第七章 【三】

 消化不良な気持ちを抱えたまま部屋に置き去りにされた。
 静寂のなかに取り残された。
 扉は相も変わらず開かない。いくら睨んでいてもザーイは戻ってこない。
 李苑は背を向けた。
 ザーイが運んできた食事は棚上に放置されていた。以前とはまた違う献立だ。
 李苑はそれらを一瞥し、食べたくない、と億劫に思ったが、空腹は覚えていた。食べても食べても満たされない。過食症なのかもと考えがよぎったが、一笑で消す。食事に手を伸ばして引き寄せた。
 行儀が悪いとは思ったものの、誰も見てないし、と言い訳して寝台に座る。真っ白なシーツに零さないよう注意しながら口に運ぶ。
 李苑は顔をしかめた。
「……味がしない」
 味付けが薄いという問題ではない。なぜか味覚が働かないのだ。砂を噛んでいるような不快感に陥って食器を下ろす。だが食べない訳にもいかなくて、溜息をつきながら最後まで食べきった。他にすることもないため時間は豊富にある。
 食べ終わった李苑は寝台に零れていないか確かめ、空になった食器を棚に戻した。きっとまたザーイが知らない間に現れ、勝手に持っていくのだろうと思う。
「手加減して貰わなくたっていいもん」
 呟いたら涙まで誘発された。
 理不尽なこの状況にも、弱い自分にも、なかなか顔を見せない響希たちにも、腹が立つ以上に悲しかった。ここで自分ができることは何もない。
 唇を引き結んで布団に潜り、顔を埋め込んだ。息苦しくなって顔が熱を持つ。だが今はその熱を手放したくなかった。熱に誘われて眠気が起きる。
 さきほど起きたばかりだというのに、なぜこんなに眠いのだろう。昨日から食べては眠りを繰り返している。きっと我に返ったら破裂しそうなほど太っているのだ。そうなったらジュラウンとザーイを訴えてやろう。そんなことを片隅で考える。
 まるで、これまでの疲れを全て忘れるように、力を取り戻すかのように、眠りは訪れる。李苑はうつ伏せになったまま深い眠りに落ちた。

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 李苑が眠ってからしばらく経ち、静かに扉が開かれた。
 入ってきたのはジュラウンだった。
 部屋に響くかすかな寝息に気付き、気配を悟られないよう慎重に中に入る。棚に置かれた空の食器を見つけて満足そうに頷いた。続いて部屋を見渡し、衣装棚の近くに布切れが散乱しているのを見つけて眉を寄せる。李苑が服を選ぶ試行錯誤の名残だったが、ジュラウンにそんな真相は分からない。首を傾げてそちらに歩み、緑柱石の瞳でそれらを見つめた。
 不思議な力が働き、床に散乱していた物は消失する。ジュラウンは当然のように現象を受け止めてから、初めて李苑に近づいた。李苑はうつ伏せて軽い寝息を立てているだけだ。起きる気配はない。鼻も口も布団の中に埋もれている。それで苦しくないのかとジュラウンは頬を掻いた。そして李苑の手首に気を引かれる。
 ザーイと同年齢だという李苑だが、ジュラウンの知る同年齢の女性と比べて明らかに幼い。華奢な体格に合わせて手首も細く、そしてそこには今、赤い痣があった。先日まではなかったものだ。
 ジュラウンは顔をしかめた。棚上に置かれた食器に視線を向け、改めて李苑に視線を戻す。ザーイと接触があったにも関わらず彼がこの場にいない原因はこれか、と推測する。彼は相応に忙しい身分だが、仕事のほとんどはジュラウンの特権によって免除されていた。今の彼には、『李苑の護衛』と『ジュラウンの護衛』という最低限の仕事しか与えていない。
 ジュラウンは溜息をついた。
 眠る李苑の手首に手を翳し、触れぬまま瞳を閉ざして集中する。痣とジュラウンの手の間にかすかな燐光が生まれた。白光は蛍が一つ瞬くほどの儚さで消える。消えた後、李苑の手首にはもう痣はなかった。李苑が起きていたなら、翠沙が怪我を治すときの現象に似ていると気付いたかもしれない。
 ジュラウンは少し疲れたように溜息を洩らした。
 李苑がガラディアで剣に刺し貫かれたのはもちろん夢ではない。翠沙の手を離れ、あのまま死に向かっていた李苑を救ったのはジュラウンだった。見つけたとき、李苑はかなりの出血をしていて、顔色は土気色だった。唇も紫に変色していて、もしかしたら駄目かもしれないと落胆が胸をかすめた。しかし、癒しの力を注ぎ込んだ途端、李苑はまるでそれを吸い込むかのような勢いで回復した。その様子には驚かされたが、希望が湧いた。自分が力を揮えば李苑は確実に助かるのだと。
 それから三日間、ジュラウンは李苑の側を片時も離れずに治療した。睡眠すら取らずに癒し続けた。見捨てるわけにはいかないと、そう思ってしまった。
 実際、なぜ自分がそのようなことをしたのか分からない。いくら癒しの力を持っているからとはいえ、無節操に全ての者を癒して回る気など毛頭ない。けれど、ガラディアから遠く離れたこのイフリートにまで助けを呼ぶ声が聞こえたと思った。赤ん坊が泣き叫ぶより優しく、けれど全身全霊で訴えかける声で、全世界に声は巡った。無視できないその声にわざわざガラディアまで赴いた。そこで李苑を発見した。自分を呼んだのはこの少女かと眉を寄せた。李苑を見るまでは癒す気持ちなどなかった。単に、誰が呼んだのだろうという興味が先行して赴いたのだ。しかし李苑を見た瞬間、そんな気持ちは吹き飛んで癒しの力を発揮させていた。絶対に助けなければと強い衝動に駆られた。
 そしてようやく完治させた李苑だ。これから彼女には幾つもの質問をしなければいけない。再び傷口を開くような真似など冗談ではない。ザーイにも分かっているはずなのだが、なぜこうも二人は仲が悪いのか。
 ジュラウンは李苑の手首に視線を落とした。
 先ほど癒したばかりの肌に、痣の余韻はない。剣で貫かれた服の下も同様に癒されているはずだった。これで交渉を行えるかと考えていた矢先のことだ。身柄を拘束している時点で交渉もなにもないとは思うが、仕方がない。今のイフリートに、欠片たりとも火種を持ち込むわけにはいかないのだから。
 李苑の存在は、ジュラウンとザーイしか知らない。
「困ったなぁ……」
 平淡な呟きが洩れた。
 ジュラウンはザーイと違い、代わりが全くきかない身分だ。そうそう公務を疎かにするわけにはいかない。ときには自室にすら戻ることができず、執務室で連続で夜を明かすこともある。もしもジュラウンが李苑の世話を一手に引き受けるとなると、李苑の餓死は確定するだろう。火種を生まないために、秘密を共有する人物を増やすことはできない。苦肉の策としてザーイに李苑の世話を任せた。そのことだって、決して簡単ではなかった。けれども苦労してザーイを公務から剥がし、李苑の身辺警護に時間を割いたのだ。
 ジュラウンは寝台に腰掛けた。その音と震動が伝わったのか、李苑が身じろぎする。
「誰?」
 李苑は眠そうに瞬いた。
 瀕死の状態から驚異的な回復力を見せた李苑だが、まだ休息は必要だ。彼女と話をするのは、もう少し時間を置いてからの方が良いだろう。気持ちばかり焦ってしまう。
 李苑の顔は赤い。瞳も赤く潤んでいた。もしや熱があるのではないかと思ったジュラウンだが、体調は完璧に癒したとの自負と、李苑の性格から、もしかしたら泣いていたのではないかと推測した。寝台に顔を埋めていれば、起こされない限り誰にも分からない。
「まったく」
 女性を泣かすなど何を考えているのか。
 胸中で軽くザーイを罵りながら、ジュラウンは李苑に体を向けた。
「気分はいかがですか?」
 いらぬ警戒心を抱かせないために微笑む。
 気遣いを見せたジュラウンに何を思ったのか、李苑が口を開く。だが言葉が零れる前に、扉が乱暴に開かれた。振り返らなくても誰が入ってきたのか分かる。ジュラウンは苦々しい思いを抱きながら溜息をつく。
「ザーイ。貴方にはリオンのことをお願いしていたはずですが?」
 言いながら振り返り、眉を寄せた。ザーイの両手には何かが山と抱えられている。
「これを取りに戻っていただけだ」
 ザーイは手にしていたものを掲げて首を竦める。一見は布にしか見えないが、李苑に投げられたそれは広げられ、そこで衣装だと分かる。ジュラウンは首を傾げたまま衣装とザーイを見比べた。
「着替えるんだったらそれに着替えろ。そんな布きれ巻いてるよりいいだろ」
 ジュラウンは李苑の服装を改めて見つめ、瞳を瞬かせた。
 李苑が纏うのは、ざっくりと裂かれた布きれだ。上衣も非常に簡素な貫頭衣となっている。動きやすい点では間違いない。だが、酷く奇妙な出で立ちだ。纏う衣装の素材自体は高級なものだが、李苑の様子はまるで物乞いだった。李苑には他の衣装も用意させていたはずなのに、なぜそのような姿をしているのか疑問に思う。そして、ザーイからたった今、投げ渡された衣装にも疑問が浮かぶ。装飾はなにもない。至って単純な、子どもが外で走り回るときに着ているような普段着だ。
「ザーイ。それは」
「いいだろう。俺はもう着ない。構わない」
 そんな言葉にジュラウンは黙り込む。
 李苑が広げている衣装はもともとザーイの物だ。彼が軍に所属していた頃の支給品だった。今の任に就いてからは、それらを着ることもなくなったので要らないのだろう。だが軍の支給品を容易く他人に譲ってもいいものか。李苑が悪用することはまずないと思うが、それでも、彼女は女性ですしと思って苦笑した。
 李苑が目の前で嬉しげに瞳を輝かせたのだ。
 ザーイとの喧嘩を見ていれば分かる。並外れた反射神経と運動能力。女だてらに、並みの男に決して引けを取らない彼女だからこそ望む服なのだろう。
 そういえば、とジュラウンは思い出した。
 ガラディアの現継承者は女性であるにも関わらず軍に出入りし、自ら剣を習っていると聞いている。もちろん王族は護身術を叩き込まれ、宝珠の継承者ならなおさら強さを求められる。城下町を自ら散策し、供もつけずに町の治安に力を注いでいるとも聞いている。そのような仕事は町の警備隊がやるものであり、王族が代わりをするなど一度もない。そんなガラディアの継承者と知り合いらしい李苑も、同様式を望むのか。
 ジュラウンは意識を李苑に戻した。
 李苑は渡された衣装に瞳を輝かせたものの、本当に貰っていいのか躊躇っているようだった。最初から嬉しさを表さないのは、断られたときに虚しくなるのを避けているためだろう。ジュラウンは溜息を落としながら促した。
「頂きなさい。ザーイが他人に貢ぐなど珍しいです」
「その言い方は物凄く語弊がありそうな気がするんだが」
「ケチだと言ってるだけですよ。むかし私が剣をねだっても、貴方は決して譲ってはくれませんでしたし」
「あ、当たり前だろうが!」
 軍人にとって剣は命だ。たとえ主君に命じられても剣だけは手放せない。ましてや、ジュラウンに剣など持たせた日には、上官に即「くび」と通告されるだろう。
 ザーイの怒鳴り声を背中で聞きながら、ジュラウンは李苑を抱え上げて囁きを洩らした。
「だからね、リオン。貰っておしまいなさい」
「……ありがとう」
 貰った服を抱き締めて、リオンは微笑んだ。