第七章 【六】

 絶対に帰ってやるんだからと決意した李苑は、有言実行すべく起き上がった。
 時刻は早朝。日が昇る前だ。起き上がる李苑は冷気に包まれて体を震わせたが、思惑通りの時間に目覚められたと知って笑みを浮かべる。
「見てなさいよ……」
 暗い笑みは不吉さを落とすには充分なものを含んでいた。いつもの能天気さはなりを潜めて李苑は真剣な表情のまま、険しい瞳で部屋を眺める。
 昼間、枕元に用意していた上着を羽織って寒さを我慢する。寝台から下りる。
 毛の長い絨毯が足を包んでわずかに緊張がほぐれる。だが絨毯は寝台の周りに敷かれているだけで、さほど大きくない。窓際は硬い床がそのまま覗いており、李苑が足をつけるとそれだけで凍傷になりそうな冷たさを伝えてきた。
 李苑はあえて我慢する。靴を探すが見つからないので仕方ない。
 腕を抱えた李苑は自分に言い聞かせ、窓を開け放った。
 微かに光満ちる白夜。イフリートではそんな夜が主流なのだろうか。たった二、三日しかいない李苑には分からない。白夜でも空には月が懸かっているのが不思議に思える。月は溶けたように薄い。
「負けてたまるか」
 小さく呟いた李苑は窓から身を乗り出した。呼吸を整え、窓の桟にかけた手に力を込める。思い切ってそのまま窓の外側へ体を移した。腕の力だけで窓に縋りつく。まるでこれから鉄棒でもしそうな状態だ。足は心許なく宙に揺れる。
「落ち着け落ち着け。ここで落ちたら響希たちのところに帰れるどころか、天国だ」
 慎重に外壁の取っ掛かりを素足で探す。なんとか親指をつけた。爪が剥がれそうな予感に背筋が凍ったが、他に方法がない。できるだけ爪ではなく親指に力を入れながら、隣部屋の窓を見た。
 腕を一杯に伸ばしても届かない。しかし足の親指に力を入れ、跳ねるようにすれば届くかもしれない。
 李苑がいるのは三階分の高さの場所だった。周囲には背の高い樹もない。失敗したら死ぬかもしれない。けれど大人しく待つだけなどもう飽きた。進展が何もないのなら自分で動くしかない。
「……まるで気分は忍者だね」
 緊張感のないことを呟きながら、腕に入れる力は真剣だった。
 李苑は胸中で小さなかけ声をかけて窓を突き放した。足の親指に力を入れる。体は横に流れる。伸ばした腕が隣の窓に向かう。曲線を描くように落ちて行くが、この曲線のまま進めば、落ちる前に手は隣の窓に届く。計算は間違えていない。
 けれど。
 李苑の足が、瞬間外れた。飛距離が伸びない。それどころか、壁から離した体が計算外の距離まで離れる。
 助ける者も、掴まる場所もなかった李苑は、落下した。
 “死”という言葉が脳裏を過ぎる。
 走馬灯が駆け巡る。
 ――ここで死んだら、響希は……絶対に馬鹿にする。
 走馬灯の最後、響希の呆れたような顔が浮かんで李苑は腹を立てた。ここまで頑張ってまで罵倒されるなど冗談ではない。
 我を取り戻した李苑は近づいていた地面を睨んだ。距離を測る。体を小さくして勢い良く壁を蹴る。痛みが足裏を駆けたが、気にしている余裕はない。かすかに意識を上に向けて蹴ったため、心持ち落下速度が削がれた。
 落下しながら横にスライドした体を、流れて行く地面に手をついてバランスを無理矢理に崩させる。肩から地面に激突したものの落下速度はかなり削がれ、李苑は勢いよく地面に転がる羽目になった。
 衝撃に瞳を瞑る。息も詰める。
 ようやく転がるのが止まったのは、樹にぶつかってからだ。
 骨が折れるのではないかと思われるほど背中を強打した。瞼裏が真紅に染まる。一瞬だけ瞳を大きく見開いた李苑はそのまま地面に倒れる。体中に走った痛みに、しばらく考えることもできなかった。
 それでも、まだ、生きている。
「へ……へへ。やだなぁ、もう」
 震える声で笑う。涙が出てきた。腕が痛くて持ち上がらない。
 指を動かしてみると、震えるものの問題なく動いた。
 そのまま腕に力を入れて体を起こそうとしたが、その刹那、胸に鋭い痛みが走った。起き上がりかけた格好のまま息を止めて硬直する。
 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫。動け!
 そう命じ、意識して息を吐き出し、上半身を完全に起こす。息苦しかった。心臓が早鐘を打ち続けている。その音が脳にまで響いているようだ。
 そのまま座り続けていられる自信が持てず、さきほど打ち付けた樹に背中をつけようとした。再び走った痛みに歯を食いしばり、慎重に頭を樹に寄せた。
「痛くないってば……っ」
 言い聞かせ、痛みの音が鎮まるのを静かに待つ。
 見上げると高い部屋の窓が開け放たれていた。他に開いている窓はない。李苑が出てきた部屋で間違いないだろう。
「あー……あんなに高かったんだねぇ……」
 他人事のように言ってみて小さく笑う。視界がぼやけて胸が痛い。
「よし」
 わずかに心臓の音が落ち着いてきたことを感じて立ち上がった。貧血を起こしたように体が傾いたものの、必死で踏ん張る。なんとか倒れずに済んだ。
「さっさと逃げ出すか」
 小声で気合を入れる。隣部屋に移って逃げ出すという予定は狂ったが、結果として外に出られたのだから構わない。もしあのまま隣部屋に移ることができたとしても、鍵がかかっている可能性はあった。だから今の状況は、願ったり叶ったりの状態だ。
 李苑は都合のいいように解釈して笑った。
 周囲は閑散としている。李苑の脱走に気付いた気配はない。
「私ってばやっぱり最強」
 脱出する前に窓から眺め、脳裏に刻み付けていたイフリートを思い出しながら振り返った。
「あっちに行けば、城壁がありそう」
 窓から見えた風景には霧が懸かり、本当はあまり鮮明には見えていなかったのだが。
 とりあえず人の気配がない場所と、見つかりにくそうな場所を選んで走って行こうと考える。先ほどまで感じていた冷気は、今や熱を帯びた体に心地よい。
 李苑は機嫌よく歩き出した。

 :::::::::::::::

 地面は湿潤していたセフダニアとは違い、乾いていた。
 昼間はあれほど暑いのだから、これが普通なのだろう。むしろ素足の李苑にはこちらの方が都合がいい。乾いた砂が足裏にくっつくが、叩けば直ぐに取れるような軽さだ。
 周囲を囲む樹の衝立はそれほど高くなく、空が明るい。セフダニアやガラディアで見た樹とはどこか様相が変わっていた。あえて違いをあげるとすれば、針葉樹のような、ということだろうか。けれどどこか存在感が感じられなくて違和感を拭えない。
 水を含まないからだろうか。連立する木々に触れたら砂と化して崩れてしまいそうな印象がある。
 脱走から数十分。
 初めて見るイフリートに興味津々で、観察しながら歩いていた李苑だが、すでに飽きていた。セフダニアと同じパターンだ。軽かった足取りもいつの間にか投げやりなものに変化している。
 体に感じていた痛みはだいぶ引いていて、もうほとんど感じない。歩行速度も普段と変わりない。周囲に向ける警戒も怠りなく、結構な距離を歩いてきたはずだ。
 それなのに。
「おかしい」
 硬い声音は、李苑自身の機嫌が落下している証拠だ。
「こんなに歩いてるっていうのに、なんで城壁が見えてこないんだろう」
 ガラディアでは部屋の窓から見える位置に城壁があり、歩けば直ぐに着きそうな距離だった。それと比べてしまうのは間違いかもしれないが、ここイフリートでも同じようなものだと思っていた。
 李苑は立ち止まって大きくため息をつき、振り返った。
 辺りには同じような樹ばかりがある。振り返ってみてももう城は見えない。樹の背丈はそれほど高くないのに、懸かっている霧が邪魔をして遠くまで見ることができないのだ。霧さえなければ城の影ぐらいは見えるはずなのに。
 もしかしてすでに城の敷地から抜け出してしまったのだろうか。けれど城壁がなければ敵の侵入も阻めないのではないか。
「そういえばジュンも宝珠を持ってるって言ってたっけ。だから城壁なんてなくても、敵の侵入なんてあり得ないと思ってるとか」
 よし、今度、私が侵入してあげようかしら、と馬鹿なことを考えながら李苑は再び歩き出した。
「このまま歩いてたらガラディアに着かないかな。いや、幾らなんでもそこまで上手くいかないか」
 乾いた笑いを零しながら、李苑は手近な樹に手をかけて見上げた。
「確かめるだけ」
 イフリートの樹が針葉樹に似ているとはいっても、やはりどこか違う。高い場所からだが、太い枝が幾重にも腕を広げている。
 李苑は飛び跳ねて手をかける。律動をつけながら体を回転させて枝の上に足をかける。身軽な李苑が得意な技だ。彼女はそのまま頂上まで登りつめ、頬にあたる硬い葉を分けながら顔を出した。
「頂上ってもそんな高くない樹だけどね。そういえばここって風がないなぁ……」
 空は薄っすら紺色で夜明けが近いことを示している。遠くに視線を向けると、いつかのように霧が懸かっていて明瞭としない。進んできた方向を振り返っても、やはり霧が懸かっている。けれど朧気な城の影が浮かんでいるような気がして首を傾げる。
「そんなに離れてなかったのかな」
 李苑はさほど衝撃も受けずに事実を受け止めた。
「馬車で三日、か」
 ジュラウンから聞いた情報を思い出しながら枝の上に座り込む。
 問題は食料だろう。ガラディアに行く途中に町があればいいのだが、そういえばお金なんて持ってないぞ、と唸る。樹からそのまま飛び降りた李苑はしゃがみ込み、眉を寄せる。どうすればガラディアまで行けるのだろう。ジュラウンから世界地図を見せられたが、あれらを頼りにするには大雑把過ぎる。大体、あの地図上で北が今どちら方面を指すのかすら分からない。
  誰かに会ったら聞いてみようか。そのためにも早く城から出なければいけない。
「ああもう。お腹すいたよ。あのバスケットごとかっぱらってくれば良かったかなぁ」
 脱走ばかりに気を取られて食事にまで気を回していなかった。一つのことを考えると他のことまで考えられない。手を伸ばすことも思いつかない。いつもそれで響希に「先を見ろ」と呆れられてしまう。
 朝食くらい食べてくればよかったと早くも後悔しながら大きく伸びをして体操する。
「最近は剣の稽古もできてないし、ザーイごときには負けちゃうし」
 根に持っていたのか李苑はそんなことを思った。これでは全国大会にまで行けるかどうか。その前に、響希たちと再開して日本に帰して貰わなければいけない。
 走り出しながら限りない未来展望を果たす。
「ジュンはあんなこと言ってたけどさ。私、自分で見ないと安心しないのよね」
 もちろん響希たちのことだ。
 ランルが無事だということは聞いたが、それすら自分の目で確かめないと安心できない。自分が気を失ってから後の詳細が全く分からない。自分を帰してくれないのは、もしかしてジュラウンの言葉が嘘だからなのではと疑ってしまう。
「そんなこと思いたくないけど、そんな状況作るほうが悪いのよ。っていうかさ、早く帰してくれないのが悪い。私が大人しくしてられるのってそんなに長い間じゃないんだから」
 李苑がそう愚痴を零したとき、頭上を鋭い光が走った。驚愕して頭を抱える。体を小さくして素早くしゃがみこむ。響希が属する組の抗争によく巻き込まれていた李苑は、照明弾かと思った。ここイフリートのそんな物が存在しているのかは怪しいが、今はそんなことに気を回している余裕はない。恐る恐る瞳を開く。
 体に触れる温かな風。注がれる穏やかな陽光。
「あ……」
 朝、だ。
 先ほどまで漂っていた薄ら寒さは消え失せていた。一日の始まるを告げる鳥たちが頭上を飛んでいく。
「だからなんていうか、ここって変なんだってば」
 以前に見た夜明けと同じだったのだろう。
 眉を寄せて同じことを呟き、わけの分からない現象に唇を尖らせた。怯えた時間がもったいない。
「うー。夜明け前に町に出たかったのに」
 走り出した李苑は狂った予定に頬を膨らませた。けれど、視界は急に開けた。
「おお」
 目の前には道。道の向こう側にはまた木々。どうやら道の側面に出たらしい。
「やった。ラッキー」
 適当な感覚で目測をつけた李苑は今まで以上に軽快に走り出した。夜が明けてしまえば人が出歩く。ジュラウンの手がどこまで伸ばされるのか分からない以上、この場を離れるのが賢明だ。せめてザーイが食事を運び、気付かれるまでは町に紛れていたい。
 そんなことを思いながら走っていた李苑は今まで以上に速度を上げたけれど。まるで李苑の決意を嘲笑うかのように、道は唐突に断たれた。
「アンラッキー……」
 進んできた道は、建物に続く道だったらしい。その建物を目で追うと、城へ続いている。恐らく裏口にあたるのだろう。一体どこまで大きな城なのだとため息が漏れる。
 もう他の道を探している余裕などない。李苑の心に焦りが生じる。空は昼の色に変化してきていて、温度もかなり上がっているようだ。走って来た李苑の額に汗が滲むほどになっている。
 周囲を見回した李苑は、まだ誰も出歩いていないことを確認しながら建物に近寄った。裏口ではなく、建物の裏側に回りこんだ。見えていない視界に新たな道がないだろうかと期待する。
 裏側には林が続いていて絶望的かと思われたが、李苑は顔を輝かせた。
 林の向こう側に城壁が見えたのだ。それも、そう遠くにではない。逸る鼓動を宥めながら足早に向かう。城壁があるということは、その向こう側には町があるはずだ。
「けどさ、なんか……」
 城壁に近づくにつれて李苑の表情が曇っていく。城壁の間近に寄る頃には諦めさえ漂っていた。
 まさに城壁。決して低くはない。
「……失敗したら、今度こそ確実に天国ね」
 それでも李苑はなんとか希望を繋ごうと顔を上げた。ため息をつきながらではあったが、城壁に一番近い樹に登り始めた。限りなく城壁に近づこうと、無理に細い枝へ足をかける。それでもまだ高さが足りない。この足場では助走もつけられない。李苑は奥歯を噛み締める。
「ギリギリ、かな」
 目測した李苑は真剣に呟いた。下を見ると怖いから見ない。
 先ほど登った樹とは格段に違う高さを誇る城壁と樹。城壁に登り、そしてその後で町側に下りるのはどうするのだということにまでは気が回らない。やはりどこまで行っても李苑は李苑らしい。先ほど後悔したことすら忘れるほど、集中して城壁を睨み付ける。
「さーて。行きますか!」
 軽いかけ声で気合を入れて、李苑は枝を蹴った。