第八章 【三】

 翠沙たちの存在が明白となった時、城の者たちが取ったのは最高礼だった。
 ガラディア王朝の象徴がランルであれば、宝珠の巫女は世界を象徴する存在。そんな存在がガラディアに逗留しているとあって、城の者たちは上に下にの大騒ぎを繰り広げた。
 けれどそれを切って捨てたのは響希だ。
 漆黒の宝珠を掲げる彼女の容赦ない冷たい瞳に、湧き上がった周囲の気持ちは一瞬にして地に落ちた。厄介者として扱っていたのは他ならぬ自分たちだと想いを改めた。
 響希にしてみれば周囲の思惑などどうでも良く、ようやく慣れてきた部屋を勝手な見解だけで移動して欲しくなかったから、周囲の罪悪感をわざと煽ってみただけだ。彼らの行動を何とも思っていない。
 翠沙はそんな響希の胸中を黙認し、少しだけ楽しそうに眺めていた。全てを分かっていたランルも同じである。臣下たちが青くなる様を哀れだと思いつつ慰めることもない。
 李苑がいない今は部屋が酷く広く、寂しく感じられる。再び賑やかになるのも時間の問題だろう。彼女の居場所ははっきりとしているのだから。
「セフダニアから脱出する時、ランルの宝珠を使って水のトンネルを維持してたのもお前だろう」
 起き抜けに聞こえた声に、翠沙は瞳を瞬かせた。
「ええと?」
 寝台まで入り込む優しい朝日の中で翠沙は呟く。
 天井まで届く大きな窓辺に響希が立って、翠沙を見つめていた。彼女が纏う武具はガラディアの物で、翠沙は違和感を拭えず眉を寄せた。
 早朝訓練を済ませてきたのだろうか。
 起きたばかりで頭が回らなかった翠沙はそんな事を思う。体を起こしたまま更に瞬きを繰り返した。そんな翠沙に響希の苦笑が洩れる。
「セフダニアから脱出する時だ。ランルが意識を失ってもあの場が崩れる事はなかっただろ。俺たちは継続するランルの意志があれば、持ち主が意識を失っても宝珠が勝手に汲み取って維持するんだと思っていたが――宝珠は使う奴の意識が不可欠だと聞いた。なら、あの場で宝珠を使えるのはお前だけだ」
 響希は手にしていた剣を棚に置いて鎧を外した。分厚い皮で造られた防具は一般よりも軽くできていたが、翠沙の目から見れば充分に重そうだ。それを裏付けるように重い音が部屋に響く。
 漆黒の長い髪が、窓から入る朝日に煌いた。
「まぁ……そうね」
 翠沙は諦めたように溜息をついて零した。
 響希は近くの椅子を引っ張り出し、跨って翠沙を見る。射抜くような視線は決して嘘を許さない。
 翠沙は「降参」という意味で首を竦めながら響希に頷いた。隠していても仕方ないと悟ったのだろう。
 翠沙の肯定を受け、響希は溜息に棘を含ませながら頭を掻いた。
「ったく。すっかり騙しやがって」
「……宝珠を使ってないとは、一言も言ってないわ。騙した内には入らないわよ」
 屁理屈のような翠沙の言い訳に、響希は肩を竦めただけだった。汗を吸い込んで重くなったシャツを引っ張り、不快気に眉を寄せる。汗臭いとでも思ったのだろうか。
「風呂、入ってくる」
「あ、私も行きたいわ。今の時間なら誰もいないわよね」
 立ち上がった響希を引き止めて、翠沙は寝台から降りた。手慣れた様子で着替えを見繕い、響希の分と自分の分を揃える。振り返ると響希はまだ扉前で留まっており、翠沙は嬉しくて微笑んだ。駆け寄る。
 李苑がいなければ本当に静かである。
 眩しい陽射しに瞳を眇めながら翠沙は思い、中庭を出た所で感じた気配に振り返った。
「どこへ行くの?」
 視線の先にはランルがいた。朝議が早く終わったのだろう。腕には大量の書類を抱えている。
 最近であれば昼頃までも続く朝議であるが、今はまだ太陽の光が温かさを含む前だ。集って直ぐに解散をかけたのではないかとランルを疑う響希だが、ランルの顔には濃い疲労が残されていた。響希は考えを改める。
「風呂に行こうと思ってたんだが……急用か?」
 問いかけるとランルは小さく首を傾げる。
 風呂という言葉がこちらには無かったかと、言い換えようとした響希だがランルは気にしなかった。
「セフダニアのことで話をしようかと思っていたの。でも、後ででもいいわ。行ってらっしゃい」
「いや、ランルはそうそう時間を作れないだろ。今聞く」
 直ぐに戻ってきた響希にランルは唇を尖らせた。
「たまには休息も必要なのに」
 言葉ではそう言っているが、響希の行動は有難かったらしい。唇を尖らせた後で僅かに安堵の笑みを見せて部屋に促す。
 広いテーブルの上に地図を広げた。
「これがセフダニアの大まかな地図よ」
 ランルは他の書類を無造作に棚へ積み上げると、テーブルに戻って示した。
 響希と翠沙が覗き込む。
 広げられた地図にはセフダニアの主要都市や街道が記されている。要塞や湿原も記され、大まかな大きさが分かる。響希には分からない言語が小さく書き込まれており、地名や町名称などが記してあるのだろうと響希は推測した。
「まさか普通にセフダニアに入るつもりなのか?」
「ええ。今回は宝珠を一切使わないでセフダニアへ入るわ。事件があったあの日から、セフダニアには結界が張られているの」
 眉を寄せた響希に、ランルは頷きながら地図を睨んだ。王達の姿が脳裏をよぎったのかもしれない。零される声音は小さく低い。
 ガラディア王と王妃の遺体は清められ、特別な箱に入れられて安置されていた。しかしそれが不本意な措置である事は、ランルの表情から容易く知れる。
「宝珠を使ったら、直ぐにあいつに通知が行くような結界が張られているの。私たちが向こうに行くことは既に悟られているけど、詳細までもが伝わっていては何の作戦も立てられないもの」
「……ガラディアでは平気なのか? 兵を操っていたのは向こうの宝珠なんだろう。無駄なんじゃないのか?」
 李苑を奪われた場面を指摘すれば、ランルは悔しげに唇を噛んで、強く頷いた。
「ガラディア領内であれば平気。他者の宝珠が無効化されるように手を打ったから」
 それでも納得できないような顔をする響希に、ランルは真摯な表情で告げた。
「宝珠は長く留まればその地にも影響を及ぼすの。大地に気配を植えつけて、宝珠は自分の場とする。そこでは力が増大して、簡単には揺るがないようになるのよ。今回はその力を、スイサにも手伝って貰って高めたから、破られる事はまず無いと思うわ」
 響希が翠沙を見ると、翠沙は頷いた。
「だから、ガラディアを出るまで私たちの行動が向こうに伝わる事はない。セフダニアに入って気配を消したまま行動すれば、ある程度まで危険を減らす事ができる筈よ」
「宝珠を使えば、居場所も行動も筒抜けになるのか?」
「ええ。宝珠は特別なの。力を使った時、近くにあれば共鳴するから。その共鳴を利用して居場所を特定するのは容易いわ」
 響希は漆黒の宝珠を見下ろした。
 ランルの宝珠と、物理的に近い距離であるが共鳴などは見られない。変化を感じる事もない。
 響希のそんな行動を見て、ランルが苦笑した。
「貴方は宝珠を使い始めてから日が浅いわ。だから、そういう事に敏感ではないのかもしれない。これだけ近くにいると気配が分からなくなるというのもあるけど……私には、王宮内の範囲であれば貴方がどこにいるのか、くらいは分かるものよ」
 以前は分からなかった気配。
 けれど、響希が李苑を失い、暴走を果たしてから宝珠は完全に目覚めた。時に煩いほど存在を主張し、自分はここだと叫び声を上げている。ランルは意識しなくてもその気配を感じ取れてしまう。
 響希とランルのやり取りを眺めながら、翠沙がポツリと呟いた。
「宝珠同士の絆は他の何よりも強いもの。それを扱う人にとっても同じ。切り離すなんて出来ないわ。宝珠は、世界そのものだから」
 遠くを眇めるようにしながら呟いた翠沙は、直後に弾かれたように響希たちを見た。まるで失言だったとでも言うように、かぶりを振ってランルに先を促した。
 ランルは翠沙の言葉を聞きたいと思ったけれど翠沙の意志には逆らえなくて、素直に促される。
「セフダニアまでは宝珠を使わないで行く。そして、サウスを見つけて」
「ねぇランル」
 言葉を遮って翠沙が首を傾げた。
「私たち、貴方の口から直接聞いたことはまだ無いのだけれど。貴方はセフダニアの王をどうしたいの? 復讐するの? 今から私たちを巻き込む最大の目的は何?」
 ランルは言葉に詰まって翠沙を見た。
 セフダニア王を裁いた後、セフダニアは混乱に陥るだろう。民達は不安を覚え、宝珠も定まらなくなるかもしれない。それを承知の上で何をしようというのか。
 翠沙の瞳は何の答えも宿さない。緑柱石に煌く瞳は、裁断者のように感じられる。

 ――もし、ここで彼女が望む答えを出さなかったら、協力して貰えないかもしれない。

 ランルの脳裏に打算的な言葉が閃いて、ランルは顔を顰めた。他人に影響されて今回の行動を考えた訳ではない。翠沙たちに会う前から、一人ででも決行しようと決めていたことだ。
「セフダニア王は……」
 最初はサウスを取り戻したいだけだった。
 彼がセフダニア王の手中にある限り、彼は自分の意志では絶対に戻ってこない確信があった。だから焦燥を抱えてセフダニアに打診し、回答が得られないと知ると、秘密裏に自ら動いて情報を集めた。
 次に覚えたのは復讐だ。
 父と母を殺害されて恨みを覚えない者はいないだろう。
 けれどそんな復讐に付き合わされるのは、目の前にいる二人だけではない。ガラディアの全ての民と、セフダニアの民にも影響は及ぶ。
 宝珠には管理者が必要なのだ。そして国には、民を統率して治世する王が必要なのだ。
 ランルは、ガラディア王妃が他界する前に言っていた事を思い出した。

 ――身分を利用して。

 ガラディア王妃は、断罪する前に他界してしまった。為そうとしていたことも為せぬままに。
「私は……」
 ランルは途方に暮れて呟いた。
 それっきり黙りこむ。
 部屋には静寂が満ちて影が少し伸びる。翠沙は身じろぎせずランルを見つめ、ランルは視線を落としたまま考え込んでいる。
 ランルの脳裏はサウスを取り戻すことで占められており、他は考える余裕も無かったのだろう。
 響希は二人を見ながら内心で溜息を零した。
 他人事ではなかった。
 自宅へ戻ったらどうなっているか分からない。世襲制とは言え、この時期に組を離れれば頭だと認めないという事もあり得る。それでも、組を離れてでも確かめたかった事がここにある。
 サウスを取り戻して終わりだとは思えない。
 サウスやランルが人と関わりなく生きていけないように、彼女たちに関わりある者たちも、ランルの行動で何らかの行動を起こすだろう。人の世界は横繋がりに広がっているのだから。
 ――ランルがガラディア王として、セフダニア王をどうするのかは。
「いいんじゃねぇの?」
 響希は呟き、二人が振り返った。
「響希?」
 口に出すつもりは無かった響希だが、結局は出ていたようだ。そうなれば黙っている訳にもいかない。響希は溜息混じりに話し出す。
「何かして、その後の事柄にどう責任をつけるつもりなのか、動いてみてから決めてもいいんじゃないのか? そういう時も必要だろ。後の事ばっかり考えたって、今何かしなきゃどうにもならないっていうのは分かりきっている事だ。あんまり考えてると却って動けなくなるぞ。たまには自分の好き勝手する事も大事だろ」
 響希は顔を顰めた。
 言っている内に、自分に対する言い訳に聞こえたのだ。
「響希」
 翠沙は今の言葉を反芻してランルを見た。
 彼女は予想外の言葉に上手く反応しきれていない。つまり彼女も、自分の行動に何がついてくるのか、はっきりと理解していなかったという事になる。
 翠沙は溜息を落とした。
 本音を隠して口を開く。
「……いいかもね」
「え?」
 翠沙はもう一度、今度は強めに「いいかもね」と吐き出した。
「それもいいかもしれないと思ったのよ。ランルは何も考えてなかったみたいだし。サウスを取り戻し、セフダニア王の罪を民衆に明白とさせる物的な物は、揃えている時間がないもの。王達の死が広まってしまえば選択肢が限られてくる。そうならない為には、今は動くしかない。だから。後のことは後で考えましょう。ほらランル。ではどうやって侵入するつもりなのかを話して頂戴な」
 人が変わったかのように突然切り替えられて、ランルは戸惑いながら頷いた。
「え、ええ」
「李苑がいないと不便だな」
「え?」
 響希の呟きにランルが問い返したが、翠沙は思わず吹き出して頷いた。
 先のやり取りは、李苑がいたなら必ず通るだろう物だ。響希は深く考えつつ慎重に言葉を重ねたであろうが、李苑ならば何も考えずに言葉に辿り着いただろう。彼女は良くも悪くも直感で全てを切り抜けていく。終いには周囲を納得させるのだから侮れない。
「確かに不便ね」
 翠沙も思わず納得して響希を見返した。
 二人にしか分からない苦笑の後には地図に視線を落とす。
「サウスの事が終わったら、そっちも取り戻しに行くか」
「ええ。李苑がいないととても迷惑だわ」
 何やらやる気が出てきたようだ。
 響希も翠沙も、それまでの沈鬱さを吹き飛ばして明るく、積極的に作戦を練った。ランルの考えに補足したり、妥協案を考えたり。その日の作戦会議は長く続いた。
 ――決行は明後日。