどんな状況なんだ」
「なぁに。お嬢が出て行けば直ぐに治まるような状況ですよ」
 響希は不愉快に眉を寄せる。
「相続か」
「お嬢が行方不明ってのは直ぐに知れ渡ってしまいましたからねぇ。あいつらは意味のない所で耳がいい。ついでに、抗争の件は片が付きました」
「分かった」
 響希は窓枠に頬杖をついて瞼を閉じた。
「屋敷に着いたら起こせ。それまで眠る」
 混乱する組員たちの前に出る為、少しでも体力を戻しておきたかった。
 意識を深く眠らせようとする響希に、李苑が首を傾げる。
「でもさ、響希。体力回復の前に、やる事があるんじゃない?」
 その言葉に響希は瞼を開ける。胡乱に李苑を見る。
「あら。気付いてないのね、自分の格好」
 翠沙にまで言われ、ようやく自身の格好を見下ろした響希は固まった。ランルたちに用意された夜着をそのまま纏っていた。ヒラヒラと腕や足を舞う、非常に女の子らしい夜着。
「え。構わないじゃないですかそれで。滅多に見られないお嬢の艶姿は若い奴らに活力を」
 慶は容赦ない響希の鉄拳に沈められた。羞恥が疲労を上回った瞬間に、李苑と翠沙は「おお」と拍手を浴びせた。響希は二人を睨みつける。
「おい、屋敷の前に服を買いに回せ!」
「いてて……お嬢ってば、そんなに照れなくても」
「喧しい!」
 見かねた翠沙が苦笑しながら自分の上着を差し出した。響希はむしるようにそれを受取り、肩から羽織る。袖を通すには翠沙の服は小さすぎた。
 響希は息切れを起こして横になった。眩暈に耐えるように硬く瞳を瞑る。
「ありゃ。響希ってば平気?」
「だーまーれ」
 響希は荒い息のまま李苑を押さえつけた。
 常になく弱っている響希であったが、目覚めた当初より体力が回復している事に気付いていた。腕には力が戻り、体を起こす事も自力で出来るようになっている。
 後部座席で賑やかな会話が交わされるうち、車は高級ブランド店の駐車場に辿り着いた。気付いた李苑は「うわ」と唸る。
「おい李苑。何か見繕って――いや、翠沙。頼むから付いて行ってくれ」
 キラキラと瞳を輝かせた李苑を見て、響希が翠沙に縋った。翠沙はクスクスと笑いながら頷きを返す。そして李苑と二人、外へと出た。
 二人の後姿を見送った響希は再び横になった。
「でもお嬢、意外に冷静なんすね。取り乱すんじゃないかと思っていたのに」
「……あいつらがいたからだろ」
 二人がいないからこその本音であった。
 慶は嬉しそうに微笑んで響希を見下ろす。
「ところでお嬢はこの三日間、一体どこへ?」
「母の故郷だ。質問はよせ。まだ全部、整理できてる訳じゃねぇんだ」
 慶が驚いた気配を醸すのを感じた響希は、強い声で制止した。
 慶は不満そうな顔で言葉を飲み込む。
「……慶は、母の事を覚えているか?」
「そりゃ勿論。綺麗な姐さんでしたから。俺だけじゃなく、皆の憧れでしたよ」
 微笑む慶の言葉に偽りはない。
 響希は体を起こして慶を見た。
「どんな人だったんだ。俺は覚えてないんだ」
「どんな……ふむ。そう言われると難しいですね。掴み所のない人でしたから」
 慶はどんな言葉で表そうか迷うように唸り声を上げた。
 響希の母、耀子≪ようこ≫は極道生まれの娘ではない。記憶を失い、当てもなく彷徨っていた所を組長に拾われた。組長は周囲の反対を押し切り、更には拒否を示した耀子を口説き落とし、半ば強引に一緒になった。
 それだけを聞かされていた響希は瞳を閉ざした。
 考えてみれば得体の知れない所ばかりである。もし本当に耀子が宝珠世界の人間であるならば、こちらの世界で生きていくのは辛いであろう。戸籍もなければ常識もない。そんな中で父と出会ったのならば、宝珠の奇蹟が彼らを引き合わせたのかもしれないと思ってみる。極道の中に取り込まれてしまえば多少の無茶は通せる。戸籍がなくてもそれほど苦労しない。
 ――貴方の事が知りたいんだ。母さん。
 慶の声はもう届かない。深い所から滲み出した記憶が響希を包み、温かな腕が揺り篭のようだと思えた。
 響希はいつしか意識を闇へと委ねていた。