第六章 【二】

 脆い玻璃でも砕けたかのような音。
 それが理性を持った人間と、理性を持たない獣との、強制的な入れ替わりだと気付けた者はいないだろう。
 響希は血に埋もれる李苑を見て、無意識に宝珠に手を伸ばした。
 異様な輝きを秘めていた宝珠は、響希の指が触れた途端、歓喜に沸いた。響希はその指先から熱が伝わってくるのを感じた。それと共に、体の奥から湧く感情が高められていくのを感じる。
 憎しみ、怒り。
 際限なく高まろうとするそれらに意識を奪われかけて膝から力が抜けた。
 響希はギリリと奥歯を噛み締める。
 理性を失う事だけは許せなかった。失ってしまえば自分が見知らぬ誰かへ変貌してしまう事が分かっていた。この体は自分自身だけの物であり、誰にも渡さない。
 響希はそう強く念じながらも、想いを抑えることは出来ない。
 ――力を手にしたいと願うのならば。
 宝珠が一層の煌きを宿した。


 さぁ、暴れてやろう。


 残酷な意識が響希の脳裏を支配した。
 奪おうとする者たちに、生を許してやる事はない。
 響希の唇に、響希のものではない笑みが浮かんだ。


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 翠沙が李苑の傷口に手をつくと、その手は真っ赤に染まって沈んだ。
 生温かなものが手の平を包み込む。吐き気を催す感触と鼻を刺す匂いに、翠沙は双眸を見開いて唇を噛んだ。
 李苑の意識はないのか、彼女の瞼が震えることもなかった。
「行かないで……」
 翠沙は震える手で力を注ぎ込む。
 脳裏で念じる。お願い、死なないで、と。
 目頭が熱くなり、頬を伝い落ちていった。
 李苑の顔色は土気色をしていた。傍目からは生きているのかすらも疑わしいが、翠沙の手に伝わる弱々しい鼓動は確かに命を刻んでいた。しかしその鼓動も一瞬ごとに力を失っていくのが分かる。
 翠沙は「間に合わない?」と呟いて絶望に沈んだ。
 傷を塞ぐよりも先に、李苑の命が消えていこうとする。
 翠沙は唇を引き結んだ。
 双眸に強い光を湛えて腕に力を込めた。自分の生命力すら注ぎ込むように、全力で李苑を癒そうとした。しかしその瞬間、堪えきれない脱力に襲われた。眩暈がして倒れかけるのを気力で堪える。もし倒れたりなどしたら、次に目覚めた時に見るのは李苑の抜け殻である。
 翠沙は気力を振り絞って意識を保った。
 そしてしばらく李苑へと力を注ぎ込み、緊張で詰めていた息を細く吐き出した。
 李苑の顔色は先程から変わらないが、その胸は規則正しく上下し、確かな命を翠沙に伝えるようになった。
 翠沙は疲労の中に微かな安堵を見せた。
 一度は止まった血脈が再始動し、体の生存本能は次々と李苑を生かそうと奮闘し始める。傷口は、乱暴ながらほぼ塞ぎきることが出来た。これ以上の出血はもうないだろう。このまま治療を続ければ後遺症も残らない。
 翠沙は更に力を注ぎ込みながら眩暈に必死で耐えた。
 意識が暗転しそうになったその時、翠沙の背後で凄まじい悲鳴が上がった。
 思わず手を放して振り返った翠沙は、兵たちの間で翻る黒髪を見た。その黒髪が離れると共に上がる鮮血。そして倒れていく兵士たち。
「響希!?」
 翠沙は驚愕して叫んだ。
 兵たちの間から見えた響希の表情は愉悦に歪み、鋭く伸びた爪で彼らを傷つけていた。響希の手には微塵の躊躇いもない。確実に致命傷を負わせていく。
「響希、やめて!」
 翠沙は立ち上がって走ろうとした。その瞬間、意識がスッと遠のいたが強く足を踏み出し、無理に我を保つ。止めなければ響希がどこかへ行ってしまい、二度と戻ってはこない予感があった。
「響希!」
 眩暈に耐えて響希を見上げようとした翠沙の目の前から景色が消えた。
 倒れると悟った瞬間、何かが勢いよく翠沙にぶつかった。
 翠沙は後ろに尻餅をついてかぶりを振る。遠のいた意識を強引に引き戻す。気を張り詰めて、必死で意識に縋る。
 翠沙の服は赤く染まっていた。李苑の物もあるが、それよりも遥かに多いのは、翠沙にぶつかった兵の物だった。
 李苑と違い、明らかに命を失った兵を見て、翠沙の表情が絶望に染まった。
 彼をそのようにしたのは響希だと思うと哀しかった。
 ――響希が消えてしまう。
 そう思って心が恐怖に染め上がった。
 翠沙は震えながら顔を上げる。


 もう駄目なの?
 響希。李苑。
 ねぇ、助けて。


 翡翠色に染まる翠沙の双眸から、涙が溢れた。


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 響希の代わりに死のうと思った訳じゃない。
 そんなこと冗談じゃない。
 ただ、咄嗟に響希と剣との間に入ってしまっただけだ。自分の剣が、相手の剣を弾くのに間に合わなかっただけだ。
 本当なら心臓を一突きにされた筈だった。反射的に響希の足を蹴って跳び、腹に位置を変えるので精一杯だった。それだけは褒めて欲しい。
 けれど。
 骨の折れる音と、腹に感じた圧迫感。
 吐き気よりももっと酷い気持ち悪さ。
 耳鳴りがして目が見えなくなった。
 でも、そんな事よりも、遠くで聞こえた誰かの泣き声に胸が痛んだ。
 響希と翠沙だ。
 手を伸ばしたけれどあまりにも遠い声だった。
 その声をどうにかしたい。何も出来ないまま死んでしまうのは嫌だ。親しい人間を失くしたばかりの響希にこれ以上の哀しみは要らない。けれど間に合わない。もう力が入らない。この心だけが飛んでいき、伝えられたらいいのに。


 李苑は暖かな気配を感じた。
 それが自分を包み、肉体から離れかけた命を繋ぎとめたのを感じた。
 李苑は安堵に頬を緩める。


 知っている。
 この優しい気配は翠沙。
 冷え切った体を包み、安らかな眠りを与えてくれる。


 ――駄目――

 流れ込んでくる強い意志に李苑も頷いた。
 そう、まだ終われないから。
 そして李苑は、もう一つの声にも気付いていた。
 微かに響く、消えそうに小さな響希の声。
 李苑は、自分を包む優しい気配が離れるのを感じた。
 薄っすらと瞳を開ける。明るい光が差し、そこに響いた悲鳴に眉を寄せる。
「響希……?」
 見えなくても分かった。
 このままでは響希が響希ではなくなってしまう。
 李苑が腕に力を入れるとそれだけで痛みが全身を襲った。
「ぐぅっ……!」
 響希を止めなければいけないというのに、体は動かない。
 連れ戻さなければいけないのに、瞳には何も映らない。
「……っ」
 李苑は目を硬く瞑って肩に力を入れた。
 その肩を優しい手が包んだ。
 翠沙とは違い、少し大きな手の平だ。
「動かないで」
 李苑は見えない瞳を声に向けた。
 春の息吹のような、優しい眠りを与える声だった。
 誰なのかという警戒よりも先に安堵が広がる。
「彼女なら大丈夫」
 声は諭すように李苑の心に染み渡り、まるで父親のように包み込まれる何かを感じて、李苑は泣きたい衝動に駆られた。同時に、翠沙と同じ力に包まれた事を感じた。
 傷を癒す力。
 温かな、再生の力。
 抵抗をやめた李苑をどう思ったのか、声は更に囁いた。
「この場には、宝珠を持つ者がいますから」
 李苑はその声に深く安堵した。
「さぁ、お眠りなさい」
 声に促されるようにして瞼を閉じた。


 ――世界を統べる宝珠。


 ランルが……と、李苑は思った。
 ランルと翠沙なら、響希を止めてくれる。

 李苑の体からは力が抜けていき、彼女の意識は闇に沈んだ。