第十章 【四】

「サウス」
 考え込んでいたサウスは顔を上げて息を呑んだ。
 目の前に翠沙がいた。空気が澄んだことが分かり、なぜだろうと疑問に思う。静かな湖のほとりに佇んだかのような、清冽な気配を感じた。涼しげな緑色を宿す少女は真摯な眼差しでサウスを見つめ、無言のまま一度瞬く。
「サイは、貴方が止めるべきだった」
 声を荒げて糾弾するわけではない。それでもサウスは衝撃を受けて拳を握り締める。黙ったまま、何も言えない。すると翠沙はそのまま歩き、サウスの横を抜けるとランルたちの元へ去ってしまう。
 サウスにとっては初めて会う少女だ。何も知らぬ彼女の言葉など気にしなければいいと思うものの、その言葉はとても重たく響いた。翠沙の背から視線を外す。決意を固めて視線を上げる。
「いるか?」
 サウスは呟く。サイの宝珠によって引き裂かれた風。李苑を助けたことにより、宝珠の力と相殺されたかに思えていたが、徐々に体に戻りつつある力がそれを否定していた。ゆっくりと時間をかけて、散じていた風が戻ろうとしている。
 セフダニアを守護してきた彼らへと呼びかける。応えたのは細く消え入りそうな声だった。このままでは本当に消えてしまうのではないかと眉を寄せるサウスだが、自分の力ではどうにもならないと追及はしない。宝珠さえあれば、彼らに力を戻すことが可能だろう。しかしサイは決して協力などしない。
 萎えた体に、一時的なものではあるが力が戻る。なまったこの体でどこまで出来るか分からないけれど。
「リオン、だっけか?」
 周囲が呼んでいた名前を思い出して呟くと、前方でサイと激しい攻防を繰り広げていた李苑が振り返った。翠沙とはまるで違う瞳がサウスを捉える。そのことに安堵し、サウスは強く笑いかけ。サイの元へ走った。


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 両親を殺して宝珠を手にした。サウスには手に入れられなかった王位を手にした。誰からも崇められる立場になり、満足だったはずなのに。それでも何かが足りない。手に入れた瞬間は満足するのだが、手に入れてしばらくするとまた焦燥する。
 サウスが消えたときから巣食っていた飢餓感。
 最初は小さかった衝動が、日が経つにつれて大きく膨れ上がる。宝珠から生まれたあの闇のように、際限なく膨れ上がる。どうしようもなく苦しい。
 サウスが手にしている力など、今の自分に比べれば小さいものだ。ガラディア皇女の近衛になどなりたくない。王としての地位が断然上だ。地位だけはサウスよりも勝っている。それなのに、この漠然とした焦燥はなんなのだろう。
 考えて、思いつく。
 サウスが地位の他に手にしているものはライール=ガラディア=サラン皇女だけだ。彼女が手に入れば、この飢餓感の正体も分かるだろう。周囲から消えていく人々にも、もう戻って欲しいとは思わなくなる。あの綺麗な紫をまとう皇女さえ手に入れれば、永久の幸せを得ることができるのだ。
 そう思って、事を進めてきていたのに。
 考えていたサイは、目前に迫った赤髪に目を瞠った。反射的に剣を構えて受け止める。何度も交わしたことのある剣だ。
 先ほどまでサイを食い止めていた二人は、サウスの邪魔とならないように後方へ離れていたが、サイは気にしない。今はサウスしか目に入らない。
「皆を、どこにやったんだ」
 サウスから零れたのは糾弾の言葉。そんな言葉が聞きたいわけではない。
「知らないよ」
 サイは弾いて距離を保った。サウスに剣で勝てたのは数えるほどしかない。けれど今は、宝珠が味方してくれる。サウスには負けない。
 宝珠を使うことで更なる歪みが育つことなど気にも留めず、サイは宝珠を駆使した。


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 サウスに剣を渡した李苑は座り込んでいた。剣を交えているときは興奮状態で気付かなかったが、剣から手を放して気が落ち着いてくると、強い疲労感が全身を包んでいた。限界まで力を引き出していたからなのか、節々が痛みを訴える。荒い呼吸を繰り返しながらサウスたちの戦いを見守る。
「ランルの言う通り、強いじゃん」
 瞳を輝かせてサウスに見入る。彼女の隣で、同じく呼吸を整えていたザーイは「緊張感のねぇ奴」と呟いた。部屋の入口を振り返る。
 宝珠を持つ者たちが全員集中していて、天井を覆う闇を食い止めていた。彼らの表情は真剣だ。一瞬でも気を逸らせたら失敗するだろう。助けてやりたいと思うザーイだが、物理的な力しか持たない彼ではどうしようもない。自分の無力さに歯噛みしながらサウスとサイに視線を戻す。
「哀れな奴だよね」
「サイか」
 李苑の呟きに頷きながらも、ザーイはなんとなくサイの気持ちに共感できるものを感じてしまう。手に入らない絶対のものは誰にでもある。サイにとってはサウスなのだろうが、ザーイにとっては両親だ。憧憬、渇望、未知のものに対する恐怖。誰もが持つ感情だが、やはりそれをどうにかして生きていかなければいけないのは誰でも同じ。
 違う道が選べていれば良かったのだが。サイは宝珠という安易な力に頼ってしまった。生半可な気持ちで制御できるような宝石ではない。
「サウスは、サイを殺したいわけじゃないよね」
 弟だしね、と李苑が呟く。サイを止めるためにはどうしたらいいのか。李苑は首を傾げた。
「宝珠って、どうやって管理者を決めるの?」
「俺に聞くなよ。そんなこと知ってるわけないだろう。ある意味、世界中の人間が知りたい質問だぞ」
 真剣な表情で、李苑はサウスとサイを凝視していた。そんな彼女をザーイは不思議な気分で見つめる。イフリートではころころと表情を変え、ふざけている姿しか見てこなかった。しかし李苑にとってはすべてが真剣で本当の姿だ。気付いたところで厄介なことには変わりない、とザーイは肩を落とす。目が離せなくなる。
「あ」
 李苑の表情が不意に変わる。同時に、視界の端で何かが倒れた。ザーイは振り返って眉を寄せる。
 体調が万全ではないサウスと、素晴らしい資質を備えたサイ。そして、世界を支える絶大な力持つ宝珠。サウスが劣勢なのは当然と言えよう。
「サイ、止まれ!」
 力に競り負けたサウスが床に転がる。サイはためらいなく剣を振りかざす。
 サウスが体勢を崩し、床に転がる少し前から、予想していた李苑は思わず叫んで走り出していた。ザーイが止める間もない。対策など何も考えていないけれど、何とかしなければいけないと、そんな衝動だけで二人の間に割り込む。
 宝珠が強い光を放って輝いた。


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 ランルと響希とジュラウン。三つの宝珠は競合しないように力を抑えられながら、新たな闇に向けられていた。ジュラウンによって導かれていた力は、翠沙の助力を得たことで、更に効率よく分配され、導かれていく。元からあった側溝に水を流し込むように自然な道だ。
 宝珠から生み出されていた歪みを、同じ宝珠で正しながら小さくし、響希の宝珠によって一瞬前の小さな歪みへと戻していく。戻したことによって生まれる空間のわずかな亀裂をランルが凍結させ、なだらかに、静かに修復していく。
 天井全体に広がろうとしていた闇は収縮して小さくなった。闇の中で目覚めようとしていた“彼女”もまた、眠りを妨げられることなく闇へ沈んでいく。そんな気配を感じて翠沙は安堵した。このまま何事もなく暴走がおさまってくれればと思う。
 サイを止める完全な力を、翠沙は持っていない。わずかな迷い程度ならば巫女として諌め、支配下に置くことができるかもしれない。けれどサイは止まらない。止めることのできる力を持つのは翠沙ではない。響希のように、翠沙を否定しない者なら聞いてくれるかもしれないが、サイには通用しない。本当の巫女が必要だ。
 ――私はどこまで自分勝手なのだろう。
 サイの宝珠を完全に制御し、新たに生まれる歪みも、生まれるそばから正していく。そんな中で浮かんだ感情に翠沙は苦笑する。そして直ぐに、李苑の叫ぶ声が聞こえた気がして、視線を向けた。