第十章 【六】

 響いた翠沙の絶叫には誰もが虚を突かれた。サイですら同じだ。遠く離れていた翠沙に注目が集まる。
「っ?」
 サウスは、自身の手に落ち着いた宝珠が、意志とは関係なく力を発し始めたことに気付いて小さな悲鳴を上げた。誰かの意志がなければ決して反応しないはずの宝石は、焼けるような熱を宿して力を発していた。
 宝珠は、それまでサイによって歪められていた力を正常な力に返還し始めた。歪みを正そうとする。それは安堵すべき力の発現なのだろうが、サウスは自分の意志に関係なく力を発現させた宝珠に不安を抱いた。
 翠沙が正していた闇は急速にあるべき場所へ巻き戻される。その勢いに翠沙が闇へと引きずり込まれる。
「スイサ!」
 いち早く気付いたジュラウンが彼女の腕を掴んだ。闇に侵された体を引きずり出す。腕に抱いて支える。
「翠沙!」
「大丈夫かっ?」
 李苑と響希も駆け寄った。
「待て……」
 サウスだけがその異様さに気付いていた。宝珠はいまだに力を発揮し続けている。翠沙を飲み込んだ宝珠の力すら、自分の管轄ではない。力不足などではない。誰かの、外部からの力が加わっている。
 一体誰が? と思った刹那だ。
「翠沙!」
 ジュラウンを手伝い、闇から翠沙を取り戻そうとしていた李苑の表情が強張った。
 翠沙は気を失っていて、顔は青白い。闇からその体が引き出されたとき、彼女の細い足首には、誰かの手が絡みついていた。どす黒い手だ。とても生きている人間の手とは思えない。
 翠沙の足に絡みついた手は、闇に延びていた。辿った李苑は声を失う。
 闇の中に一対の小さな光が灯った。人の瞳だ。李苑ばかりではなく、誰もが本能的な恐怖に背筋を凍らせて戦慄する。
 李苑は翠沙の服を力いっぱい握り締めながら、闇に浮かぶ二つの瞳に見入る。それは徐々に彩度と明度を増して、翡翠色を宿した。輪郭が現れ、女性だと悟る。瞳だけに異常な光を灯し、女がゆっくりと這い出ようとしている。
「貴方は……」
 意識を取り戻した翠沙は、自分の足を掴んで這い出ようとする女の姿に震え上がった。その怯えを察したのか、闇の女は艶やかに笑みを作った。
「翠沙を放しなさいよ!」
 翠沙の怯えを悟った李苑が叫んだ。
 栗色の瞳にはもう女に対する怯えなどない。サイを圧倒した、燃えるような金色の炎が立ち昇るだけだ。
 そんな李苑に促されるように我を取り戻した響希は、具現化させた剣で女に斬りかかった。翠沙と女を繋ぐ腕を斬り落とす。そのはずだったが、手ごたえがなくて、響希は眉を寄せた。
 女はかすみのように形を崩して揺らめいた。最も近い場所にいた李苑に襲いかかる。
「げぇっ?」
 思わず腕を前に翳して防御体制を取った李苑だが、女は李苑の体を突き抜けてさらに進む。寒気が足元から昇ってきた。李苑は思わず体を震わせる。
 深い憎しみ。
 女が李苑に残した感情だった。
 李苑を突きぬけた女は謁見の間を見渡しながら、サウスたちを目指した。
「……駄目」
 意識を取り戻したばかりだからなのか、翠沙の呟きは力ないものだった。
 間近で聞いたジュラウンは翠沙に視線を戻し、息を呑む。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。鮮やかな翡翠色をした瞳には憂いの光。これから何が起こるのか、まるで知っているかのような瞳だ。
「ちっ?」
 向かってきた女にザーイが剣を構えた。女に怯む様子は見られない。床を蹴る力などないに等しいのに、速度は増す。女はザーイをすり抜けた。李苑と同じように、女に体を通過されたザーイは力を失って倒れる。
「サウス! サイ!」
 翠沙の叫び声に反応し、半ば呆然としていた二人の兄弟は近づいてくる女を睨んだ。
 宝珠の力が揮われた。
 翠沙の意志だ。その場に集う全員の宝珠を駆使し、翠沙は女と兄弟の間に障壁を張り巡らせる。気付いた管理者たちは翠沙を助力する。
「駄目!」
 女は容易くその結界を通り抜けた。サウスとサイ、二人の前でその体を大きく震わせる。広がった闇は、二人に逃げる暇を与えず、そのまま二人を飲み込んだ。
 黒々とした闇をその場に漂わせ、サウスとサイの姿は欠片も見えなくなった。
 信じられない光景に皆が絶句する。翠沙だけが動き、李苑の腕を掴んで悲鳴を上げる。
「李苑、お願い、はやく……っ」
 縋られた李苑だが、何を求められているのか分からない。こんなに焦燥している翠沙は初めてだった。何かしてあげたいと衝動は浮かぶけれど、いったい自分に何ができるのか。闇が二人を飲み込んでから、その場には静寂が満ちた。
「……サウス?」
 ポツリとランルが呟いた。
 呆然と成り行きを見守っていたランルだが、闇に呑まれたサウスに言葉を失くす。その場に力なく座り込んだ。
「ランル」
 どうすることもできない。宝珠による結界が効かなかったのだ、これから同じことをしても無駄だろう。かといって攻撃しようものなら、闇の中にいる二人にも影響が出るかもしれない。
 誰もが方法を模索していると、静かに佇んでいた闇が震えた。まるでサウスたちを連れて行くかのように、その身を徐々に収縮させ始めた。
 誰もが絶望を覚えた。だが、李苑が怒りを込めて闇を見つめた直後、闇の内側から光が走った。
 光は赤く染まる。闇は徐々に薄れて行く。
「サウス!」
 内側から発せられた光は、まるで闇に抵抗しているかのようだった。呑まれた二人はまだ生きているのだ。李苑とランルが確信する。だが、先に走り出したランルは響希に止められた。その腕をかいくぐり、隙を見つけた李苑が次いで走り出す。
「やめろ!」
 響希はランルで手一杯だ。たとえ叫ぼうとも李苑が止まることはない。
 女に力を奪われていたザーイが視線の先で体を起こし、李苑を止めようとする。だが本調子ではないため生来の動きが欠けていた。李苑は容易く彼の腕もかいくぐり、強引に剣を奪う。取り返そうとしたザーイだが動きがついていかずに再び膝をつく。
「……っの」
 重たいザーイの大剣を引きずりかけて李苑は歯を食いしばった。走りながら構え、サウスとサイが飲まれた闇に到達する。渾身の力を込めて切りつける。
 小さな鈴が強く鳴らされたような、澄んだ音が響いた。
 李苑が切りつけた場所が脆くひび割れ、中から大量の赤光が溢れ出る。
「手!」
 闇に触れればどうなるのか分からない。だが李苑はためらいなく手をかけ、光の中に腕を差し入れた。開いた闇から中を覗き込むことはできず、勘を頼りに腕を動かす。その手に何かが触れた。
 李苑は勢い良く引き出した。腕にかかった重力は相当なものだ。しかし負けるわけにいかない。歯を食いしばって全力を込め、引き上げる。
 中から出てきたのはサウスだった。
 赤い光に包まれていた彼は瞳を閉ざして動かない。意識があるのかは分からない。サウスが出てきたことで、内側から放たれていた光が消えた。闇の中でサウスが宝珠を駆使し、必死に抵抗を試みていたのだろう。それが外へ出された今は――。
「李苑! 王を!」
 翠沙が叫んだ。しかし反抗する宝珠が内部になくなった闇は、あっと言う間に収縮して消えた。李苑がサウスを床に横たえ、振り返った直後のことだ。サイを闇の中に内包したまま、跡形もない。
「消えた……」
 李苑が呆然と呟いた。
 遠くから見ていた翠沙は色を失くして瞳を閉ざす。そのまま、支えていたジュラウンに倒れ込んだ。
「……スイサ?」
 ジュラウンが呼びかけたが反応はない。全身を弛緩させていた。意識はないようだ。
 その様子に響希が気を取られ、ランルを掴んでいた力が緩んだ。その瞬間、ランルは腕を振り解く。
「ランル!」
 取り逃がした響希は追いかけようとしたが思いとどまった。闇が消えた今は、危険もないだろう。ランルが駆け寄る先には李苑もいる。それに、ランルの想いを踏みにじるような真似はもうしたくない。
 響希はランルの後姿を見つめ、ため息をつくと翠沙に向き直った。


 :::::::::::::::


「……無茶をするな」
 サウスを横たえて呆然としていた李苑は、背後からかけられた声で我に返った。振り返るとザーイがいる。まだ本調子ではないのか、疲れた色が表情に滲んでいる。
 苦々しい顔をする彼に重たい剣を返し、肩を竦める。
「何がどうなったのか、さっぱりなんですけど」
「お前のあの友人が、一番知ってるんじゃないのか?」
「翠沙、ねぇ……。私がいない間にどんどん話が進んで。いつの間に宝珠を操れる知識つけてたんだろう。羨ましいじゃん」
 本気で呟く李苑にザーイは頬を掻いた。何か言おうと口を開きかけたが、ランルが走って来ることに気付いて後退する。敬意を表すようにわずか頭を垂れて道を開ける。
 ランルは李苑の前に立ち尽くすと、胸を上下させて李苑を見つめる。
「生きてるの?」
 李苑は笑った。
「王子様は取り返したよ? お姫様」
「……っ!」
 ランルは不意に表情を歪ませると涙を拭った。崩れるようにサウスの横に膝をつき、抱きしめる。言葉もなく肩を震わせる。
 李苑は彼女のそんな様子に微笑んで立ち上がる。
 部屋を見渡し、瞳を細めた。遠くでは翠沙を囲んで、まだなにやら騒がしい。しかしもう危険はないのだ。李苑はその場から動かないまま翠沙を見つめた。
「すっきりしない一件落着だなぁ……」
 ため息を零しながら呟いた。