第十章 【七】

「誰もいない……」
 闇に沈んだセフダニア城の廊下。
 かつての栄華はどこへやら、人が宿す温かみは欠片も感じさせず、城を飾る絵画やタペストリーも色を感じさせなかった。薄ら寒さを感じさせるその光景に、見ている自分の心に問題があるのかと瞳を閉じる。
 民も、兵も、父も、母も。そして今、弟までをも失ってしまった。
 国を繁栄させる事の出来る宝珠があったとしても。喜んで欲しかった人たちは残っていない。
 王と王妃が、サイの反乱によって殺された時。あの時、身を案じた乳母が逃がしてくれたのだけれど、もしあの時に逃げずに留まっていたなら。そうしたなら、このような結末には至らなかったのでは無いのか?
 いつも側に感じていた風の加護を、今は感じなかった。
 闇に呑まれた時に、自分とサイを守り力尽きた事を知っている。
「何て……愚かな」
 最善の道はどこにあったのだろう?
 全てが終わった今となっても、それはまだ分からない。

* * *

「――起きた?」
 体が重く、靄がかかったように視界が不明瞭だ。
「まだ起きない方がいいわ。貴方とスイサの疲労が特に酷かったの」
 声がする方向へ首を巡らせると、何かが額から滑り落ちた。
「宝珠で冷やした方が早いとは思ったんだけど――貴方の宝珠が、誰の力も受け付けないように護っていたから――」
 水音と共に、再びヒヤリとした物が額に乗せられた。
「……ランル?」
 彼女の顔が見えなかった。
 ランルばかりではない。何もかもが見えない。ボンヤリとした霧の中にいるようだ。
 タオルを乗せてくれた手が離れていくのを感じ、呼びかけてその手を掴む。けれど何を言うべきなのか言いあぐねいていると、緩やかに解かれた。
「ちゃんとここにいるから。誰もここには入って来れないから。だから、もうちょっと休んで」
「あれから――どうなったんだ。サイは……」
 闇に包まれてからの記憶が抜けている。上半身を寝台に起こし、ランルの手を伝って彼女へ体を寄せた。
 声も上手く出せずに、喉の奥で詰まったような、酷く不明瞭なものであった。
「王は――消えた。あの闇から出て来る事が出来たのは、サウスだけだった」
 きっとサウスには宝珠があったから無事であったのだ。宝珠が、その管理者を護ってくれたのだ。けれどサイは――
 告げるとサウスはもどかしく寝台から下り、扉へ向かおうとした。慌ててランルが止める。
「駄目よ、まだ動ける体ではないわ! それに、外は」
 最後まで言い切る前に、ランルの目の前でサウスは崩れた。床へと手をつき苦しげな呼吸を洩らす。胸元の宝珠が光を放ち、彼の動ける体力を与えたくれたのが客観的に見ていても分かった。
 けれどそれに頼っていては、根本的な体力不足へと陥ってしまう。
「サイを……」
「私にだってどこにいるか分からないわよ!」
「あいつ、俺は……」
 ランルに肩を貸してもらいながら、サウスはうなされる様にそう呟いた。
 その刹那、扉が開かれた。
 サウスがいるこの部屋を基点として誰も入れないように結界を張っていたのだが、そんな中開かれた扉にランルは驚いて振り返る。
「……起きたんだ」
 サウスを見て、入ってきた人物――李苑は微笑んだ。
「リオン。どうやって……?」
「何が?」
 問われた李苑は、何を問われているのか分からずに首を傾げた。ランルは眉を寄せて口を閉じ、そんな様に李苑はキョトンとしたままであったがサウスに向き直った。
「えっと……サウス? 改めて初めまして、李苑です」
 ランルに手伝って貰いながら寝台へと腰を下ろしたサウスは、目の前で微笑む李苑を見下ろした。両手を後ろ手に組んで笑いかけてくるその様子は、純粋な子どもと同じようで。
「もう体の方は大丈夫なの?」
「……ああ」
「全然に決まってるでしょう」
 サウスとランル、正反対の事を同時に述べて顔を見合わせる。
 そんな二人の様子に李苑は軽く声を上げて笑い、そしてサウスへと、何の前触れも無く勢い良く、掌を突き出した。
「だっ?」
 強がりであったサウスはよろけ、寝台へと倒れ込む。
「なんだ、やっぱり駄目駄目なんじゃん」
 予想外の力にサウスは骨が痛み、胸へと手を当て顔を顰める。ランルの前であった為、うめき声など決して洩らさないように歯を食いしばって。
「質問があって来ただけだから。サウスは寝ながら答えてね」
 李苑はぱっぱとサウスを寝台に押し込み、毛布でくるみ込んだ。そんな様にランルは呆気に取られながらも、手際のいい李苑に苦笑を零す。
「何なんだよっ?」
「あのね、あの時、私の事、何か言ってたでしょ? それを聞きたかったの」
 先程までランルが座っていた椅子へとちゃっかり腰を下ろし、サウスへと問いかける李苑の表情は真剣である。
 サウスは顔を顰めたものの、既にそんな行動に慣れていたランルは苦笑だけで済ませる。そうして李苑の質問に首を傾げた。
 宝珠による歪みが広がっていくあの只中で、翠沙を手伝う事で精一杯だったランルには分からない言葉。サウスを見ると、彼は「何を言ったっけ」と首を捻っていて。
「……小さい?」
「絞めるわっ」
「リオン、悪気はないからっ」
 サウスの首に手を伸ばす李苑を押さえてランルが慌てる。そうして余計な事を言ったサウスを睨んだ。そんなランルの様子にサウスは肩を竦め、李苑は不機嫌にそんなサウスを睨みつける。
「他っ! 私が何かだとかって、言っていたでしょうっ? ってか『小さい』だなんてあの時ひとっ言も聞いてないよっ!」
 小さな体全身で怒りを露にする李苑を面白そうに見やりながら、サウスは思いを巡らせた。あの時は自分の事で精一杯で、他人を思いやっている余裕も無かった。そんな時の記憶など克明に覚えているわけでもないが。
 振り返りながらサウスは、ようやく思い当たる一つの事に気付いた。
 宝珠を手にしてから李苑を見やる。見返してくる瞳は真剣であり、そんなギャップに不思議な感覚を抱きながらサウスは、何をするつもりなのかと訝しげな顔をするランルをちらりと見やった。
「サウス?」
 そんなランルの声に応えること無く、サウスは宝珠の力を引き出してそうして、遠慮なく李苑へと襲い掛からせた。
「ばっ、サウスッ!」
 目を剥いてランルが悲鳴を上げる。
 宝珠に対抗する術を持たない者は、純粋な宝珠の力に耐え切れずに怪我を負う。
 怪我だけならばまだいいが、サウスが引き出した力はそんなレベルを軽く超えるものであり、ランルはそれを止めようとしたのだが間に合わない。
 周囲の異変を感じ取りながら李苑はその場から微動だにせず、目の前が歪んだことに、僅かに眉宇をひそめた。それはサイが李苑に向けて放った時と同じ光景である。
 あの時は平気だったから今回もきっと平気だろうと、そんな安易な心構えで李苑は「それ」を待つ。来るなら来なさいよと、強気でその歪みを睨みつける。
 もしその場に響希がいたなら即座に殴られそうな李苑のその行動の後。李苑を切り刻む筈だった力は霧散した。
「……え?」
 自分の宝珠で相殺しようとしていたランルは、標的を失ったその力に目を瞠った。少なからず緊張していたサウスも肩の力を抜き、何も理解していない李苑だけが訝しげにサウスを見るだけで。
「で、これが何? 私、サウスが何を言ったのかだけを聞きに来たんだけど」
 ランルが信じられないように李苑を見た。
 サウスが途中で力を戻したのではない。最後まで李苑に襲い掛からせようとしていた。それなのに、宝珠の意志を捻じ曲げるような何か。それが加わり霧散したのだ。
「……宝珠の巫女。リオンが聞きたかったのはこれなんだろう」
 サウスが笑いながら言うが、ランルは更に眉を寄せた。
「宝珠の巫女? でもそれは、スイサが……」
「え、翠沙?」
 ランルの言葉に聞き逃せない名前を出されてリオンの顔がそちらに向いて。
「スイサって? 宝珠の巫女はこのリオンだろう」
 サウスが眉を寄せた。ランルも困惑したようにサウスを見返して視線を漂わせる。
「宝珠の巫女は……時代ごとに一人のはずなのに……」
 巫女が死なない限り、巫女を継ぐ次代は生まれない。そうしてずっと受け継がれてきた筈であるのに。
「そもそも『宝珠の巫女』って事からして分からないんだけど」
 どうやら三人認識が違うらしく、李苑は手を翳してストップをかけた。口を尖らせてサウスとランルを見ると、二人は顔を見合わせて複雑な顔をした。そしてランルだけが李苑に向き直る。二人の間で説明する役割は決定したらしい。
 流石は恋人、と李苑は口の中だけで呟いてみたが、ランルの視線が向けられたことで背筋を伸ばした。
「宝珠の巫女というのは、この世界にある全ての宝珠を管理する巫女の事よ」
「管理? ……ランル達のこと?」
 顔を顰めた李苑に、ランルは首をふって「否」を告げる。李苑がこの世界の者ではない事を知らないサウスは微かに眉を寄せてその様子を眺めたものの、何も言わずに耳を傾けていた。
「一つの宝珠に一人の管理者。私たちに他の宝珠は扱えないけど、現存する全ての宝珠を扱える者がいるのよ。それが宝珠の巫女と呼ばれる存在」
「ふうん?」
「もし宝珠の管理者が決まらなかった時には、巫女が預かっていたらしいの。でもいつの間にか巫女は表舞台から消えて……」
「つまり宝珠の巫女は最強って事ね!」
 何故か握りこぶしで強引に纏めた李苑だったが、サウスが「それ分かりやすい」と両手を叩いて笑った為、ランルが突っ込みを入れる機会は失われた。ランルは溜息をついて頬に手を当てる。
「巫女は唯一無二の存在。スイサという巫女がいる限り、新たな宝珠の巫女は生まれないはず……なんだけれど」
「でも私生まれてるじゃん。本当に私がそんな存在だって仮定した場合の話しだけど」
「……ええ、そうね」
 李苑にかかったら全ての事象が薄っぺらく感じられてしまう。ランルは首を傾げて苦笑した。
「また翠沙かぁ」
「彼女は、まだ?」
「うん、起きない。サウスも助けたし、そろそろ一回学校に戻っておかないと留年しそうな予感なんだよね」
 溜息をつく李苑の言葉には、ランル達が理解不能な単語も含まれていたけれど。ランルは黙って頷くだけにしておいた。
「あ、もう一つ忘れてた」
「何?」
 跳ねるようにして椅子から飛び降りた李苑は、去りかけた体をサウスへと再び向け直した。
 話から外れていたサウスは、自分に向けられた李苑に不穏な笑みが浮かんだ気がして顔を歪め、そして次の瞬間。飛んできた李苑の右ストレートに慌てて腕を掲げた。
 結構な音がして、腕が痺れる。
「いきなり何するんだよっ?」
「うん、これで私の用事は終わり。もうランルを泣かせないでね」
 何の弁解もなく扉へと向かう李苑に、サウスは眉間に皺を寄せて不機嫌を示した。
「そういえば……サウスって、これからどうなるの?」
 素朴な疑問。李苑のその声に、ランルとサウスは顔を見合わせた。
「……評議会にかけられるだろうな」
「宝珠を持っているのだもの。最悪のケースにはならないと思うけれど」
 気まずい二人の言葉を耳にして、李苑は溜息をつく。自分に関わりのある者が悲惨な境遇に置かれるというのは気持ちのよい事ではない。
「私たちは一度元の世界に帰るけど……戻ってくる前に、ランルはサウスを全快させといてね。じゃないと、折角手合わせしてもらおうとしてた私の計画が消えちゃうから」
「何だそりゃあ」
 バイバイ、と李苑は手を振り部屋を出て行った。ランルによる宝珠の結界は働いている筈であるのに、やはり李苑はものともせずに通り抜けていくのであろう。
 破天荒な李苑の様子にランルは軽く溜息をつき、疲れたように椅子へと腰掛けた。
「元の世界って、何言ってたんだ、あいつ?」
 背後で呟くサウスの言葉にランルは軽く瞳を閉じて。
「――大丈夫よ……イフリート王も協力してくれると言っていたから」
 それはサウスへではなく、自分へと言い聞かせるような声音。
 サウスは大きな溜息をついて、自分に背中を見せるランルに手を伸ばした。