第七章 【七】

 枝を蹴った李苑はギリギリのところで城壁の縁に両手をかけた。壁に体を打ち付けないよう両足でつき、安堵する。
「成功」
 城壁に片足をかけて体を持ち上げ、城壁から顔を出した。そして李苑は、その向こう側に広がっていた風景に絶句した。
「ちょっと、待ってよ」
 よじ登りかけた姿勢で呟いた。
 町並みが広がっていると思われた予想は見事に覆され、広がっていたのは砂漠だった。果てが見えず、注ぐ灼熱をその身に受けて陽炎が立ち昇っている。そして地平線に浮かぶ、炎の壁。
「あれって、どう見ても炎……って、わ、わわ、だあっ」
 李苑が掴んでいた城壁が脆く崩れた。バランスを崩した李苑は慌てる。体が宙に投げ出され、一瞬、下を見た李苑はあまりの高さに青ざめる。
「冗談!」
 爪先だけをなんとか城壁にかけて落下を免れた。しかし顔面を城壁に強打して意識が飛びかける。
 ――絶対今ので鼻が潰れた。原形とどめてなかったらどうしてくれよう。こんな状況に陥ってるのはザーイのせいだ。
 完全なる八つ当たりだが、それでも意識を失うよりは遥かに良い。
「どうしろって言うの」
 李苑は途方に暮れた。
 爪先だけで落下を免れている今の状況は、非常によろしくない。壁にお腹をつけて逆さまになっているのだ。手探りで何かないかと探してみたが、取っ掛かりもなく、城壁までも遠い。あまり大きく動けば爪先が城壁から外れてしまう恐れがある。これが、背中を城壁につけた状態だったならば腹筋を使って起き上がることも可能だろうに。
「背筋使ってみるとか」
 無理を承知で呟いてみる。
 180度もの上体逸らし――さすがにそこまで人間離れしたくない。
「ああ。すでに頭に血が……」
 下を見た李苑は恐怖に体を竦ませた。目頭が熱く滲んで明瞭としない。ビルで言えば三階の高さにあたるのだろうか。
 意識が白く霞んでいくのを感じた李苑は悔しさに唇を噛んだ。足も痺れてきたようだ。一体どうすれば助かるのか。響希たちのもとへ戻れるのか。無力さに泣けてくる。
「なにやってんだ?」
 風に消されそうな、呆れたような声が李苑の意識をもう一度覚醒させた。
 どこからだろう。
 視線を巡らせた李苑は、地面にザーイの姿を見つける。彼はちょうど、李苑の真下に入り込むような形で見上げていた。
「ザッ……」
 大声を上げた弾みに足が城壁から外れた。一瞬の無重力の刹那、胃が食道まで浮き上がるような、妙な感覚に陥り、そして李苑は落下した。
 なんとしても生き残ろうと、体は反射的に一番良い状態を求める。李苑も本能のままその状態を取ろうとしたが、目まぐるしく変わる視界の隅にザーイの姿が映り、垣間見えた真剣な表情に気を取られて防御を忘れた。李苑はそのままの状態で落下する。
 李苑が落ちた瞬間にも動いていたザーイは李苑の腕を掴みかけ、逡巡したのち両腕で李苑の体を受け止めた。落下時の勢いを受け止めきれず、ザーイは李苑もろとも地面に転がる。抱え込んで彼女に衝撃が伝わらないようにする。
 立ち直るのは李苑よりザーイの方が早かった。李苑は細く荒い呼吸を繰り返しながら、まだ震えている。
 ザーイは李苑を抱えたまま立ち上がり、どこにも外傷はないことを確かめて安堵の息をついた。ゆっくりと地面に下ろす。
 李苑は全身が石のように固まり、まったく動けない。下ろされた間際に貧血で目の前が暗くなったのが分かった。体はただ震えるだけで指すら動かせない。呆れたようなため息が頬にかかった。
「なにもこんな時間にこんなところから逃げようとしなくてもいいだろう。俺がいなかったら確実に死んでいたぞ」
 心底呆れたような声音に李苑の意識がようやく怯えを解放する。怒りと屈辱、その他にも様々な感情が一緒に浮かんできたのを感じながら、思い切り息を吸い込んだ。
「だって! なにも教えてくれないじゃない! 挙句にあんなところに閉じ込めておくし! 私はねぇ、早く皆のところに帰りたいの! 心配なの! いくら言葉で大丈夫って言われたって、それが本当かどうかなんて分かんないでしょうっ?」
 訴える李苑の瞳に涙が滲んだ。突然の感情の爆発に、ザーイは驚いたように李苑を見下ろしている。その視線すら煩わしくて李苑は顔を背ける。泣き顔を見られたことも悔しい。
「馬鹿! 早く帰してよ!」
 これ以上口を開いていると嗚咽に変わってしまいそうな気がして、それだけを吐き出す。目の前にあったザーイの胸を容赦なく叩くと、その腕を掴まれた。
「悪い。そうだよな。ジュンに話してくる」
 意外にも真剣な声音に李苑は俯いたまま瞳を瞠らせた。優しい手が李苑の頭をポンと叩く。そのままザーイは体を反し、離れていこうとする。
 李苑は慌てて顔を上げてザーイを掴む。彼の視線は直ぐに振り返り、李苑は意識して呼吸すると唇を噛んだ。お礼を言わなければいけないのに、声が出てこない。八つ当たりをしてしまって謝りたいのに、涙ばかりが浮かぶ。
 言葉を待っていてくれるザーイに感謝しながら李苑はもう一度呼吸を繰り返した。
 ――直ぐに出てくる言葉は。
「じ、自力で部屋まで戻れって言うの……?」
 それは偽らざる本音。確かに一人で部屋に戻るには自信がない。
 果たしてザーイはその言葉をどう理解したのか、悔しそうに唸る李苑を見て大きな笑い声を上げた。