第八章 【二】

 それまで分からなかった李苑の気配。
 なぜ唐突に分かるようになったのか、そしてなぜ彼女の気配だと直感したのか、分からない。それが、イフリートで李苑が目覚めた為だとは知らずに響希は駆け出していた。
 目的も定まらぬまま直感だけで走り出す。突然走り出した響希に驚いて、他の皆も後に続く。
 響希が本能のままに走って辿り着いた場所。それは、李苑の姿が最後に確認できた場所だった。
 既に清められて血の跡も残っていない場所を、響希は見つめる。漆黒の瞳が微かに光を含んで暴き出す。隠された真実と力。宝珠の力が瞳に宿る。
 誰の目にも映らない、漆黒の宝珠を持つ響希だけに与えられた映像だった。確かにこの場にいた、倒れた李苑の姿が浮かび上がる。
 服の下でやけに宝珠が騒いでいるのを感じて煩く握り、これは宝珠の力かと、響希は妙に納得した。

 ――私達は、時空も、次元も、超える事ができる。

 夢で邂逅した少女の言葉が蘇る。その意味が、今では良く分かる。宝珠は今、響希を過去に起きた場所へと連れて行こうとしているのだ。
 あの時に何が起きたのか知りたいと願う、響希の願いを忠実に辿ろうとする。
「響希!?」
 その場から姿を消しかけた響希の腕を掴んだのは翠沙だった。
 集中を妨げられた響希は不可解に眉を寄せる。蒼白な顔で見上げる翠沙を見下ろした。
「……翠沙?」
 その声には幾らかの非難が込められていた。
 宝珠を使えば、李苑が倒れた時間へ行くことができる。知ることができる。それなのになぜ止めるのか、苛立つような声が洩れる。
 その声を聞いた翠沙の顔が強張るのにも、何も感じなかった。ただ、目的を邪魔されたことに対する苛立ちだけが響希を包んでいる。
 翠沙の表情が翳り、彼女は響希から視線を外した。
「……響希にはその力を制御できるだけの力がない。確実に死んでしまう。絶対に、駄目。私は、まだ貴方を失いたくない」
 再び顔を上げた翠沙の表情は、常にない厳しいものだった。
 響希はふと、翠沙が言葉の意味以上に何かを知っているような気がして瞳を細めた。
「李苑がどこにいるのか知っているのか?」
 翠沙は何も答えなかった。
 響希は翠沙の肩を掴み、その瞳を覗き込む。何を隠しているのか。衝動のままに暴こうとした。
 追いついてきたエリオスがそれを見て非難の声を上げた。
「何なさってるんですか、キョウキ!」
 叫ぶと響希に掴みかかろうとする。
 彼に付き添って歩いてきたランルは、響希の気迫にも驚いたが先にエリオスの行動に呆れた声を上げた。果たして自分の知っているエリオスはこのような行動を取るような人物だっただろうかと、心の中でカルミナ二妃に詫びてエリオスを抱きかかえた。
「エリオス」
 たしなめる姉の声にエリオスは反論しようとしたが口を閉ざす。不満な顔をしてランルの腕に抱えられ、響希を睨みつけた。
 ランルはエリオスの翠沙愛に軽く溜息をついた。
 一方、誰の邪魔も入らなくなった響希は視線を翠沙に戻した。翠沙は弱々しく顔を俯けているだけだ。
 もう一度強く口を開きかけた響希だが、その前に翠沙が沈黙を破った。
「李苑は無事よ。それは分かってる。李苑が消えた後、もう一度よく見てみたもの」
「なぜ黙っていた……」
「言わなくても、李苑の無事を信じていたでしょう? それに、取り乱していた貴方に居場所を告げたら、今すぐに飛び出して行きそうだったから、言えなかった」
 翠沙の言葉を胸中で反芻した響希は黙って翠沙の肩から手を放した。軽く嘆息して、片手を翠沙の額に伸ばす。
 パチン、と小さな音が響いた。
 翠沙は指で弾かれた額を押さえて響希を見上げる。
 響希は苦笑して翠沙を見下ろしていた。宝珠の力を無理矢理に引き出そうとする激情は消えている。
「悪かったよ。お前のこと考えてなくて」
「別に、そういう意味じゃ……」
 翠沙は反論しようとしたが、途中で諦めて頬を膨らませた。響希から視線を外す。
「それで、リオンはどこにいるんですって?」
 黙ってやりとりを見守っていたランルは、そろそろいいだろうとエリオスを解放しながら訊ねた。しかしエリオスはランルから離れず、彼女の手を握り締めているだけだった。それを意外に思いながらランルは翠沙に視線を向けた。
 問われた翠沙は首を傾げてランルを見る。
 響希を見て、しばらく迷ったように視線を彷徨わせていたが、やがて決意したように静かに頷いた。
「白く煌く、宝珠の元へ」
 ランルの脳裏にある記憶が蘇った。
「――イフリート?」
「どんな所だ?」
 呟きを捉えた響希が直ぐに切り込む。
 思考する暇もない問いかけに、ランルは慌てて記憶を探った。
 父王が健在であった頃、彼につれられて会食する機会があった。その時に会ったイフリート王は、ランルとさほど歳の変わらぬ若い王で驚いた事を思い出す。彼の付き人に、侍女に間違われたという嫌な思い出も付随して蘇り、ランルは顔を顰めた。出す声が僅かに険しくなる。
「詳しくは知らないけど優しそうな人だとは思ったわ。今まで彼の治世が揺らいだ事はないと言うし――騒動が多いのは国柄という所ね」
 顔を顰めるランルに、響希は妙な顔をしたものの聞き流す事にして質問を続けた。
「イフリートは遠いのか?」
「遠いわ。セフダニアのように、気軽に行けるような場所じゃない。何しろイフリートは砂漠にあるし、最も大きな国で力もあるから」
 砂漠、と聞いた瞬間にも響希の脳裏に、水を求めて瀕死になる李苑の姿が浮かんだ。シリアスではなく完全なるコメディ図である。
 現実にありそうな光景に脱力しそうになる。
「砂漠だったら、逃げ出す訳にもいかねぇよなぁ」
 響希の小さな呟きを拾い上げた翠沙は、彼女の思考が読めたかのように小さく笑った。ランルは不可解な表情のまま翠沙を見る。
「イフリートの王が、なぜガラディアに?」
「ここまでは宝珠の力で空間転移したらしいわね」
「空間転移?」
 ランルは双眸を瞠った。
「宝珠の扱いは、確かに彼が最も優れているでしょうね」
 在りし日を思い出すかのような瞳で洩らす翠沙に、響希は不意に好奇心に駆られた。しかし問いかければ翠沙にいらぬ心の負担をかけるのではないかと危惧し、悩んだ末に問いかけることにした。側に居さえすれば幾らでも修復は可能だ。
「お前の実年齢は幾つなんだ」
「あら、知りたい?」
 からりとした声音に響希は拍子抜けした。
 響希を振り返る緑柱石の瞳が悪戯っぽく揺れて、小さな唇が笑みを刻む。
 響希は一瞬詰まった。翠沙の瞳の奥底に、計り知れない光を見た気がした。
「創生の巫女の文献は、一万年前の古代都市で」
「忘れたわ、そんな古いこと」
 ランルの声を遮って、翠沙は瞳を翳らせた。一万、との言葉に驚愕する響希に背を向ける。
 人を遠ざける癖がついたのは力のせいだけではない。
 響希は転校したての翠沙を思い出して、踏み込んだ質問をやはり後悔した。李苑がいなければ、今の状態は決して実現していないだろう。
「まぁ、気にするな」
 何度か言葉を探した響希は、結局はそう述べた。
 翠沙が軽く笑う。
「まるで李苑が言いそうな台詞ね」
 確かに、と納得した響希は憮然とした。苦虫を噛み潰したかのような顔となる。
「イフリートの王が、空間転移をしてまでリオンを連れて行ったってこと?」
「そうね。あの人は李苑に危害を加えない。そんな気がするわ。私が李苑を離れた後、治療を引き受けたみたいだから」
 自国に入り込んだ侵入者に、ランルは少なからず不審を抱く。
「無事ならどこにいようと関係ない。俺らはこっちの事に専念すればいいだけだ」
 これまで意気消沈していた響希の変わりように翠沙は苦笑した。
 黙り込んでいたエリオスを振り返って微笑む。その笑顔でエリオスはようやく許されたかのように動き、翠沙に抱きついた。
「さぁ、では本格的に動き出さないとね。サウス奪還の為に」
 翠沙はエリオスを抱き締めてランルを振り返った。そして馳せる。
 ガラディア、セフダニア、イフリート。
 世界を支える三つの宝珠が、欠ける事になるだろうかと。