第六章 【一】

 体が温かな膜に包まれた。
 そう感じた次には冷たい風が頬を撫でたのを感じた。
 風は体を包み込むように吹いて過ぎていく。


 響希は瞼裏が闇に戻ったのを感じて瞼を開けた。
 足裏に感じる柔らかな芝生の感触。闇に沈む周囲の中、力強く広がる芝生には淡い月光が滲んでいた。
 周囲には高くそびえる木々がある。翠沙の屋敷の敷地内と非常に似ていたが、木々の向こう側に見える城壁の存在が、翠沙の屋敷ではないと伝えていた。
「すっごーい」
 李苑が呟いた。翠沙もまた、驚いたように声を失くして響希を見る。
「そうか……」
 響希は納得したように呟いて頷いた。
「宝珠とはそういう物か……」
「え、何々? 一人で何悟ってるのさ」
 敏感に聞きとがめた李苑が瞳を輝かせて詰め寄ったが、響希は軽く手で払った。
 転移時に靴を置いてきてしまったようだが、柔らかな芝生が気持ち良かった。夜露に濡れる事もない。
「人に教えられるようなもんじゃねぇ。お前だって、どうやったら試合で勝てると聞かれても答えられないだろ」
「答えられるよ。相手を制すれば勝てるんだから」
「……どうやって制する」
「強くなれば隙も見えるし」
「……どうやれば強くなれる」
「ええと……努力?」
 響希は、屁理屈の様に反論した李苑へと溜息を吐き出した。唇を尖らせた李苑は唸り声を上げる。行き詰ったらしい。
「答えられないだろ」
「うー……」
 李苑は顔を顰めていたが、直ぐに肩を竦めた。
「いいや。どうせ響希にしか扱えないみたいだし、私にはそんなのありませんし」
 響希はまるで子供の様に拗ねる李苑を一瞥するだけに留めた。
「問題はここがどこかだな」
「ガラディアじゃないの?」
 驚いたように李苑が聞く。しかし響希にも分からない。
「城は見えるけれど……それだけで決めるのは早計かしら」
 翠沙の視線を辿って見上げた響希は瞳を細める。そしてその方向へと一人で歩き出した。
「待ってよ響希!」
「ここでこうしてたって仕方ないだろ。まずはランルを捜す」
 振り返りざまに告げられて、李苑は翠沙と顔を見合わせた。仕方ない、と言う様に肩を竦めてみせる。二人を待たずに歩いていく響希を追いかける。
 大きな間隔をあけながら育つ林に踏み込み、木々の向こう側から零れる城の光に瞳を細める。
 城には篝火など焚かれていない。白く丸い光が揺らめきながら、幾つか浮かんで城を照らしているだけだった。それは平常と離れて見えて、ここは宝珠に支えられている国なのだとは実感できる。
 直ぐに林を抜けた三人は城壁に辿り着いた。
 見上げると首が痛くなるくらいに大きな城だ。
「なんか……妙な感じがする」
「何がだ?」
 城壁を見上げて立ち止まった響希は、同じく立ち止まって呟いた李苑を振り返った。けれど李苑は良く分からないように眉を寄せて首を振る。響希は再び城壁を見上げてみたが、李苑の言う変化は何も分からなかった。
 再び歩き出そうと響希が体を反転させた時、李苑が瞳を瞬かせた。
「翠沙?」
 その声に響希も振り返る。そして翠沙の姿に瞳を瞠る。
 先程までは何とは無い会話を交わして笑い合っていたのに、翠沙は夜目でも分かるほどに青褪めていた。体を前屈みにさせて胸に手を当てている。
 翠沙は駆け寄ってきた二人を理解しないまま、硬く目を瞑って何かに耐えていた。額には脂汗が滲んでいる。
「翠沙、大丈夫か?」
 響希の問いかけにも翠沙は反応しなかった。
「翠沙?」
 李苑がその場に膝をつき、翠沙を覗き込んで体を支える。翠沙の瞼がゆっくりと上げられ、李苑を捉えた。翡翠色に煌いた翠沙の瞳は苦しげに滲んでいる。
「どうしたの?」
「嫌な……」
 誰にも聞き取れないほど小さく呟いた翠沙は顔を上げた。曲げていた腰を伸ばして響希を見る。そして無理矢理に微笑んだ。
「ごめんなさい。大丈夫――」
 言葉を続けさせず、響希は翠沙を抱え上げた。具合が悪そうであった翠沙は低く呻いてその衝撃に耐える。
「どこか部屋で休ませて貰おう」
「――ごめんなさい、響希……」
「構わん」
 響希は翠沙を抱えて歩き出した。李苑が隣で心配そうに翠沙を見つめる。
「お前の具合の悪さは、もしかして移動の副作用っていう奴か?」
「違うわ」
 翠沙は即座に否定した。
「前回はランルに触発された形で、貴方が宝珠を理解しないまま道を開く、突発的な物だった。けれど今回は響希が自ら望んで道を開いたでしょう? だから、貴方の体にかかる負担はとても少なく済んだの。私のこれとは関係ないわ」
 響希は不思議そうに翠沙を見た。翠沙はそれから逃れるように顔を俯ける。
「翠沙。お前ってさ」
「あ、やっぱりガラディアだ。良かったね、響希。方向音痴じゃなくて。ちゃんと狙った所に来れたよ」
 割り込んだ李苑の声に、響希は口を噤んだ。
 現在地からかなり遠く離れた向こう側に、見覚えのある風景が広がっていた。
「夜明けだねー」
 直ぐに興味対象を移した李苑につられて響希も視線を空に向ける。
 星星はなりを潜めて眠りにつこうとしている。空は明るく白んでいる。
「こっちとあっちって、時間がリンクしてるのかな?」
「分かりやすく主語述語修飾語を理解して話せ」
 低く呟く響希に翠沙は笑う。
「そうだとしたらランルは捜しているのでしょうね」
 突然目の前で消えたような形になったのだ。驚くどころじゃないだろう。
「あ、あー!」
 李苑が叫び声を上げる。
「今度は何だ」
「本当なら昨日、響希の優勝パーティーが開かれてたんじゃないの? 見逃した!」
 悔しげに地団駄踏む李苑を横目に、ようやくその事を思い出した響希は胸を撫で下ろした。元の世界へ戻っていて良かったと本気で思う。
 国を挙げてのパーティーとなれば大規模なものだろう。大会で優勝した響希は当然ながら主役となる。ともなればそれなりの格好をしなければならない訳で、女として正装させようとする周囲の手は響希に迫っただろう。ついでに言えば、その手には李苑と翠沙も勿論入っている。それら全てから逃れられるとは思えなかった。
 響希の心中を察したのか翠沙が笑った。
「そんなに嫌がる事もないのに」
「何が嬉しくてあんな動き難いスカートなんぞ穿かなきゃならないんだ」
「――幾ら動き難いからって、たくし上げて戦闘するのはもうやめてね」
 とある事を思い出しながら翠沙は真剣に告げた。
 そして再び意識が遠のいたかのように、瞼を閉ざして眉を寄せる。零される息は弱々しい。
「おい、大丈夫か?」
 翠沙の顔色は再び悪くなっていた。
 半分に欠けた月光が、翠沙の頬を青白く照らしている。李苑も心配そうに振り返る。
「翠沙が具合悪いのって珍しいよね。いつも自分で治しちゃうのに」
「ええ……何かしら。今はその力もないの」
 翠沙は不意に表情を強張らせた。
 響希と李苑が怪訝に思う暇もなく、翠沙は響希の腕から強引に飛び降りて地面に倒れる。顔を背けて苦しげに呻く。
「翠沙!?」
 驚いた二人が駆け寄るが、翠沙は地面にうずくまって強く首を振るばかりだ。吐き出すような衝動に体を揺らせて胸を押さえているが、実際に吐く事は無い。
 李苑はその様子を素早く見てとると、辺りを見回した。
「人呼んでくるから! 翠沙動かしちゃ駄目だよ、響希!」
 李苑は返答を待たずに駆け出していった。響希はその後姿を見送り、しゃがみこんで翠沙を覗く。
「翠沙?」
 一時で衝動は治まったのか、翠沙は顔を上げた。しかし、横から覗く響希は見ない。虚ろな表情で宙を見る。
「嫌な空気」
「嫌な?」
 吐き捨てるように呟いた翠沙に問い返した直後だ。
 ――李苑の悲鳴が聞こえた。
「……李苑?」
 響希は李苑が走り去っていった方向を振り返る。翠沙が立ち上がろうとしているのに気付いて慌て、遠くから金属がぶつかるような音が聞こえた事に表情を険しくする。
「李苑……」
「お前はここで待ってろ!」
 瞳に正気を戻して歩こうとした翠沙の肩を戻し、響希は強制的に翠沙をその場に座らせると走り出した。李苑が走って行った方向へと急ぐと、城壁を曲がった所でその場面に出くわした。
「何なのよ! 私はランルの近衛で……、うわ危なっ」
 李苑の声には焦りがあった。
 複数のガラディア兵が李苑に剣で襲い掛かっている。その光景に響希は目を瞠る。
 辺りはすっかりと朝焼けの光に満ちていた。そんな中で煌いた剣から、李苑は必死で逃げている。
「ほらこれ! 近衛の証でしょう!?」
 李苑は中指に嵌めた銀の指輪を掲げたが、兵たちの目には入らぬようで、無言のまま襲い掛かられる。
「ちょっと、本当、危な……あー、もう、いい加減にしてよね!」
 苛々と切れた李苑は、紙一重で避けて怒鳴ると蹴りを入れた。
 状況としては切羽詰っているのだろうが、兵たちの剣は李苑にとって相手にならないほど弱い物であり、李苑が油断さえしなければどうとでも制せるものだ。そんな状況だと判断したのか、響希は眉を寄せるだけで呟いた。
「……何やってるんだよ」
「響希!」
 響希は溜息をつくと地面を蹴り、素早く李苑の隣に到達すると剣先の軌道を変えた。李苑と違って手加減なく、相手の腹を蹴りつける。
「こいつら全然私の言うこと聞いてくれないの!」
 叫んだ李苑の視界に、騒ぎを聞きつけた兵たちが駆けてくる姿が映った。彼らは李苑の事情を問い質す事もせず、ただ斬りつけようとする。その数は徐々に増していく。
「ちょっと、待ってよ……」
「おいお前ら、俺らの顔を見忘れた訳じゃねぇだろ!?」
 数を集められてしまえば流石に不利だと悟ったのか、響希の声には焦りが滲んでいた。けれどやはり兵たちは無感動で、ただ攻撃を繰り出すだけ。
 響希はふと妙な既視感に襲われた。
「李苑」
「何よ!」
 本気で攻撃してもいいものかどうか、考えながらひたすら避けていた李苑は涙目になりながら怒鳴った。響希は目の前で剣を振りかざした兵の手首を蹴り上げて、剣を奪い取る。
「セフダニアで襲われた時と同じ感覚だ」
 響希は奪い取った剣の柄でもう一人の兵を昏倒させ、彼の剣を李苑に投げた。
 李苑は訝る視線を向けながら、投げられた剣を掴む。
「同じって……」
「太刀筋や雰囲気。良くは分からないが、同じ感じがする」
 半分ほどの兵を昏倒させた頃、遠くから更に兵たちが駆けてくるのが見えた。
 体力がもたない。
「――言われてみればそうかも違うかも。いや分からない。でも……それじゃあどうしろっていうのさ?」
 幸いな事に背後からの増援はない。前方にだけ注意を払えばいい。
「李苑、響希!?」
 翠沙の驚く声が響いた。
 後ろを振り返った二人は、翠沙が蒼白な顔で城壁に縋り、立ち尽くしているのを見る。いつまでも戻らない響希を不審に思い、追いかけてきたのだろう。
 響希は舌打ちした。兵たちの反応を恐れたが、どうやら彼らに翠沙を襲うつもりは無いようだった。無表情で李苑と響希だけを排除しようとする。
「何か知らないけど、ランルが気付いてくれるまで頑張れってこと?」
 翠沙にまで剣が及ばない事に安堵し、李苑は唇を尖らせた。そして「冗談じゃないよ」と続ける。訓練であれば良いだろうが、そろそろ体力に衰えが見え始めていた。剣を持つ腕が重くなっている。
 静かに現れ続ける兵士たち。大会以外でこのように大勢の兵を見るのは初めてだ。どれ程いるのか分からない。まさか全員を相手にしなければいけないという訳でもないだろうが、先が見えないというのは辛い。体力よりも精神的に参る。
 言葉が通じず、問答もせず、尋常ではない様子の彼らは、これからも機械的に李苑と響希を狙い続けるだろう。その大本となる原因を何とかしなければならないという事は薄々感じたけれど、どうすれば原因を見つければいいのか見当がつかなかった。
 早くランルが気付く事を祈るのだが――李苑はふと湧いた不安に顔を顰めた。
 ランルは本当にここにいるのだろうか。
 李苑は隣で応戦し続ける響希を見る。彼女は李苑に比べて、まだ余裕がありそうだ。
 今回は響希によってこちらへと運ばれた事になるのだが、場所が合っていても時間が合っていない、という事は無いのだろうか。もしこのガラディアに、自分たちを知っているランルがいなければどうなるのだろう。
 考えても栓ないことであるが、想像力豊かな李苑は不安に染められた。
「何を考えている!?」
 李苑が思考の迷宮に入り込み、応戦する反応が鈍る。その間に死角へと入り込んだ剣を響希が叩き落した。李苑は慌てて剣を持ち直す。
 荒い息で、衰え始めた体力は見る間に底を尽いた。
「響希!」
 李苑の表情が凍りついた。遠くで立ち尽くすしかなかった翠沙も叫んだ。
 李苑を助けた為、響希は自分の死角から繰り出された剣に気付くのが遅れた。
 響希よりも先に気付いた李苑が地を蹴り、響希の懐に飛び込んだ。
 ――そこだけ時間の経過がゆっくりと感じられた。
 響希は死角から繰り出されていた剣を払おうとしたが、どこかで間に合わないと感じた。
 ああ、この位置は心臓だ。
 感情ではなく、理性がそう呟いた。そして次に、目の前に現れた、視界を遮った者を、何の感慨もなく見つめた。
 視界を遮った者が李苑だと気付いたのは一瞬の後のこと。李苑のその行動が、庇う物だと理解できたのは、更に一瞬の後のことだった。
「な」
 肉と骨を断つ嫌な音が耳に触れた。同時に、目の前にあった李苑の背中から剣が突き出てきた。
 李苑は僅かに呻いて串刺しとなる。
 剣を繰り出した兵はそれでも無感動に剣を引き抜き、李苑は喉に詰まったような小さな悲鳴を篭らせ、抜かれた後は、小さな体を鮮血が染めた。
「……おい?」
 周囲の兵たちを力任せに叩き払った響希は李苑に呼びかけた。
 李苑を染めるのは知っている色だった。死に行く色である。これまで響希が手にしてきた敵側の人間も、同じ色を流して死んでいったから。
 地面に倒れた李苑は目を見開いて響希を見つめていた。
 だが口を開いた李苑は、言葉の代わりに血を吐いた。彼女の瞳からは急速に光が失われていく。
 それを見た瞬間、響希の中で何かが弾けた。
 絶叫。
 そして体にかかる、強い重力のようなもの。
 響希を中心として走った力は、李苑と響希を取り囲むようにしていた兵たちを吹き飛ばした。響希の胸元では宝珠が異様な煌きを宿している。
 翠沙は遠くからその様子を見ていた。
 李苑が貫かれるのも、響希の理性が壊れるのも、それら一連を全て、ままならない体を城壁に預けながら。そして力なく首を振った。認めたくなかった。
 翠沙はもがくように手を伸ばし、動かない体を必死で動かした。
 時間が経つにつれて体の不調は悪化の一途を辿っている。翠沙は視界が狭まるのを感じながらゆっくりと歩き出す。体が自分の物ではないように感じて微かによろめく。
 脳裏では激しく警鐘が鳴らされていた。駄目、と。その言葉ばかりが目まぐるしくグルグルと回っている。
 翠沙は自身の心も別の何かに捕らわれ様とするのを感じ、苛立つように強く息を吐いた。自分に言い聞かせるように「大丈夫」と呟く。
 痛いほどの静寂に包まれたような錯覚。兵たちの動きも、響希の動きも、全てがコマ送りのように思えた。
 ようやくの事で李苑に辿り着いた翠沙は、芝生に投げ出された彼女の体を眺めて腕を伸ばした。
 ――李苑は死なせない。私の力があれば大丈夫だから。
 李苑の瞳からは光が消えていた。
 翠沙は正常な思考を失ったままで、李苑の側に膝をついた。