第六章 【三】

 響希がこれ以上暴れたら――彼女は。
 翠沙は唇を引き結んで胸元を押さえる。響希の胸元では、宝珠がまばゆく輝いていた。
「響希」
 囁くように呟く。そして次の言葉を口に乗せようとした刹那。
「これは何の騒ぎ!?」
 苛立ちが込められ、意識して高さを抑えたような声がその場に響いた。初めて耳にする声だ。
 翠沙はそちらへ視線を向けて、ランルの姿をその場に認める。女官を伴い紫の髪を軽く揺らし、白んできた闇の中で宝珠を煌かせる。険しい表情の彼女だったが翠沙と響希の姿に目を瞠り、驚いたように言葉を探してその場に佇んだ。けれど不意に、先程よりも更に浮かべる表情を険しくして兵達へと眺め渡す。
「今すぐ武器を収めなさい!」
 けれど止まらない。血は流れ続け、誰もがランルの存在を目にしない。
 普段の様子からかけ離れたその場の雰囲気にランルは眉を寄せて更に足を踏み出した。付き従っていた女官は青い顔でそれを止めようとしたが、ランルは振り切り乱闘の場へと足を踏み入れる。
 その場に漂う微かな気配。兵達の顔はどれも無表情で瞳は虚ろ。動きには覇気がなくて、集められた兵達はまだ新兵ばかりのようだった。漂う微かな、宝珠の気配。
 ランルは唇を噛み締め拳を作る。脳裏にはセフダニアの王の顔。
 以前李苑を襲った時のように、この王宮内部にまで入り込んだ宝珠の気配。それが充満しているのだ。宝珠を持つ者にしか、それは分からないけれど確かに。
「私の言葉が聞けないの!?」
 宝珠の力に乗せて、一段と張り詰められた声はその場に響く。宝珠の力を使った為に先程とは僅かに違う様子が兵達に見られた。
 戸惑ったように動きを止めて、ランルを見る。先程まで無関心で無反応だった彼らは徐々に、ランルがこの場にいる意味を飲み込んでいくように瞳が揺れた。正気の瞳。
 ランルが漂う宝珠の力を掻き消した事で、新たに別の力が加えられることは無かった。一人が地面に膝をついて頭を下げると、触発されたように次々と他の兵も続いていく。それを確認してからランルは険しい瞳を緩める事無く響希を見る。
 手負いの獣のように獰猛な雰囲気を放ち、その場で周囲を窺う響希。
「キョウキ、貴方も」
 その声に響希はユックリと振り返った。その瞳は未だに狂気を湛え、正気を失ったように深紅へと変化している。
 ランルの登場にようやくこの悪夢も終わると安堵した翠沙だったが、響希のその様子に息を呑んだ。更に、普段とかけ離れた様子を見せたままランルへと爪を振りかぶるのが見えて。
「キョウキ!?」
 飛び掛られたランルは咄嗟にその爪を避ける。
 響希は爪を地面にめり込ませたまま、ランルに回し蹴りを放った。避けられないと悟ったランルは手にしていた剣でその攻撃を受け止める。ガキンという音と共に、手に衝撃が伝わる。
 その事にランルは目を瞠った。人の感触ではない、固い金属同士がぶつかったかのような音。
 防御された響希は一度大きく後方へと飛び間合いを取っていた。その顔には薄い笑みを佩いており、次は何をしようかと愉悦が浮かぶ。獲物を見つけたような、楽しげな野性の瞳。
 驚愕するランルの前に二人の兵が走り寄った。先程まで操られていた兵達の中から進み出て、ランルを庇うように背を向ける。
 他の兵はランルと響希に戸惑ったような雰囲気を見せてどうすればいいのか、騒然と立ち上がる。
「側を離れました事、お許し下さい」
 ランルに新たに付けられた近衛の者だ。正気を取り戻した彼らはランルに詫び、自身に何が行われていたかを悟って告げる。
「操られていたようです。その際、リオン殿を傷つけてしまい」
 その言葉にランルは目を瞠る。見回してみて、兵の中にも李苑の体が埋もれているわけではないと確認する。視界に入るのは響希と翠沙だけであり、更に翠沙は視線を落として俯いていて。
 そうかとランルは納得した。響希は李苑を守れなかったから……きっとその時の衝撃に、悲しみが、宝珠に負けてしまったのだと。
 響希の宝珠。それは今も胸元で強い光を放っている。宝珠は確かに強い力を与えてくれるけれど、今の響希の状態はきっと良くない。正気を失うほどの力など、人格を破壊するだけ。
 ランルは自分の宝珠を握り締めた。彼女を止めるのは兵士たちでは無理だろう。彼女を止めるには宝珠を使うしかなくて。
 ふと自嘲した。最近は宝珠の力にばかり頼っている気がする。宝珠に対する不信感は育っていくと言うのに、それを頼るしか思いつかない自分が恨めしい。
 首から提げている鎖を引きちぎり手に力を込め、宝珠を発動させようとしたその時、か細い声が聞こえた。視線を巡らせると緑の髪。翠沙が俯きながら涙を零しているのが見えた。
「それ以上、宝珠を使わないで――」
「スイサ!」
 顔を上げた翠沙は悲しみを浮かべていたが、視線はランルを捉えない。そのまま響希へと近づこうとする翠沙に制止の声を上げたが届かない。
 響希が警戒の声を上げて翠沙を睨み、常ならば考えられないその光景に、ランルは宝珠を握り締めたまま翠沙へと駆け寄った。けれど翠沙はそれを視線で止めて響希へと腕を伸ばす。
「巫女――クルジェ=フェイの名において命ずる」
 強い力を纏った翠沙の声。
 手の平を響希に向け、その言葉に響希ばかりかランルの動きも封じられた。
 聞いたことのある名前。何処で聞いたのだったろうと思考を巡らせ答えは直ぐに出る。王家に伝わる古い文献にしか載らないその名前。
 創生の巫女とも言われていた存在の名前だ。現在ある宝珠の全てを管轄していたとも言われていたが、何故突然そのような名前が出てくるのだろう。
 ランルは瞠目したまま動きを止めた響希を見た。
 戸惑ったように、今しも翠沙に襲い掛かろうと振り上げた腕を中途半端なままで止め、その瞳は揺れている。漆黒の宝珠が微かに煌き、翠沙は険しい顔でその宝珠を見つめて。
「鎮まりなさい」
 響希は抵抗するような態度を見せたが、翠沙は更に言い繋ぐ。
「響希」
 底知れぬ翡翠の瞳を煌かせ、響希を見つめる視線は真摯なもの。響希は強い力によって押さえ込まれた。彼女の体から力が抜けるのがランルでも分かり、一瞬崩れかけた膝に再び力が戻るのを見る。漆黒の長い髪を揺らし、耐えるように額を押さえて。
 次に翠沙を見た響希の瞳は既に正気のものだった。
「……悪い」
「いいえ」
 短いやり取り。そんな声を聞きながら、ランルはその場に片膝をついて頭を垂れた。兵達のどよめきにも動じず、その事で気付いた翠沙が振り返る。
「異界へ渡っていたとは露知らず……今までの非礼、どうぞお許し」
「ランル」
 信じられないが先程の言葉と響希を見る限り、翠沙が言った『巫女』と言うのは本当のようなのだ。宝珠の管理者は、巫女から宝珠を預かっているに過ぎない存在。巫女の役目は宝珠の力を正して世界の均衡を保つ事。翠沙が巫女だというのなら、管理者であるランルがこのように頭を下げるのは当然の事で。けれど口上は途中で遮られ、顔を上げたランルの視線の先では翠沙が背中を向けていた。
「次に私に敬意を払ったら怒るわ」
「でもっ」
 冷ややかな声音に息を呑み、眉を寄せて抗議しかけたが翠沙はそのまま響希を振り返った。
「気分はどう?」
「――李苑は?」
 まだ辛そうに額を押さえたままだった響希の開口一番がその言葉で、翠沙は苦笑しながらも彼女の体を支える。
 向かうのは李苑を寝かせてある場所だ。兵達の乱闘と響希の暴走に巻き込まれぬよう、応急手当だけを施した李苑は少し離れた場所に横たわらせてある。
 そちらに歩き出す翠沙と響希にランルはなんと声を掛けようか迷ったが、城の中から丁度女官が飛び出してきた事でその場に留まらざるをえなくなった。
「ランル様!」
 慌てふためいたように大声で、衣装を振乱してでも駆け寄ってくる。ランルの側にいた女官がただ事ならぬその様子に眉を寄せたが、ランルも同じ気持ちだった。思わず顔を見合わせる。
 そしてその場にランルを残し、李苑の元へと向かった二人は。
「……李苑?」
 呆然と呟いた。
 翠沙が案内したその場所に、李苑の姿は無かったのだ。明らかに李苑のものだと分かる大量の血溜まりを残したまま、姿だけが消えている。
「そんなっ? あの出血で動ける筈がない!」
「李苑!?」
 驚愕の声を上げながら辺りを見回すが、李苑の姿は見えない。
 響希は再び血溜まりを見て、その周辺を素早く見取った。
 血痕は続いていない――連れ去られた? 血痕も残さずに?
「……ランル!」
 思わずランルの名を呼んで振り返った響希であるが、先程までいたランルの姿がない。どこに行ったのかと捜せば、女官に連れられて城内へと入っていくところだった。
 険しい表情は何かがあったとしか思えないが、こちらには推測不可能な事だ。追いかけようとした響希は途端に走った痛みに顔を顰めた。
 翠沙に支えられているため倒れる事だけは免れたものの、思うように動かない自分の体に舌打ちをして、戸惑う兵達の合間からランルの背中を見送った。