第七章 【二】

 昨日はザーイと喧嘩を展開させただけで、肝心の疑問については何も回答を得られなかった。ジュラウンが、まだ疲れているだろうと李苑を寝かしつけたのだ。李苑としては、毎日のように響希と実戦を兼ねた喧嘩をしていたため、疲れるもなにもない、とは思ったものの、やはり慣れない世界での緊張は大きい物があるのか、いつの間にか寝入ってしまっていた。
 初夏のような室温が少し寝苦しい。
 浅い眠りを貪り、人の気配で目を覚ます。
 ふと起き上がるとザーイが部屋にいた。彼は李苑が起きたことに気付いたのか、持ってきた食事を指差した。李苑にとっては見たこともない異国の料理。それでも、空腹は最高の調味料との言葉通り、並べられた食事はどれも美味しそうに見えた。李苑は歓声を上げて食事の席につく。一口食べてみると不思議な味がした。豆を煮込んで芋と混ぜ、醤油で味をつけたかのようだ。側には小麦粉で練られた薄いパンのような物もあり、その上に乗せて巻きながら食べるのだと知った。
 李苑は食事に夢中になって食べた。
 その間、ザーイは終始側にいた。けれど李苑の腹が満たされ一息つく頃には側にいなかった。いつの間にか部屋から出て行ってしまったらしい。
 李苑は空になった食器を片付けて追いかけようとしたのだが、扉は開かなかった。いくら李苑が力を込めようとも変わらない。体当たりをしてみたり、壁に足をつけて両手で引いてみても、動こうとしない。考えてみれば、ザーイよりも力で劣りそうなジュラウンが簡単に入ってこれるくらいなのだから、それほど力は必要としないはずなのだが。
 けれどどうしても扉は開かない。それならば酷く頑丈な鍵がかけられているのだろう、と李苑は仕方なく諦めることにした。何もすることがなくなって寝台に戻り、横になる。そうすると瞬く間に睡魔に襲われ、李苑は再び眠りに落ちた。
 ――二度目に目覚めたとき、側には誰もいなかった。
 だが一度目に目覚めたときとは明らかに違う室温に、李苑の意識は瞬時に冴えた。起き上がって震える。絹のように手触りの良いかけ布団を体に巻きつけて歯を食いしばる。
「なんなのよここはっ。あんなに暑かったくせに、この寒さは!」
 途中で目覚めなければ、朝には凍死していたのではないかと思うほど寒い。自分が知らぬ間に、また場所移動したのではないかと勘繰れるほどだ。だが部屋の様子はなにも変わっていない。場所移動されたわけではない、と訂正する。
 李苑は寝台の上で小さくなり、手足を折り畳んで丸まるようにしながら瞳を堅く閉じた。このような薄着で耐え切れる寒さではない。
「……ろくに事情も話さないで、なんだって言うのよ」
 洩れる言葉は不満だらけ。愚痴でも呟いていないとやってられない。
 ジュラウンたちと交わした少ない会話を思い出す。ここはガラディアではないという言葉にいまさらながら顔をしかめる。
 どうしてガラディアにいないのだろう。あれから響希たちはどうしたのだろうか。脳裏には疑問符ばかりが通り過ぎ、徐々に不安が首をもたげる。
 イフリートというこの場所に連れてくるよう命じたのは響希たちなのだろうか。けれど、それでは彼女たちが側にいないことが説明できない。このような不安定な状況下で二人が側を離れようとするわけがない。何とも知れぬこのような状況の中に放り込み、放置している訳がない。仮に側にいられない訳があるとしても、事情を仄めかす伝言や書置はあるだろう。
 ――だって、こんな不安を抱えたまま一人でいたら。
 不意に脳裏を過ぎった暗い思い出に双眸を瞠らせた。両手を胸の前で強く組む。今まで以上に小さくなって手足を縮める。強い衝動に涙が出てきそうで必死に耐える。根深く巣食う不安は、あらぬ記憶まで呼び起こす。剣に刺し貫かれたことも詳細に思い出し、李苑は耐え切れず寝台に起き上がった。
 あのときの響希は信じられないほど取り乱していた。翠沙も同様だ。意識を手放した後に、彼女たちに起こったことは――よぎる不安に唇を噛み締める。
「大丈夫。響希は強いもん。ちゃんと翠沙を護ってくれるもん……」
 言葉にしないと不安に負けてしまいそうだ。
 寝台に両手を着いたまま半端な格好で起き上がる。しばらくそうして固まっていた李苑だが布団を跳ね除けた。床に下りると冷気が体を包んだが、拳を固めてそれに耐えた。
 一直線に扉に向かう。外に出ようと試みるが、扉は開かない。これほど強固な鍵があるのだろうか。力任せに引いてみれば、多少なりとも扉は動くはずなのだが、今はまるでその気配がない。まるで壁に扉の絵が描かれているかのような手ごたえだ。
 李苑は少し悩み、開けるのではなく壊してみようかと思った。少し視線を上げて扉を睨み、スッと息を吸い込んで拳で殴る。だが外に開かれているはずの空間の手ごたえはない。まるで壁を殴っているかのような感覚だ。
 痛んだ拳や腕をさすり、李苑は溜息をついた。
 部屋を見渡す。遅まきながら窓があることに気付く。走り寄ると雨戸のようなもので閉じられていると気付いた。恐る恐る触れてみると、開かない扉とは正反対に、呆気ないほど簡単に開いた。横にスライドさせると世界が広がる。部屋の空気よりも更に冷えた空気が李苑を襲う。
「う……っわ」
 思わず目を瞑って首を竦める。恐々と瞳を開いていく。
 広がる視野には、日本のどこにも属さない異国の気配が詰めこまれていた。
 李苑がいる部屋は三階程度の高さにあるようだと知る。窓の側には樹はない。窓から出ることは至難の技だろう。失敗すれば確実な死が待っている。
 地面に視線を向けていた李苑は再び遠方に移動させた。遠景は霧の中に沈んでいる。薄ぼんやりした建物の影が霧の中に浮かび上がり、目を凝らしてみたが、詳細を見ることはできなかった。響希に笑われた広大な平原暮らしの民族と同程度の視力も、霧がかかっていれば発揮できない。遠景はまるで蜃気楼のように歪んで見えた。
 白夜のような明るさを保っていた空に一条の光が走った。
 その眩しさに李苑は顔を背けて瞳を閉ざす。だが痛烈な光はほんの一瞬のことだった。
 いったいなんだったのだろう。
 李苑は視線を戻し、またしても絶句する。
 先ほどまで白夜の静けさを保っていた外界は、突然の命を吹き込まれて明るく輝いていた。早朝の空気が滲んでいる。
「……は?」
 蒼穹が広がり、小鳥の鳴き声さえ聞こえてくる。
 顔を叩く風に李苑は思わず鼻を鳴らした。凍てつくような空気は払拭されている。撫でられた空気は温かい。外の気温も、一瞬ごとに高められているようだ。
 白黒の無音映画に、とつぜん色や音を吹き込まれたように感じる。急激な変化に困惑して、李苑は瞳を瞬かせた。
 しばし呆然とその風景を眺めていた李苑だが、やがて窓の下を人が通り始めたと知って目を向けた。ガラディアで見慣れた人々ではない。李苑がまとうような薄い衣装に身を包み、色素が濃い者たちが大半だ。彼らの雰囲気や手荷物から、仕える者たちなのだろうと推測する。
 李苑は少し躊躇ってから呼びかけた。だが誰も気付かない。足取りも緩まない。
 声が届いていないのだろうか? 李苑は声を張り上げて再び呼びかける。
 二度目の声にも反応はなかった。
 李苑の声は、道場の中で歌っていても遠くの通りにまで響いてくる、と榛原家を訪れた響希から苦情を言われるほど大きいものだ。窓を開け放ち、目と鼻の先にいる通行人たちに、声が届かないはずはない。そうすると、聞こえていても無視していることになる。
「感じ悪ーい」
 李苑は呟いて唇を尖らせた。それとも皆、耳が悪いのだろうか。そんなことを考えて乾いた笑いを零す。以降は叫ぶ気力もなくて窓に肘をついた。
 やがて通る人もまばらになる。さらにしばらく経つと人通りは完全に途絶える。そうなってしまえばもう変化もない。見ていてもつまらないだけだ。
 李苑は不貞腐れたように頬杖をついて、視線を上げる。再び気付く。太陽はいつの間にか空にあった。
「なんていうか、ここって変」
 言い捨てて溜息を吐き出す。
「“ここはイフリート。ガラディアまでは馬車で三日”」
 ぽつりとジュラウンの言葉を反芻した。
 イフリートとはガラディア国内部にある都市のことだろうか。日本で例えるなら大阪や東京などの都道府県の名前だろうか。それとも、日本に対してアメリカや中国など、全く別の国にあたる場所なのか。
 李苑は室内を振り返った。
 調度品は模造することができるかもしれない。だが、この身で感じる熱帯のような気温や気候、空までも偽ることはできない。
 不安がひしひしと湧き上がる。
 本能で、この場所はガラディアとは全く違う場所なのだと悟っていた。ガラディアからはかなり遠い場所にいるのだろう。ガラディアにはない昼夜の気温差や、最高温度、最低温度の違いが伝えてくる。
 いったいどれほどの遠くなのか。
 東京から北海道までは高速道路で約二日。
 ジュラウンが説明した馬車がどれほどの速度を出せるのか分からないが、『馬』というくらいなのだから、それほど早くはないだろう。
 ジュラウンは絶対に嘘をついている。
 李苑は唇を噛み締めた。馬車で三日もあれば着くなど信じられない。もちろん、馬車が飛行機並みの速度を持っているなら話は全く別物になるのだが、今は推測するしかない。
 なぜそんな遠く離れた場所に自分がいるのか。
 思考は再びそこへと戻ってしまい、眉を寄せる。
 響希か。ランルか。それとも彼女たちの事情など無視してここに連れて来られたのか。
「ていうかどれも私の意志は丸っきり無視されてるんですけどさ」
 妙な言い回しをして頬を膨らませる。開かない扉を憎々しく睨み付ける。そうして、部屋に備え付けの衣装棚に目を向ける。おもむろに自身の体を見下ろして頷く。普段、着慣れないドレス姿だ。動きやすい服装に着替えたいというのは自然な欲求だろう。
 衣装棚に近づいて開けてみる。乱暴な力は八つ当たりだ。
 棚の中には様々な衣装が揃えられている。どれも女物のようで、手触りは最高にいい。男物が一つもないことを考えれば、李苑のために用意されたのだろうと推測できる。
「べつにいいけど」
 李苑は一つだけ、全く素材が違う服に触れて、引っ張り出した。
 広げてみれば簡素な衣装だった。布を二つに折り畳み、頭を出すところだけを切り抜いた貫頭衣《かんとうい》だ。肩や脇が丸出しとなり、少々の躊躇いはあったが被ってみる。それだけではまとまりがないので、なにかベルトで腰を縛らなければいけない。だが、ここ文化圏が全く違うイフリートにベルトなどない。
 李苑は首を傾げて唸り声を上げた。不意にザーイの姿を思い出し、次いで思い切った行動に出た。貫頭衣の下に纏う、ひらひらとした衣装の裾を引き裂いたのだ。それを細長く裂けば紐となる。足は出るが涼しくなり、足にまとわりついていた裾を踏んで転ぶ心配もしなくて済む。一石二鳥だ。
「……私の馬鹿」
 李苑は裾を破き過ぎたことを自覚した。
 手で引き千切るのには結構な力を要するだろうと思い、最初から思い切り力を込めて破ろうとしたのがいけなかったらしい。予想に反して布はあっけなく破れた。力加減を間違えた李苑は見事に、下半身半分にあたる範囲の布を破りとってしまった。
 貫頭衣の丈は太腿までしかない。いまや李苑は日本でいうところの『いまどきの高校生』くらいに太腿を晒した格好になっていた。誰も見ないのなら構わない格好だが、この部屋にはジュラウンとザーイが訪れる。響希や翠沙であれば呆れるだけだろうが、彼らは男だ。さすがの李苑も見せて歩くのは躊躇われる。
 どうしようかと唸った李苑は、破り取った布をまた半分に裂くことにした。かなり悲惨な布切れに変化していく高級衣服だが、その辺り李苑は無頓着だ。形を整えた布を、スカートを模して腰に巻きつける。先ほど作った腰帯を巻きなおして固定する。そうすると太腿は隠れ、なんとか膝上までの長さは維持できた。
 部屋に全身鏡を見つけ、その前に立って確認する。
「うーん……さっきよりはマシだけど、やっぱりまだ足が出るよなぁ……」
 おまけに高級衣服は薄いため、微妙に足が透ける。下着が見えないだけ良いかもしれないが、もう少し丈と厚さが欲しいところである。これで高所を歩いたりしたら、後続者には確実に見られてしまうだろう。
 これはやはり、わがままを言わないで他の衣装から選ぶべきか。
 他の薄い衣装を裂いて継ぎ足すという考えは浮かばない。どうしようかと鏡を睨みながら唸り声を上げる。
 そのとき前触れもなく扉が開き、ザーイが入ってきた。
 食事を手にした彼はそのまま固まった。李苑を凝視する。なにを言うつもりなのか「えーっと」と呟いて黙り込む。
 李苑もまた、突然の出現に驚いて固まり、彼の瞳を凝視した。
 ザーイはしっかりと上下の衣服を整えていた。鮮やかな髪をまとめて縛りつけ、動きやすそうでもある。以前はなかった短剣が肩から提げられており、背中に回った紐で留められているようだった。まるで軍人のような装備のつけ方だ。
「……なんだその格好は」
 ようやく洩らされたのはそんな言葉だ。
 李苑としても自覚はあり、どうしようかと悩んでいたところにやってこられたのだから、言い訳のしようもない。むしろ、完全に仕度が整わないうちに入ってこられて不愉快だ。
 李苑の苛々にザーイは気付かない。
 ここイフリートでは、女性たちは好んで薄い服をまとう。昼に出歩くには、そうした服をまとわないと熱射病で倒れてしまうくらいに気温が高いからだ。同時に、綺麗に着飾りたいという女性たちの必要性に応え、服飾師たちは彼女たち用に腕をふるう。今回、李苑に用意した服も、そんな要望に応えられるような服だった。だが李苑はそれらを選ばず、わざわざ貫頭衣で衣装を潰している。
「おまえ、本当に女か?」
 侮蔑ではなく純粋な疑問だった。煌びやかな衣装を好まない女性がいるのかという確認のための言葉だ。もちろん幼子に限っては前述の衣装からは外れるのだが。李苑の目は完全に据わった。
 李苑はゆらりと立ち上がる。静かにザーイに歩み寄る。
 圧される雰囲気に、ザーイはようやく自分の失言に気付いた。
「叩きのめす」
 そんな言葉がザーイの耳に入ると同時に、李苑はザーイに飛びかかった。
 食事を手にしていたザーイは応戦する訳にもいかず、ひとまず避ける。食事を素早く棚に置く。
「悪い! そういう意味で言ったんじゃない!」
 謝罪の声など李苑は聞いていない。
 ザーイに避けられて床に着地すると、そのまま後方に飛び跳ねて体を反転させる。素晴らしいバネだ。反転させた勢いのまま遠心力に乗せて手刀を繰り出したのだが避けられた。
 李苑は小さく舌打ちする。
 ザーイは結構な武人なのだろうと実感する。これまで李苑が道場で相手にしてきた大人たちとは比べ物にならない。
「避けるな!」
 上半身が前のめりになってバランスを崩す。だが李苑は攻撃の手を緩めず、そのままザーイの脇腹に回し蹴りを繰り出していた。
 間を空けずに繰り出された攻撃は、ザーイに避ける暇を作らせない。ザーイは舌打ちし、左腕で攻撃を受け流した。右手で素早く李苑の手を掴み取る。手をついて着地しようとしていた李苑はその手を掴まれてバランスを崩す。もう修正が聞かないほど大きな傾きだ。
 顔面からぶつかる危険性に青褪めた李苑だが、ザーイが更にその手を引いて体勢を崩した。李苑は難を逃れたが背中から床に転がる。起き上がる間もなくザーイに押さえ込まれた。一瞬だけ息が止まる。視界が暗くなる。衝撃に力が一瞬だけ抜ける。それを見計らったザーイは素早く李苑を腹ばいに反転させ、腕を背後に捻り上げて圧し掛かった。
「痛い!」
 思わず痛みに呻いたが、ザーイが離れる気配はない。
「……降参!」
 悔しいが仕方ない。骨が軋み、これ以上の強情を通せば折られそうな気配だった。
 負けを認めると直ぐに解放される。
 李苑は押さえ込まれていた腕を抱え、滲んだ涙を乱暴に拭った。どんな力で拘束されたのか、掴まれていた手首には赤い跡がしっかりと残されている。
「……悪いのはそっちじゃん」
 だがもう仕掛ける気は起きない。少なくとも、手が痺れている今は。
「悪かった」
 意外な響きに顔を上げるとザーイは不機嫌だった。
 仕掛けたのは李苑が先とは言え、女子どもに手を上げたことに対する自己嫌悪のためだろう。そんな気配が伝わってきたが、李苑も不機嫌な表情でただ黙り込んだ。掴まれた手を振って違和感を消そうとする。
 やがてザーイが立ち上がり、さして力を入れずに李苑の後頭部を叩いた。
「なによっ?」
 抗議は無視して部屋から出て行く。
「ちょっと!」
 李苑は追いかけようとしたが、その鼻先で扉が閉められた。直ぐにも開けようとした李苑だが、扉は再び壁と化して動かない。苛立ちを増大させて拳を握り締める。
「気に食わない……めっちゃ気に入らない!」
 力任せに扉を叩く。伝わった手首の痛みに顔をしかめた。