第九章 【五】

 ランルと別れた響希たちは森に残り、しばらく城の様子を窺っていた。響希たちが陽動して城の中から目を逸らす作戦だったが、今のところ目立った騒動はない。騒ぎを起こそうにも、巡回している兵の1人もいない。拍子抜けするほど静かだ。
 翠沙がふと視線を上げた。響希が気付いて「どうした」と問いかける。その問いに答えぬまま、翠沙は城とは反対の方向に視線を投げた。響希もそちらを窺うが、変わったところは何もない。
「何か気になることでもあったか?」
「うん……。セフダニアを包んでいた結界が、一瞬だけ揺らいだ気がして……」
 眉を寄せる。奇妙な違和感に包まれる。首の後ろがチリチリとするような感覚だ。結界が揺らいだ一瞬、別の宝珠の気配を感じた気がした。
 セフダニアには宝珠の力が雑多に満ちている。恐らく何も考えず力を使い続けてきたのだろう。残滓が漂い、ランルが持つ宝珠の気配もそれに紛れて判然としない。
 確証がないことは告げない方がいいかしら、と翠沙は顔をしかめたまま更に気配を探ろうとしたが、ここで体力を消耗するのも憚られてかぶりを振った。感覚に惑わされないうちに、考えを切り替える。
「セフダニアの王は強い宝珠の使い手だわ。それを否定することはできないけど」
「ランルがサウスを見つけたら即ガラディアに戻るって言ってたけど、無理だよな」
「迷っている風だったものね。一応の帝王学は身に着けているようだから、常識で、そんなことできないっていう葛藤があるらしいけど」
 静かな城を見つめながら話す翠沙の瞳は険しい。そんな彼女にため息を落としながら、響希は眉を寄せて問いかけた。
「ランルにだけ厳しくないか?」
「そうかしら?」
 意外なことを言われた、と翠沙の瞳は丸くなる。自覚がなかったらしい。
「苦手……なのかしら」
 考え込む素振りで呟いた翠沙に響希は軽く目を瞠った。彼女の言葉が本心から出たものだと分かっているから、更に驚く。
 翠沙が誰かに苦手意識を持つことは珍しい。たとえ苦手意識を持っていても、そうと感じさせない態度を取り続ける翠沙だ。こんなふうに本音を洩らすことは随分と珍しいことだった。
 響希は一拍を置いて促した。
「そろそろ中に入ろう。ここには本当に、何もないみたいだからな」
「ええ。そうね」
 翠沙は素早く切り替えて微笑みを返す。脳裏に地図を思い浮かべた。
 セフダニア城の詳細な見取り図。宝珠を使っても城の内部すべてを見通すことはできなかったけれど、大まかな造りは事前に確認できた。
「では、手はず通りに正面から入りましょうか」
「ああ。派手に宝珠を使ってやろうぜ」
 さすがに正面には誰かがいるだろう。
 翳った翠沙の表情には気付かず不敵な笑みを見せて、響希は城を回った。


 :::::::::::::::


 ガラディア城でランルの不在を知った李苑たちは、現在セフダニアへと向かっていた。けれども。
「めちゃくちゃなこと考えるよなぁ……」
 そう呟くのはザーイだ。彼の瞳は、前方を進む李苑とジュラウンを映している。
「宝珠によって、やり方って違うんだね」
 李苑は先ほどから珍しそうに辺りを見回しているのだが、こんな使い方したのを見るのは俺だって初めてだ、とザーイは胸中で呟いた。
 他国の結界を、別の宝珠で突き破る。
 李苑の提案は、乱暴に言ってしまえばそのようなものだった。
 ザーイは視線を落とす。地面ではなく、川の上を歩いている。魚の姿はない。流れが止まっているわけでもないため、ときおり跳ねた雫がザーイの服を濡らす。地面に立っているのと変わらない感覚だが、時々視界がグラリと揺れる。
 発案者は李苑だが、実行するのはジュラウンだ。このようなことが官吏たちにバレたら、それこそ身の破滅。さほど親しくないこの国で貴重な宝珠を使う羽目になるとは信じられない。
 ザーイは前を進むジュラウンを見た。顔色が悪そうに見える。しかし本当に駄目なら彼は正直に言う。まだ大丈夫なのだろう。告げられるのは、本当に倒れる寸前に限られるのだけれど。
「ジュンが倒れたら、確実に死ぬな」
 ザーイは諦観の念で呟いた。
 一刻も早くランルたちに追いつかなければ事件の全貌を見届けることができない。しかしセフダニアまで何日もかかる。頭を悩ませたジュラウンとザーイに、李苑が「一時間くらいで行けた道があるよ?」と告げたのだ。これに耳を傾けたのがそもそもの間違いだった。李苑が提言した道は、道などではなかったのだから。
 李苑たちがセフダニアからガラディアへと、ランルと共に抜けた水のトンネル。ジュラウンも宝珠を持っているから可能だろうと言ったのだ。
 けれどそれは、ガラディアを守護する結界を別の宝珠で無理にこじ開け、更に、結界に開けた穴を維持しながら川を渡る力も揮い続けなければならないという、常人離れしすぎた行為だった。
 その川を渡りきったとしても直ぐにセフダニアの結界が待っている。ガラディアの結界に穴を開けたまま、セフダニアの結界に穴を開けて通らなければならない。なぜなら、ガラディアとセフダニアの結界は隙間もなく隣接しているからだ。
 セフダニアの結界に、自分たちが通れるほどの穴を開けないままガラディアの結界が閉ざされていまえば、二つの結界に阻まれて潰されてしまう。途方もない作業だ。宝珠を使ったことのないザーイには、それが実際どれほどのものか実感はできないが、宝珠を使ったあとのジュラウンの疲労を見ていれば伝わってくる。
 ジュラウンにかなりの疲労と苦痛を強いることになる、と説明したザーイだが、聞いた李苑は「でもできるんでしょう?」と当然のようにジュラウンに訊ねたのだ。
 ザーイは苛々と息を吐き出した。数時間前のことだ。いまだに腹が立っている。そのときのことを思い出すと、余計に腹が立ってくる。
 李苑の問いかけに、ジュラウンは「当然です」と、さも軽い口振りで答えた。
 あのとき、自分が始末書に溺れる未来は決定した。
「ジュンが私をイフリートに連れて行ったみたいに、空間移動? みたいなことはできないの?」
「あれは酷く体力を消耗しますから。セフダニアで何が起こるのか分からない今、体力を減らすことはできません」
「ふーん。便利なのにね」
「こちらの方が現実的で、あまり疲れません」
 ジュラウンは微笑んだ。どこまで本当かは分からない。だが、宝珠の加護を受けている水を無理に動かすより、直接その上を渡った方が、遥かに楽であることには変わりない。イフリートの宝珠で炎を作り、李苑たちはその上を歩いている。
「やっと対岸が見えてきたね」
 事の重大さを理解していない李苑だけが無邪気に喜ぶ。セフダニアの森が見えたことに両手を握り締めて喜び、早速走り出そうとした。その首をザーイがつかむ。結構容赦のない力だ。これから書類に追われる日々を思っての八つ当たりも含められていたのかもしれない。
「今ここでは宝珠の道が繋がっているんだぞ。それなのに走って結界に寄っても、弾き返されるだけだろうが。いや、お前の場合は軽そうだから、道から外れて川に流されかねない」
「何で結界に弾き飛ばされるのよ」
「ジュンが宝珠でそっちの結界まで道を繋いでるって言ったろう。それ察知して、結界の警戒レベルが最高値になってるんだよ。そうなったら、人も物も、何も通れなくなる。お前、行動だけじゃなくって知識もガキレベルなのかよ」
 李苑は瞬間的に怒りを爆発させようとしたが、ザーイの言うことにも一理見出して拳を握り締めるだけに留めた。こちらの世界で常識がないのは当たり前だ。逆にザーイを日本に連れて行ったら、思う存分、常識外れだと笑ってやれるのに、とあまり意味のない妄想を働かせる。後で響希に頼んでみよう、と思うほどには本気だ。
 李苑はそこで足を止めた。セフダニアの対岸付近だ。
「ではリオン。少し離れていて下さいね」
 ジュラウンに忠告された李苑は大人しく下がった。それでも信用がないのか、ザーイに腕をつかまれる。その扱いに李苑は今度こそ抗議する。
 背後で始まった口喧嘩を聞き流しながら、ジュラウンは目の前に張られた結界を静かに見つめた。
 ガラディアの結界とセフダニアの結界。自分たちの立つ足場が崩れない程度の力配分を考えなければいけない。瞳を閉じて、宝珠の力を引き出す。
 李苑の提案することは破天荒でいい加減に思えるけれど、それに乗ってみるのも面白い。宝珠をこのようなことに使ったことはなかった。思いつきもしなかった。また、提案することで李苑の知識も埋まっていく。何が出来て何が出来ないのか。境界線を引くことで、彼女の中に何かが確立されていく。
 そんなことを頭の隅で思いながら結界に穴を開ける。同時に、奥に控えるセフダニアの結界にも穴を開けた。足元で炎が頼りなく揺れたのを見て、ザーイに視線を送る。彼はその意味を直ぐ理解してくれた。李苑と共に、足早に結界を通り抜ける。
 ジュラウンも続こうとしたが、足から力が抜ける。宝珠の力が揺るがぬよう何とか支えたが、体は追いつかない。
 倒れかけたジュラウンを、ザーイと李苑が結界の外側から引き寄せた。ジュラウンがセフダニア領内に引き込まれた瞬間、ガラディアの結界が閉じる。危ないタイミングだった。
「ジュン。平気……?」
 地面に両手を着いたまま動かないジュラウンに眉を寄せ、李苑が心配そうに訊ねる。屈みこんでジュラウンの頭に手を添えた。慰めるように撫でると、ジュラウンは苦笑して起き上がる。
「大丈夫ですよ。ありがとう」
 けれど、立ち上がろうとして揺らいだ。慌てて李苑が支える。しかし支えきれず、ザーイが補佐をした。倒れることだけは免れる。
「休んでいこうか?」
「貴方の友人たちを放っておいて?」
 少し意地の悪い言い方だったが、李苑はためらわずに頷いた。
「放ってても死なないよ。翠沙は響希が守ってくれるし、響希は殺されないから。だから、休んでも大丈夫だよ」
 そんな言葉にジュラウンは憮然とした。李苑の友人たちは女性であろうに、そんな彼女たちよりも自分が心配されているとは心外だ。
 無理に立ち上がって「大丈夫」と言い張った。
 李苑は心配そうに見上げるが、もう休む気などない。ザーイの視線が少し引っかかる。けれどジュラウンは、先頭に立って歩き出した。