第五章 【三】

 響希は目まぐるしく変わる風景を眺めていた。
 草原の時もあれば荒野の時もあった。月夜が見えたと思えば眩く煌く太陽が見える。人々の声は甲高く過ぎ去り、響希は眩暈を感じて眉を寄せる。
 なぜ自分がこの場所で立っているのか分からなかった。
 宝珠に支配された世界。
 頭の奥で何かが警鐘を鳴らしていると感じたが、判然としないまま響希は周囲を見渡す。目まぐるしく変わる風景はちっとも速度を緩めない。四肢が四方へ引っ張られるような感覚を覚えて片足を踏み鳴らす。
 唐突に、足元から闇の円が広がった。
 響希は息を呑む。
 翠沙に良く似た少女が闇の中から響希を見ていた。


「お嬢、着きますよ」
 慶に揺り動かされた響希は瞼を開けた。見慣れた慶の顔が映って、自分がどこにいるのか確認する。今は車で屋敷へ移動中だ。
 響希は体を起こして顔を顰める。確かに夢を、あまり気持ちのいい夢とは言えないものを見ていたと思ったが、砂時計の砂が手の平を滑り落ちたように、それは記憶から抜けていた。舌打ちをして溜息を吐き出す。
「分かった」
 響希の舌打ちを、疲労と取った慶は窺うように響希を覗き込んだ。響希は「大丈夫だ」と敢えて告げる。
 実際、全身を包んでいた疲労は綺麗に消えていた。
 響希は不思議に思いながら顔を上げる。目の前には翠沙がいて、慶と同じように心配そうに覗き込んでいた。その顔になぜか驚きながら、響希は瞳を瞬かせた。眠っている間に翠沙が癒してくれたのかもしれない、と考える。
「響希。はい」
 自分の体を確かめるように動かした響希は、目の前に差し出された紙袋に瞳を瞬かせた。紙袋を掴む腕を辿っていくと李苑の姿がある。嬉しそうに笑いながら響希に紙袋を突き出している。
 李苑には着替えを頼んでいたのだと、ようやく思い出した響希は戸惑いながらそれを受取った。どうも感覚が平常と掛け離れた場所にあるようだ。勘を取り戻せなくて、自分と周囲の間にズレを感じてしまう。
 響希は努めて平静を装いながら紙袋から着替えを取り出した。
 李苑が選んだにしてはシンプルな黒のワンピースであった。やはり翠沙を一緒に行かせて正解だった、と響希は思いながら服を広げる。
「まぁ、妥当な所か」
 スカートだという所が気に食わなくて呟くと、李苑と翠沙は顔を見合わせて小さく笑った。響希の反応は予想済みであったのだろう。
 響希は素早く着替えるとかぶりを振った。すっかりと忘れていたが、髪を結わえていない。長い髪は肩を滑って視界で揺れる。それを鬱陶しく思って縛ろうとしたが、車は直ぐに屋敷へと着いてしまった。おまけに縛るゴムも持っていない。響希は仕方なく諦める。
 屋敷の前には大きな花輪が幾つも並べられていた。
 警察が動いたのか組員が奮闘したのか、テレビで見ていた報道陣は姿を見せなかった。代わりにいたのは厳つい弔問客ばかりである。運転手がクラクションを鳴らすと直ぐに道をあけて、人々は車の中にいた響希を唖然としたような表情で見た。
 響希は険しい顔つきになって背筋を伸ばす。李苑と翠沙も自然と背筋を伸ばし、響希に倣うように視線に力を込めた。
 中庭で停まった車からは慶が先におりた。
 車の到着に気付いた組員たちが取り囲む。響希が帰還したことを既に知っているのか、彼らの顔には期待が煌いていた。
 慶の背後に視線が集中する。
 慶の手にエスコートされ、響希は自分の髪を踏まないよう払って、地面に足をついた。立ち上がると組員全員の視線が強く響希を貫いた。それらを一瞥して響希は歩く。先程まで歩けなかった様子など微塵も感じさせず、悠然とした態度である。
 さすがだと、響希に続いて下りた李苑は感じながら彼女の背中を見上げた。
 組員たちの間からは安堵の吐息が洩らされた。
「……ご無事の帰還、何よりです……」
 まるで感極まったかのように弱い声音が響いた。
 響希が顔を向けると、視線の先には厳しい顔つきの男がいた。彼は進み出て響希の前で唇を震えさせる。
「苦労をかけたな、夾≪きょう≫」
 響希は少しだけ表情を綻ばせて頷いた。彼は、慶に並んで父の側におり、尽力を注いできた男だ。慶と同じで父親代わりにもなっていた。
「父はどこだ」
「こちらに」
 夾の後を響希が追った。その後を慶が追い、李苑と翠沙は少しだけ躊躇った後に皆を追いかけた。
 普段なら取り囲まれて外へ放り出されそうな李苑たちの存在であったが、普段から平気で組の門を潜り、響希の親友と認められている彼女たちの道を妨げる者は誰もいない。
 皆の視線が響希を追う中、役目を終えた車は直ぐに走り去った。
 響希は車の排気音を背中で聞きながら庭を抜けた。響希の姿に気付いた者たちが次々とお帰りなさいと大きな声を浴びせかける。
 やりきれない理不尽な悲しみが静かに立ち込める離れの建物。
 周囲の者たちが一人、また一人と気付いて響希の為に道をあけた。涙ぐむ者もいたが、響希は彼らに掛ける言葉を持たなかった。父の側に近づくにつれて緊張は高まる。誰の声も聞こえなくなる。人垣が割れた中を、響希は止まらずに進む。
 体育館のような建物に入った響希は、奥に遺影と棺を見た。思わず足を止めてそれを凝視する。
「お嬢」
 止まった響希に慶が声をかける。
 響希は奥歯を噛み締め、一瞬の間をあけて再び進んだ。しかしその足取りは重たくなっていた。
「響希」
 今度は背後から李苑が声をかけた。
 振り返ると、李苑と響希が心配そうに響希を見つめている。
「私たち、向こうの席にいるから」
 二人が指したのは出口に近い場所だ。
 響希は視線をそちらに向け、曖昧に頷いた。李苑がますます心配そうに響希を凝視する。
 そんな視線に気付いて、響希は表情を改めた。
「お前に心配されるようじゃ終わりだな」
 わざと笑う。
「なら終わらせないで続けてきてよ」
 李苑は下唇を突き出して不満げな声を出し、次いで笑った。
 響希は心が軽くなった気がした。踵を返し、再び歩く。
 人だかりができていた棺の前へ行くと、露払いをした夾が振り返る。誰もいなくなった棺の前へ、響希だけで進む。
「父さん」
 響希は遺影を上げて呟いた。視線を落とし、掛け無垢のかけられていない蓋を開ける。そこには白装束を纏った父が横たわっている。葬儀屋が死に化粧を施したのか、眠っているようにしか見えなかった。
 響希は唇を引き結びながら父に手を伸ばした。
 頬に触れる――冷たい。
 その頬を撫で、髪を整え、頭を抱くように後頭部に手を差し入れ、ギクリと手を止める。そこはまだ熱かった。
 一瞬、父がまだ生きているのかと思った響希だったが、手に触れた頬の冷たさを思い出す。彼が時を止めてから一日。彼の血だけがまだ熱を失わず、体の下へ回り込んで響希を待っていたのだ。信じられない程に熱い父の頭に再び手を当て、響希は嗚咽が込み上げてくるのを感じた。涙が零れかけるのを慌てて飲み込む。父に涙をかけてしまえば三途の川が増水する。
「ただいま帰りました。なのに……」
 これ程に熱い父の体は、もう冷たくなっていくだけだ。もう一日目覚めるのが早ければ会えたのに。それだけが悔しい。
 響希は父から手を離した後に宝珠を握り締めた。そして思い出した。ガラディアから病院までの空白の時間、見た夢を。
 とても強い目をした漆黒の少女が笑い、その隣に現れた影。思えば現れた少女は、ガラディアで見た『ルヴァイヤ』の肖像画に良く似ていた。
「母さんの所に、いけたんですね?」
 確信を持って響希は問いかけた。
「貴方の遺志は、俺が引き継ぐから……」
 響希は花に埋もれる父へ告げた。厳つい顔の父に何て似合わない背景なんだろうと、そんな事を思いながら。
 響希は奥歯を噛み締めながら死水を与え、壇からおりた。
「夾。分家の者たちはどこにいる」
「いつもの控えに皆集まっておいでです」
「分かった」
 父に向けた声とは違い、響希の声は硬かった。鎧を纏い、先の先まで見据える。
 背後を守る慶と夾は、その硬質の横顔にそっと溜息を落とした。響希は気付かない。李苑たちをその場に待たせたまま、別の出口から示された場所へ向かった。
 これから幹部たちの中から夜伽の者が選ばれる。夜通し父の側におり、蝋燭の火を絶やさぬようにするのだ。大きな組織であるため通夜は三日続き、本通夜が行われた後に火葬される。初七日の日には幹部達で死者の追善供養をする。極道などやっているのだから罪は常人よりもよほど重い筈だ。そして四十九日が明けた日は、響希が天野組を襲名する儀が行われる。
 天野組で行われてきた、昔からの習わしだった。
「慶。夾。俺が何を言っても口出しするなよ?」
 障子で仕切られた部屋へ入る前に、響希は二人に釘を刺した。二人は軽く小首を傾げて「はい」と頷く。
 響希は唇だけに笑みを刻んで障子を開け放った。部屋にいた皆の視線を瞬時に浴びる。
「しばらく留守にしていて済まなかった。父の為に集まってくれたこと、心より感謝する」
 響希は上座に座って一同を見渡した。
 父が大きくした組だった。分家を多数抱えて勢力は強い。関東一とまで言われる組に成長し、抗争も後を絶たない。響希は常に父の側に控え、補佐的な役割をすることで統率力を養っていた。けれど今、向けられる視線はあまりに弱い。響希の出迎えの場に、今部屋にいる幹部たちが殆ど顔を出さなかったのが良い証拠だ。
 彼らは固唾を呑んで響希を見つめていた。
「四十九日も済まない内から何をと思われるかもしれないが、俺は父の遺志を継ごう。天野組を襲名する」
 ――表情に出さないまでも、皆の顔が顰められたのが響希には分かった。
「お前達の心配は承知の上だ。だが、譲るつもりはない。四代目の顔に泥を塗るような真似は、俺が許さん」
 響希が皆の顔を一瞥すると、誰もが視線を逸らした。それ程までに強い響希の視線だった。髪を下ろしているせいで鋭い輪郭が幾らか和らいでいるのだが、それは逆に恐ろしさを皆に与えた。
 響希は鋭い視線を緩ませずに微笑む。
「だが、俺には欠けている物がある」
 皆の視線が上げられる。それを受け止めながら響希は頷く。
「皆も気になっていよう、俺の消息を。四代目が俺に残してくれた、最後の修練場だ」
 何か言いたげに口を開いた者を視線で黙らせ、響希は続けた。
「どうか理解と協力を示して欲しい。俺が戻るまで、俺に関わる一切は、ここにいる慶に一任する事とする」
 視線が慶に集中した。慶は黙って頭を下げた。隣では夾も理解しているように頭を下げる。彼らであれば、誰も文句を言わないだろう。
「皆様。僭越ながら新組長――五代目に成り代わり、私がその任務をお引き受け致します」
 響希は満足気に頷いて皆を見渡した。動揺が伝わってくるが、撤回するつもりはない。
「嬢――五代目。修練場というのは」
「それは四代目に関わること。俺から告げることはない。詮索も無用だ」
「だが、それでは」
「分家の頭として更なる発展に力を注げ。いいな?」
 有無を言わせず響希は遮った。
「――四代目の葬儀にも出席されないと言うのか?」
「いいや」
 響希に投げられる微かな敵意。
 響希はそれを感じながら薄く笑った。
「娘としての心は常に父と共にある。皆が四代目に預ける忠誠心と同じにな。どこにいてもそれが揺らぐ事はないだろう?」
 問いかけられた一人が頭を下げた。
「俺がこれから組を離れるのは、他ならぬ未来の為だ。四代目を送り出す儀は、最も四代目の側にいた――慶と夾にやって欲しい」
 響希にとっては都合のいい言い訳だった。慶と夾は何を思っているのか何も言わない。そして幹部たちは戸惑ったように顔を見合わせ、渋々といったように頭を下げる。
 響希は表面上だけで微笑みながら皆に頷きを返した。
「では慶。後は宜しく頼む」
「行ってらっしゃいませ」
 響希は立ち上がった。
 このような大事な場面で組を離れるべきではない。戻ってきた時には居場所がなくなっているかもしれない。少なくとも、幹部たちの信頼は地に落ちるだろう。
 それでも――譲れない物があった。
 響希は部屋を出て障子を閉め、顔を上げる。縁側から見える曇天に瞳を細め、胸元で存在を主張する宝珠に手をかけた。
 それでも――足を踏み入れてしまった。なかった事にするには大きすぎる領域。
 響希は奥歯を強く噛み締めながら李苑たちの元へ戻った。
 慶を信じるだけだった。
「あら、もういいの?」
 中庭を歩いている時に声を掛けられた。見れば翠沙が笑顔で歩いて来る。席で待っている筈だったが、迎えに来たのだろうか。翠沙の背後には李苑が大人しく控えている。病院で起きてから一度も李苑が騒がないなと気付き、響希は苦笑する。静かで快適であるが落ち着かない。
「俺のことは心配ない。お前らはどうなんだ。俺より早く目覚めてたんだろう?」
 弔問客がごった返す表とはえらい違いで、現在いる内部の庭園は酷く静かだった。しし威しの音が響き渡り、遠くから微かに人々のざわめきが聞こえてくる程度だ。
「道場行ったら、叔母ちゃんたちに叩かれまくった」
「私も。一度家に戻ったら、両親に号泣されたわ」
 響希の砕けた口調に緊張を解いたのか、ようやく李苑に普段の口調が混じり出す。翠沙も同じく、微笑みながら響希に肩を竦めた。
「ね。ランルの所に行くにはどうしたらいいの?」
「何で俺に聞くんだ」
「だって、頼れるのはその宝珠だけでしょ」
 庭園を眺めるようにしていると、李苑が覗き込むように問いかけてきた。
「使い方なんて俺は知らん」
「でも何か方法があるんでしょ?」
 心とは裏腹に素っ気無く返す。しかし李苑も諦めずに食い下がる。
 響希は夢で聞いた言葉を思い出した。
「――強い想いと願いを持っていれば、時空も次元も超えることが出来る」
 翠沙が振り返った。
「夢で会ったんだ、母に。隣には父もいた」
 胸を過ぎた痛みに響希は顔を顰めた。何とはなしに両手を見る。血豆だらけの手の平。あらゆる武術を叩き込まれ、肉は厚く、手は大きい。
 ――生涯でただ一人だけ愛したという母にようやく会えて、貴方は満足か。
 響希は瞼を閉ざし、翠沙が痛ましげに視線を落とす。
「……翠沙。お前の家に泊まってもいいか?」
 翠沙が驚いたように目を瞠った。李苑も同じだ。
「え、でも……」
「お父さんの、葬儀は?」
「挨拶は済ませてきた。葬儀の形は慶たちが執り行う」
 それでもまだ何か言いたげな李苑を、響希は見つめた。その視線に李苑は押し黙る。
 ――李苑の両親が交通事故で死んだ時、その葬儀を李苑は欠席した。最後のお別れをしなさいと怒鳴られても、門下生達から声を掛けられても、李苑は唇を引き結んで黙ったまま響希の側にいた。本来、遺影を持つべき李苑の役目は親戚に回され、火葬にも参加せず、遺骨も李苑は埋葬しなかった。何て親不孝者なんだとさんざん罵られながらも李苑は徹底して参加しなかった。全てが終わった後、響希と翠沙に伴われながら墓参りをしただけだ。
「分かったわ」
 瞳を翳らせた李苑に何を思ったのか、翠沙が諦めるように溜息を零した。
「では私の家に行きましょう。今晩は皆でお泊りにしましょう」
 そんな翠沙の声に李苑が顔を上げた。暗い気持ちを思い出すように思いつめた表情をしていたが、その表情を瞬時に払拭して笑顔を見せた。
「やったね。このまま道場に戻っても叔母ちゃん達に泣き殺されそうだったし、今晩は野宿かなとか真剣に思ってたんだよね!」
「――いっそのこと公園で寝泊りしたらどうだ。そういう所でこそ順応性を発揮するべきだろう」
「そんな順応性はいらないーー!」
 李苑は叫んで肩を怒らせた。