第七章 【一】

 目覚めた李苑は見覚えのない場所に瞳を瞬かせた。
 ランルに用意された部屋ではない。大きな窓もなく、五回転して響希に怒られながら遊んだ寝台もない。
 李苑が寝かされていた部屋には、一般家庭にあるような小さな窓があった。そして壁紙も張られていない、むき出しの石壁がある。レンガで組み立て、その上から漆喰で塗り固めたような素材の壁だ。手を触れれば冷たいのだろう。
 李苑は視線をぐるりと部屋の中を巡らせ、手元に落とした。ガラディアで眠った寝台よりも小さな寝台に寝かされている。手に触れる敷布は非常に滑らかで上質の絹を思わせる。寝台には小さいながらも天蓋がついていた。
「……どこ?」
 ぽつりと呟きを落とした途端、唐突に不安が湧いた。静寂の中に一人だけ取り残されてしまったかのようだ。
 微かな焦燥を募らせながら、李苑は天蓋から下ろされている紗幕を捲る。そして顔を顰める。
 ガラディアの空気は熱くもなく寒くもなく、適温が保たれていた。けれど現在、紗幕を捲ってなだれ込んできた気温はとても高い。初夏の東京にいるような、生温い空気が李苑を包む。
 一体どこなのだと眉を寄せながら寝台を降りる。改めて周囲を見回し――扉付近にいた者に、李苑は双眸を瞠らせて驚いた。
 一人の男性が椅子に座って眠っている。
 ランルが静謐な湖を宿すなら、この男性は轟音と共に燃え盛る炎。
 李苑はそんな印象を抱いて男を観察した。
 遠く逸れても一目で見分けられる髪色である。
 李苑は一歩を踏み出し、男の前に立って凝視した。男に起きる気配は見られない。
 本来なら髪を纏める役目のターバンは、解けかけて男の肩に垂れ下がっていた。却って鬱陶しいんじゃないかと思って李苑は微かに笑う。
 男は腕組みをしたまま一向に目覚める気配を見せない。船を漕ぐ様は見ていて楽しいが、時折倒れそうになるほど大きく揺れて李苑を慌てさせる。それでも目覚めない男に、相当疲れているのだろうと推測し――やがて呆れた。
 李苑はおもむろに自分の体を見下ろした。
 この暑さの為に、男は鍛えられた上半身を晒している。投げ出された足の長さを見ても結構な大男だと分かる。座っているだけで威圧感を感じるが、むさ苦しさは感じない。鍛えられた体は常識の範囲を超えるものではない。何か格闘技でも習っているのだと思える体だ。
 そんな彼と自分との体を見比べて、李苑は唇を尖らせるのだ。
 李苑では幾ら運動をしても、目に見える筋肉がつかない。細い体に養われたのは異常な反射神経能力だけだった。男のような力が欲しいと望む李苑にとって、目の前にいる男は憧れの対象になる存在だった。
 羨ましい、といまだ眠り続ける男を脳裏でそんな言葉に変えてから当初の問題に立ち返った。ここは一体どこなのだろうという問題である。
 李苑は首を傾げて記憶を辿った。この場所で眠るに至る経緯を、巻き戻して思い出そうとしたのだが中々戻らない。頭痛まで覚えて眉を寄せ、栗色の髪が肩を撫でていくのを横目で見る。
 そうして不意に、胸の中で渦巻く奇妙な気持ちの悪さに気付いて眉を寄せた。
 自分の体がいつもと違う感覚を覚えて首を傾げる。
 胸の奥が引き攣るように酷く切なさを訴えていた。頭の奥にもジワリと鈍い痛みが浸透する。奇妙な胸焼けを不思議に思い、李苑は無意識に胸に手を当てて目を瞠った。
 ――経緯を思い出した。
 李苑は顔を強張らせて、空気を求めるように口を開いた。
 ガラディアにようやく戻ってこれたと思ったのも束の間、訳が分からぬまま兵と応戦し、その最中に、響希を狙った剣を弾こうとして失敗した。心臓への直撃だけは免れたものの、とても助からないだろうと自分でも思っていただけに、疑問だけが残る。
「なんで……生きてるの?」
 李苑は恐る恐る息を吐き出した。
 まさか全て夢だったとか言わないよね、と自分の手を見つめる。握って開き、ジワリと汗が滲むのを感じる。
 酷い激痛を覚えている。視界から響希の顔が薄れていくのがとても哀しかった。
 李苑は頭痛を堪えるように眉を寄せて目を瞑る。
 もしもあれが本当にリアルな夢で、何の怪我も負わずに眠っていたとしても――見知らぬ部屋にいる説明がつかない。
 首を傾げて唇を尖らせ、李苑は二、三歩進んでみた。床には柔らかな敷物が広げてあり、素足で歩くと少々くすぐったい。
 ――普通に歩くことが出来る。足も萎えていない。
 そう実感して更に李苑は唸った。
 もしも怪我を負ったことが現実であれば、奇跡的に助かったとしても完治するには結構な時間が必要だろう。骨折の完治にも一ヶ月程度の安静期間が必要であるし、些細な切り傷が塞がるのにも一週間以上必要である。それなのに剣で心臓に近い部分を貫かれた大怪我が、一ヶ月や二ヶ月で完治するわけがない。内臓に損傷がありそうな位置を貫かれたのだ。
 そうすれば夢だと考えるのが妥当である。けれど色々と納得がいかないことばかりで頬を膨らませ。
「何かストレスでもあったのかなー……」
 そういったものと自分は無縁だと信じていたのに、神話は崩された。
 などとふざけた事を思いながら李苑は意識を男に戻した。先程よりも近くに寄ってみるが、やはり起きる気配は無い。距離を縮め、後ろ手に手を組みながら観察する。
 眠っている男は李苑とさほど歳が変わらないかに思えた。綺麗に焼けた小麦色の肌に、太陽のように明るい短髪。見ようによってはよっぽど無防備に思える間抜け面を晒してまだ眠る。
 まじまじと観察した李苑は頭を掻いた。幾ら記憶の底をさらっても見覚えが無い。
 もしかしたらランルに命じられてこの場所にいるのかもしれない、という可能性が浮かんで聞きたいと思ったが、起こしてまで聞くのは躊躇われた。
 響希たちはどこにいるのだろう、と彼から視線を外して見渡そうとした直後。視界の端で男の体が傾いた。それまで舟を漕いでいた傾きとは確実に違い、明らかに倒れる角度。
「ちょ――」
 あれで床に激突したらかなり痛いのよと、経験者である李苑は咄嗟に腕を伸ばして受け止めた。男の頭は、本人が眠って力を抜いている為かなり重い。
 壁に手をつくような形で彼の頭を支えた李苑はそっと彼を窺ったが、起きる様子は見られない。図太い神経に思わず内心で拍手を送る。
「ていうか、動けないんですけど……」
 李苑は小さく呟いた。
 起こすのを躊躇わなければ幾らでも動ける。けれどなぜだか踏み出せない。躊躇い続けて諦めた。
 李苑は静かに彼の頭を腕から外し、けれど壁に戻す訳にもいかなくて溜息をついた。そして自分が反転して壁に背中をつけ、体の側面に彼の頭をもたれさせる。そこまでやっても彼に起きる気配は無い。もしかして狸寝入りなんじゃないかと思うほど気付かれない。
 腕に頭を乗せられているよりは楽になった李苑だが、動けない事に変わりは無い。仕方なく壁に寄りかかりながら部屋を眺めて首を傾げる。再び部屋の観察である。
 ガラディアで案内された部屋の寝台よりも小さいが、しっかりと天蓋がつけられた寝台。外界と気温を隔絶する為、紗幕をかけなければいけないので必然なのだろう。生活スタイルが見えてくるようであるが、気分はまるで皇女さま。床に敷かれた絨毯のような敷物は、ガラディアで見た織物よりも厚くて模様が鮮やかである。
 調度品も、ガラディアにあった物と比べて丸みを帯びた物が多く、どこか柔らかさを感じさせた。
 ランルに案内された部屋を格式ある王朝の象徴とするなら、こちらは雑多な民族を束ねる国籍の象徴といった所だろうか。
 李苑はなぜ自分がそんな印象を持ったのか分からぬまま首を傾げ、そして何よりも大きな問題――半眼で、纏う衣装を見下ろした。
 ヒラリとたなびくドレスの裾。見ろよと言わんばかりに開いた大きな襟。哀しいかな、見て楽しい大きな胸は持っていない。
 布の素材自体が薄いらしく、重ね着をしていない腕や足が透けて見えていた。これで雨に降られた時などかなり悲惨なことになるだろう。
 こんな服を選んで着た覚えは全くない、と李苑は断言したかった。
 ならば眠っている間に着替えさせられた事になるが、そこがまた腑に落ちない。着替えさせるとなれば翠沙や響希しかいないのだが、彼女たちがこのような服を選ぶとは思えなかった。ますます謎は深まるばかりである。
 このような服に憧れはあるものの、自分がそれに袖を通すとなると話が違う。周囲の女性たちは良くあんな剥き出しになる服を着て歩けるなと思ってしまう。
 李苑が恥ずかしさに唸っていると、眠る男の隣にあった扉が開かれた。
 唐突に動いた空気に驚いてそちらを凝視し、李苑は更に驚く。まるで光が扉を開けて入ってきたのではないかと錯覚するほど、輝く浅黄色の髪を持った人物が入ってきたのだ。足首まで届く長い髪は、軽く揺れるだけで爽やかな音を奏でそうだった。
 李苑と同じような服を纏ったその人物は、直ぐ側に李苑の姿を認めて驚いたように後退した。李苑は李苑でその姿に思わず見惚れる。
 ランルも美人だと思っていたけれど、それ以上に美人。存在しているのが疑わしいくらいの美人さんを発見だ。
 と脳裏に様々な驚嘆の声が飛び交ったのであるが。
 入ってきた人物はそんな李苑を見つめてどう思ったのか沈黙し、口を開いた所で李苑が正気に立ち返った。何はともあれ人差し指を唇に当てて「シーッ」と告げる。話をしたいのは山々だが、眠る男が起きてしまいそうな気がした。
 浅黄色の人物は、眠る男と李苑とを見比べ、李苑の動作の意味に気付いて吹き出した。とは言え大声は出さずにいてくれたのだから、気を使ってくれたのだろう。
 やや低い、楽しげな声に、李苑はようやく目の前の人物が男であることに気が付いた。とても信じられなくて口を大きく開けて見入ってしまう。どこからどう見ても女性だと思い込んでいた為、驚きはかなり大きい。
 李苑の頬が紅潮した。それを笑われた為と誤解した青年は必死で笑いをおさめて「ごめんなさい」と囁いた。唇はまだ笑みを刻んでいたが、そこに悪意は見られない。
「そうですね。彼は起こさないであげましょう」
 存在しているだけで高揚する人物からの笑顔に、李苑もありがとうと笑い返した。けれどようやく自分の疑問に答えてくれそうな人物の出現を逃す手はない。小声なら大丈夫だろうか、と眠る男を見て首を傾げ、李苑は少しだけ身を乗り出して青年に話しかけた。
「ねぇ、ここってどこなの?」
 囁くような声音に、寝台に向かっていた男は直ぐに振り返った。
「――私はナイ=イフリート=ジュラウン。呼ぶ時はジュンと」
「いや、聞いてないし」
 回答とは呼べない代物に李苑は顔を顰めた。しかしジュラウンの笑顔に魅了されてどうでも良くなってしまう。肩を竦めて「ジュン」と反芻する。
「じゃあ、私は李苑」
「リオン?」
 ジュラウンは確かめるように数回、口の中で李苑の名前を転がした。そして寝台近くの棚から果物とナイフを取り出す。李苑は気付かなかったが、その棚には多種多様な果物で飾られたバスケットがあったようだ。ジュラウンは器用に皮を剥き始め、一口サイズに切って李苑に勧めた。李苑は見たことのない果物に躊躇ったが、おいしそうかもと迷い、お腹が空いていることに気付いて手を伸ばした。空腹に気付いた途端、強い食欲が湧きあがって来たのだ。一口食べて、その美味しさに李苑は顔を綻ばせた。
「……美味しい」
 味わったことの無いような味がした。とても甘い。口中に広がる爽やかな甘さが更に食欲を刺激する。ジュラウンはその様子に微笑みを深め、果物を更に切り分けた。
 現金な李苑はあっと言う間にジュラウンを「いい人」と認識し、警戒心など忘れたかのように果物を手にした。手がべたつこうと構わず果物にかぶりつく。
「ここってガラディアじゃないよね」
 果物である程度満たされた李苑は、満足気な溜息を吐いてジュラウンを見た。
 ジュラウンは問いかけに瞳を瞠り、次いで笑う。それは意味ありげな物で、純粋な好意とは離れている物に思えた。李苑は「いい人」との認識を早速取り外しにかかりたくなった。
「もしかしてとは思うけど、誘拐?」
 今度は疑わしくジュラウンを見る。次いで、いまだ眠り続ける男性を見る。
 誘拐と考えるのなら、眠る男性のことを見張りだと思うことも出来る。――多少の出来事では起きやしない見張りとは呆れるが。
 ジュラウンは黙ったまま更に笑みを深くし、一つの果物を全て小口に切り分けてから手を休めた。一緒に置かれていた濡れ布巾で両手を拭く。改めて李苑を見つめ、彼の視線に李苑はたじろいだ。翠沙のように深く神秘的な色。緑柱石の双眸。
「ここはイフリート。ガラディアまでは普通の馬車で三日もあれば着くでしょう。最短距離で、休ませずに疾走させた場合ですがね」
「何で! 私はここに……!」
 つい大声を出してしまった李苑は慌てて口を押さえた。気にするのは眠る男性である。
 横目で隣を窺った李苑にジュラウンは微笑み、少しだけ首を傾げて肩を竦めた。李苑は、束ねられていない髪がサラリと彼の肩を滑り、音を立てるのを間近で聞く。
「幾ら貴方の看病で疲れているとは言え、流石にそろそろ起きて貰わなければ困ります」
「看病?」
 李苑が首を傾げた直後、圧し掛かっていた重みが消えた。顔を向けた先では男性が動きだしており、眠そうに何度か瞬きした後に視線が合った。
 瞳の色まで炎を連想させる男性である。
「起きたのか」
 李苑が誰なのか分からないように怪訝な表情をした男であるが、直ぐに気付いたようで破顔した。そうすると締まった顔立ちは緩み、一瞬で縛られた強い瞳も溶けるように柔らかな印象を醸す。警戒心を削ぎ落とす。
 走った緊張はあっと言う間に消え失せた。
 ――男性に対する印象を一瞬で書き換えた李苑は、声も出せぬまま彼を観察した。クラスの男子よりも親近感が湧く態度に呆気に取られた。そして、眠そうに大きく伸びをした彼がジュラウンに気付いて驚愕する様までを瞳に焼き付けた。
「いたのかよ!」
「注意力が落ちているようですね」
「寝起きだ。んな目で見るんじゃねぇ」
 男は決まり悪げに視線を外し、舌打ちすると再び李苑に向き直った。
「俺はルクト=ザーイ。お前は?」
「……李苑」
「そうか。リオンな」
 眠っている時と今では印象が大分違う。炎のような髪を持つ彼は笑い方まで明るく多弁である。そんな彼を見上げながら、李苑は頭に手を乗せられて首を竦めた。そしてそのまま撫でられて、湧き上がった不愉快さに逆らわずに叩き払った。
 ザーイは不思議そうに瞳を瞬かせて李苑を見た。
「何だ?」
「子ども扱いされるのは気に食わない」
 李苑は憤然と告げた。友人や門下生から子ども扱いされるのは、腹が立つには立つがここまで強い憤りは覚えない。けれどザーイから子ども扱いされるのだけは何故か無性に腹が立った。
 ザーイが呆れたように李苑を見下ろす。
「なに言ってんだ。俺より年下だろうがお前」
「そっちは何歳なのよ。私はもう十七歳だからね。高校生よ、高校生!」
 こちらの世界で生きるザーイに“高校生”は通じないかもと思った李苑であるが、勢いで出た言葉を取り消す事は出来なかった。案の定、ザーイは顔を顰めて李苑の姿を上から下まで眺めた。高校生の意味は分からずとも、言いたい事は通じたようだ。しかしザーイの視線はまるで信じていないようだった。
「その背で俺と同い年? てっきり幼年学校くらいの」
 李苑は先を言わせず、バネを溜めもせずにザーイの鳩尾に膝蹴りを繰り出した。しかしザーイは、至近距離で予備動作もなかったその攻撃をギリギリで躱す。それが更に李苑を怒らせる。
「危ねぇ! 何しやがる!?」
 ザーイは後ろに跳んで距離を保った。
「何の単語か全っ然わかんないけど! 馬鹿にされてるようで凄く腹が立った!」
 李苑は両肩を怒らせながら睨みつけた。
「そういう事は口で言えよ。乱暴な女だな」
「私は口より手が先に出るタイプ!」
「誇らしげに言うな。今のは足だろ」
「煩い! 人の揚げ足取ってんじゃない!」
 李苑は先程よりも早い勢いでザーイに殴りかかった。今度は綺麗にザーイの腹部へと拳が直撃する。体格差があり小さな拳だとは言え、痛い事に変わりは無い。ザーイは顔を歪める。
「てっめ、女だと思って我慢しとけば調子に乗って……!」
 大掛かりな喧嘩はそうして幕を上げた。
 すっかり忘れられているジュラウンは一人で寝台に腰掛け、二人を眺めた。先程自分で切り分けた果物を摘む。
「幾ら私が癒したとは言え、三日前まで生死の境を彷徨っていた者とは思えませんねぇ……」
 のんびりとした仕草で果物を摘み、口内に広がった甘い味に頬を緩めた。