第五章 【四】

 翠沙の寝室は、ガラディアで泊まった部屋ぐらいの大きさがあった。
 ひとまず明日の憂鬱は忘れる事にして、三人は各々寛いでいた。
「着替えはここに置いておくから。お風呂に先に入ってきちゃってね」
 家政婦から渡された服を脱衣所近くの棚に置くと、翠沙は隣の部屋へと姿を消した。そちらは翠沙の応接間をなっており、親しい者以外はそこで翠沙と対面する。とは言え、使われるのは相手が男性の時だけである。李苑たちならば一度も止められる事なく部屋へ通されるし、翠沙が気に入らない相手であれば門前払いされる。使われるのは執事相手くらいの者だった。
 翠沙の後姿を見ながら、寝台に座って足を遊ばせていた李苑は「やっぱりお嬢様って大変だなぁ」と思った。
 李苑を横目に、響希がまず服を確認する。そして二枚のうち、一枚を選び取った。
「……早いもの勝ち」
 響希の言葉に振り返った李苑は、響希が選んだ服と、残された服を見て悲鳴を上げた。
「響希ずるい! 私もそっちがいい!」
 奪われまいと防御する響希に指を突きつけて地団駄踏む李苑であったが、後の祭りだ。力づくで奪い取る選択肢の成功率は半分以下であろう。
 肩を竦めてみせる響希を睨みつけたが効力はない。
 響希が先に選び取ったのは、動きやすそうなカジュアルな服だった。残された服は、ランルが用意した正装と大して変わらないようなドレスである。
「俺にそれを着ろっていうのか? 冗談じゃねぇ」
「何言ってるのよ。その黒いドレスだって着たくせに」
「これは不可抗力だ。そしてこれは選択の自由」
 響希は楽しげに言い置くと洗面用具を持ち上げた。これもやはり家政婦が用意したものだ。翠沙の部屋には浴室までもが備えられている。
 李苑のブーイングを背中で聞き流し、響希は慣れた様子で脱衣所へ姿を消した。
「あーあ。いいけどね」
 残された李苑はまだ響希が消えた扉を睨んでいたが、いつまでそうしていても仕方ない。残された服を丁寧に畳んで膝に乗せる。
「学校なんて、行く気もしないけどね」
 小さく呟いて李苑はカレンダーを見た。
 明日は水曜日。義務教育の中学校であればまだしも、高校で無断欠席を続けていたら退学処分にまで発展する場合もある。今回の例は特殊であるのでどうなるのか分からないが、戻ってきた以上は出席しなければいけないだろう。
 とてもそんな気分にはなれない。
 剣道の試合もそろそろだと思い出す。ランルに出会う前までは血が滲むような練習を重ねてきた筈なのに、忘れていた自分が信じられなかった。このような形で帰ってきてしまい、試合にも集中できない気がする。
 李苑は寝台に寝転んで瞼を閉ざした。
「行ったら質問の集中攻撃は必須」
「あら李苑。もう眠るの?」
 扉が開く音と共に翠沙の声が響く。体を起こした李苑は漂う匂いに鼻を鳴らし、そちらを見て歓声を上げた。翠沙がご馳走を乗せて、カートを押してくる所だ。
 李苑は飛び跳ねるように翠沙に近寄った。
「制服とジャージの注文は済ませておいたから、明日には間に合わせで届くと思うわ。サイズ合わせはまた今度ね」
 突然の話題に李苑は瞳を瞬かせた。
「あー……そうか。鞄も制服も、ジャージまで無いんだっけ、私たち」
 もしかしたら鞄は落し物として交番に届けられているのかもしれない。確認に行くのは躊躇われるが、楽観的に考えれば、学校に行けばそちらに届いているかもしれない。しかし響希の鞄の中にはいつも不法所持している拳銃が入っている。流石に交番へと届けられる確立のほうが高いだろう。
 李苑は顔を顰めながら翠沙を手伝い、食事をテーブルに並べる。
「ていうか教科書は――あ、大丈夫だ。机の中に置いてたんだ。置勉万歳!」
 両手を挙げて喜ぶと後頭部を叩かれた。
「何が万歳だ。そんなだからお前は成績が伸びないんだ」
「持って帰ったからって筋肉がつくだけで、成績が伸びるとは限りませんー」
 振り返った李苑は響希を見た。風呂から上がった響希はバスタオルを肩に巻きながら呆れた表情をしている。テスト前になると都合よく頼ってくるのだから、響希の怒り当然といえば言えた。
 李苑は響希に舌を突き出して洗面道具を奪い取った。響希の手が届く前に脱衣所へ逃げ込む。
「あの野郎」
 舌打ちして扉を睨む響希に、翠沙の笑いが投げられる。
 既にテーブルには様々な料理が並べられている。そちらを振り返り、手伝えなかった事を謝ると「いいのよ」と笑われた。本来この部屋は寝室に使われるのみの部屋で、食事をする部屋は別に用意してあった。しかし今夜は特別なのだろう。大きなテーブルまで運び込まれている。
 翠沙に促されるまま、響希は食卓の席へと腰を下ろして肩を竦めた。
 脳裏には父の顔が消えずに残り、胸には苛立ちが燻り続けている。
「もしこのまま、もう向こうには行けないってなったらどうなるんだ?」
「どうもしないでしょう? 私たちにとっては普段の日常が戻るだけよ」
 響希は湯気を上げる料理を眺めながら問いかけた。返って来たのは平淡な声だ。
「納得できない」
「でも何も出来ないじゃない」
 響希は声を荒げて翠沙を見たが、翠沙の表情は酷く落ち着いて静かだった。
 組を裏切ってまで決意したことであるが、やはりどうにもならないのか。
 響希は唇を噛み締め、膝に置いた両手で拳を作った。こんな事になるなら宝珠とやらの使い方をランルに教わっておけばとかったと後悔する。
「――本当に、向こうの世界が私たちを望むのなら……近いうちに必ず行けるわよ」
 それまでとは違う声音で呟く翠沙に視線を向けた。
 翠沙は微かに微笑んで響希を見返している。
「だから、何も。何もしない方がいいのかもしれないわね。ほら、物忘れをした時は、あえて思い出さずに流しておいて、ふとした拍子に思い出せるような時みたいに」
 努めて明るく振舞うような翠沙に違和感を覚えて、響希は瞳を瞬かせた。笑顔はとても明るく、声も弾んでいる。
 翠沙という人物が急に分からなくなるような瞬間に、響希は軽く放心したように彼女を見つめた。
 ――他人を全て分かることなど出来ないと分かっているが、翠沙に感じる違和感は、それとは全く異なる種類に感じた。
「翠沙ー。私の教科書問題は解決だけどさ。良く考えたら翠沙と響希の教科書問題は未解決よね」
 脱力さえ起こしそうな呑気な声がその場に割り込んだ。響希は頭痛を覚えながら振り返る。そこには予想に違わず李苑がおり、響希の怒りを誘発させるように、李苑は真剣な表情で悩んでいる。洗い立ての髪からは拭ききれていない水分が滴っていた。
「良く考えて出てきた結果がたったそれだけかお前の脳は……!」
「え。だって大問題じゃない?」
「他にも考える事は山積みだろうが! たまには複雑な問題にも取り組んでみやがれ!」
「取り組んでもいいけどさ。私が答え出すより周囲が出す答えの方が正確だし私は楽だし」
 ――喧嘩が勃発したことは間違いない。

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 床に敷かれた布団の中で、李苑は寝返りを打った。
「……全っ然眠れないんですけど」
 翠沙は自分の寝台で。響希は翠沙の寝台を挟んだ反対側に。それが翠沙の家に泊まる時の習慣になっていた。因みに三人が夜着としているものは、翠沙が用意してくれたお揃いの物だった。
「煩ぇぞ」
 響希の声が暗闇の中で響いてきた。
「だって全然眠れないんだもん。翠沙は?」
「私もだけど……」
 もしかして眠っているかなと思っていた翠沙であるが、彼女からはしっかりと返答があった。眠たげな声ではない。
「今何時?」
「四時ね……」
 寝台横の台に置かれていた時計を確認し、翠沙は溜息と共に吐き出した。
「うわ、四時? うー……」
「黙って寝ろ」
「そりゃ、そうしたいのは山々なんだけどさぁ……!」
 李苑はそのまましばらく黙り込んだ。けれど突然、勢い良く立ち上がる。翠沙の視線の中で、李苑は枕を抱え、反対側の響希の布団へ潜り込む。
「せめぇ……! 自分の所で寝ろよ、お前ぇーは!」
「翠沙もおいでよ。固まって寝よう」
 李苑は響希の抗議をあっさりと無視した。寝台で横になっていた翠沙の腕を掴み、彼女も引き込む。響希は抵抗する気が失せたように打ち伏せた。
「どうせ眠れないし。こっちだと窓から外見えるし」
 李苑はそう言うと、窓から見える外を見た。だが月明かりを反射する雲が見えるだけだ。単純な空模様に李苑は溜息をつく。
 響希は立ち上がった。李苑がこちらで眠る意志を曲げないなら、非常に癪に障るが自分が向こうへ行くまでだ。そう思っての事だったが、そんな響希の行動は予想済みであるのか、李苑が響希の裾を掴んでいた。
 響希は転びかけて慌てる。
「ふふふーん。今日も皆で眠るのよ」
「てめ……」
 だがいつもの元気も今はない。やはり葬儀関係が響希を落ち込ませているのだろう。
 響希はその場に座り込むと溜息をついた。
「どうせ眠れないなら外でも走って来い」
「あ、それいいかも」
 勿論、響希は冗談半分で言った。しかし李苑は嬉々として着替えを始める。翠沙が慌てて止めようとしたが、李苑の行動は素早かった。
「ちょ、ちょっと本気!?」
「私に二言はなーい」
 なぜか誇らしげに胸を張って笑う李苑に翠沙は唖然とした。響希は「どうせならそのまま朝まで帰って来るなよ」と溜息をついて横になろうとした。李苑は既に扉に手を掛けている。
「李苑!」
「大丈夫ー。少し庭でも散歩してくるだけだから」
 翠沙の慌てる声をよそに、李苑は扉向こうへと姿を消した。響希は遠慮なく睡眠を貪ろうと横になる。
 いつもの事ながら翠沙は額に手を当てて溜息を零した。
「もう――こんな時に」
 いつもであれば翠沙もそのまま李苑の好きにさせるのであるが、今回は事情が違う。響希を揺すって覚醒させた。
「なんだよ……?」
 響希の声は既に眠そうだ。普段忙しいので睡眠に関しても効率よく眠れるようにしているのだろう。
 翠沙は唇を噛み締めて響希を見つめた。言葉にはしなくても、何が含まれているのか明白な瞳。
 響希は嫌そうな顔をしたが翠沙の意思は変わらない。唇を尖らせて責めるように響希を見つめる。
 ――観念したのは響希だった。
「ったく。どうせいつもの事なんだから放っておけっての……」
 文句を言いながら響希は素早く起き上がり、夜着から着替えた。翠沙も微笑みながら着替える。夜中に外へ出るには、流石に夜着では寒い。
「それでも追いかけてくれるんだから、私は響希が大好きだわ」
「はいはい。好意を気遣いに変えてくれれば俺も安眠確保が出来るんだがな」
 しかし翠沙はそれにだけは何も答えなかった。
 欠伸を噛み殺し、二人は李苑を追いかけた。

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「副作用はもう残っていない?」
「お前が治してくれたからな。体力的には問題ない」
「でも急激な変化に体はついていけないものよ。疲労感は残っている筈だわ」
「まぁ、響希は常人じゃないしね」
 覗き込む心配そうな翠沙に笑みで答えた響希であるが、隣から飛ばされた李苑の笑いには手刀で答えた。李苑はすかさず防御で受け止める。響希は舌打ちして力を抜く。
 ――宣言した通り、李苑は中庭から外へ出ていなかった。直ぐに見つける事が出来て翠沙は安堵したようだ。響希も意外な気分で李苑に近づいた。
 李苑を見つけたら直ぐに部屋へ戻ろうと思っていたが、予想外に冷たい夜風に目が覚めた。空には半月が懸かって足元は充分に明るいし、このまま皆で少し散歩しようとの言葉に異論はない。
 現在は三人で中庭を散策している。
 翠沙の屋敷は結構な広さである。
 ガラディアの、ランルの私宮と敷地が丸々一つ入ってしまいそうだ。今、木々の向こう側に宮が見えたりしても納得するだろうと響希は思った。そのような環境と雰囲気に包まれていた。
「幾らそうしていたって、何もならないわよ」
 苦笑を含む翠沙の声に意識を戻した。響希は無意識に宝珠を握り締めている事に気付いて「分かっているさ」と解放する。
「響希のお母さんって、写真残ってたっけ?」
 李苑が頬に人差し指を当てて首を傾げた。何度も響希の家に上がった事はあるが、そのような物には覚えがない。
 響希は自宅の方向を見ながら微かに眉を寄せた。篝火が絶やされずに、空は煌々と赤く染められている。組員たちが寝ずの番をしているだろうと思われる様だ。
「……あれを出すと父は泣くからな」
 亡き父を偲んで哀しげに――どころか、忌々しげに響希は言い放った。
「俺は母に生き写しらしい。酒が入ると泣きながら絡んできて鬱陶しい。だからあまり写真は外に出してないし、飾ってもいなかったな」
 響希の口調に李苑は唸った。翠沙も同じように顔を顰めている。
 普段は威厳ある組長四代目として知られていただけに、まるで想像できないのだろう。
 響希は二人の様子を視界の隅に入れながら憮然とした。
 父と母が出会ったのは既に四代目として襲名した後だったと聞く。先代の四十九日が終わらないどころか、その時、三代目はまだ生きていた。けれど病床にあり、他ならぬ三代目が襲名の儀を望んだ為に四代目が誕生した。母と出会ったのはそんな頃だ。
 組員たちからは反対されたそうであるが、父はそれを押し切って血を交わしたという。
 最終的には周囲も母を認めるようになったというが――思い出のない響希に、母の面影は思い出せない。周囲にいる母親という存在から、もし自分の母親が生きていればこんな風に接せられていたのかと想像するだけだ。組長の妻を務めるならば普通の母親とは大分掛け離れているだろうと思ったが、そんな細かいことは想像から省いておく事にする。
「夢の中で会ったっていうお母さん……どうだった?」
 言葉に視線を向けると、李苑が恐る恐るといったていで見上げていた。
 思考を過去に飛ばしていた響希は視線を李苑から外す。李苑の両親が亡くなった時の、李苑の様子を思い出して顔を顰める。そして瞼を閉ざして肩を竦めた。
「さぁな。どこにでもいる普通の女だろう。俺と同じぐらいの背丈で、若かったが――そういえば親父も若返ってたな」
 最後は独白のようになって顔を顰めた。
 若返った父を思い出すことが出来ない。夢とはそういうものなのだろう。
 響希は唇を噛んで宝珠を握り締める。それに気付いた翠沙が苦笑する。幾ら焦ってもどうにもならないと、そんな事を言おうとしたのだろう翠沙の表情は直ぐに塗り替えられた。けれどそれに気付いた者はいない。
「響希!」
 何かに驚愕する李苑の声が響いた。
 その事で我に返り、響希は李苑の視線を辿る。彼女が見るのは――光り輝く宝珠。
 微かな光を灯した宝珠に響希は驚き、手を放した。しかし宝珠は漆黒の光を灯し続ける。まるで宝珠の周囲が歪んで渦巻くような錯覚を起こさせた。
「響希」
 次に掛けられた李苑の声には、明らかな期待がある。現在の宝珠の様子はランルが力を扱う時に良く似ていた。
 響希は恐る恐る宝珠に手を触れる。
 冷たいような熱いような、不思議な感覚がした。
 ――向こう側に行きたいと、強く願えば光は強まった。
「これで行けたら、響希はランルが言っていた通りに管理者――だね」
 響希は眉を寄せる。向こう側には行きたいが、管理者などという肩書きに捕らわれたくはない。
 響希は敢えてその事を考えず、ただ向こう側に行く事だけを考えた。
 宝珠に触れる手の平を通して何かが体に染み込んだ。腕を伝わり肩を染め、胸に凝る強い力となる。閉ざした瞼裏の闇に、強い鮮烈な光を見た気がした。その光に飲み込まれてしまいそうになる前に、響希は素早く李苑と翠沙の腕を掴む。宝珠から手を放しても不思議な感覚は失くならなかった。
 体が軽くなる。宝珠が発熱する。
「魔法陣……」
 小さく呟かれた翠沙の声も気にならない。
 本当に行けるのだと言うなら、必ず、それを望む。
 響希は瞼裏に浮かぶ光に手を伸ばした。
 李苑が微かに慌てたような声を出したその後に、響希の瞼裏は光に飲み込まれた。


 ――突っかけていたサンダルだけをその場に残し、三人の姿は消えていた。