第一章 【二】

「ピタゴラスの定理、又は三平方の定理。言葉で説明せよ」
「何だっけそれ」
 夕暮れに染まる教室の中。
 問題を読み上げる低い声と、答えには程遠い呑気な声が交互に響いた。先程までは校庭からサッカー部や陸上部等の声が聞こえてきていたが、もう解散してしまったのだろう。聞こえるのはカラスの鳴き声ばかり。
 教室に残っているのももう三人しかいない。そのうち問題を読み上げていた一人の眉が跳ねた。
「……三角形ABCにおいて、頂点Cから辺AB上、またはその延長線上に」
「パス、次」
 李苑がノートを広げていた机に、音を立てて蹴りが入れられた。
 灰色のプラスチックと鉄で出来た机は、極道の組長に蹴りを入れられようがへこみもせず頑丈だった。
「最後まで考えてから答えろ! やる気あんのか!?」
「だって全然分からなそうな雰囲気満点な問題だったんだもん! テストだって分かるものからやれっていうのが普通じゃない」
「時間が限られてるからそうせざるを得ないだけだろうが、大体分からない問題自体をなくしておけばそんな事にはならないんだよっ」
「わ、分からないものに頭使うより、分かるものを伸ばしていった方がいいじゃない」
「そうして出来たのは落差の激しすぎるお前の成績結果だろうがっ!!」
 丸めた教科書で栗色の頭を叩くと李苑も負けじとノートを丸めて応戦する。
 この勉強会は落第の危機を覚えた李苑が提案して開かれたものだ。けれども当の本人はこのような調子で、響希は先ほどから声を荒げてばかりいる。
「進級する気あるのか!?」
 怒鳴られた李苑は黙ったまま響希を睨む。悔しそうに唇を引き結んだ。そんな表情を響希は鼻で笑う。
「まぁ、李苑も数学ばかりで飽きたでしょうし、他の教科に行きましょう?」
 間に割って入ったのは翠沙だ。傍観者から当事者へと。柔らかく口を挟んで教科書を持ち替える。途端に輝く李苑の顔に、響希は舌打ちした。
「甘やかし過ぎだ」
「雨と鞭は使い分けないと」
 夕日に染まりながら笑顔でノートを開く翠沙の横顔を、響希も李苑も複雑な顔で見つめた。
 宝珠が支える世界から日本へ戻って来た三人は、久々に登校した学校でまず、進級の危機を告げられた。出席日数は足りていたものの期末試験を受けないまま冬休みに突入していたのだ。行方不明として扱われていたため学校側も追試を許してくれたが、問題はそこにあった。学業に力を入れている進学校のため赤点を取ったまま冬休みを迎えようものなら通常は容赦なく落第だ。今回は行方不明のため登校日に追試を設けてくれたが、そこで及第点を取れず、再追試を繰り返したまま三学期を迎えるようなことになれば学年会議が開かれ落第問題になる、厳しく言われていた。こればかりは行方不明を盾にしても、どうにもならない。
 翠沙と響希は問題ない。
 翠沙は全国レベルで優秀な頭脳の持ち主だ。響希も家柄、常に文武両道を求められてきている。二人とも学年成績順では常に上位だ。
「なんでこの世に数学なんてもんがあるのよー……」
 二人に比べて李苑は、得意科目と苦手科目に笑えるほどの落差があった。
「国語だったら1位になったこともあるのに」
「数学は常に最下位争いだもんな」
 事実だが言葉にされると腹が立つ。李苑は再び唇を尖らせて響希を睨んだ。
 今まで苦労しつつも合格点を出せたのは試験前の復習授業をしっかりと聞いていたからに他ならない。試験前は授業が自習に変わることも多く、そんなときは友人と一緒に勉強をしていた。だからこそ落第を免れていた李苑だが、今回はそのような時間もないため、かなり厳しい自覚があった。そのため響希たちに声を掛けたのだ。
 かなり有名な進学校ではあるが、電車やバスで押し潰される通学を考えれば徒歩圏内にある現在の高校に進学するのが李苑にとっては一番良かった。友人とも離れなくて済む。そんな理由で選んだ高校だが、今ばかりは後悔していた。
「じゃあまず基本的なことから。四大人種を答えて」
「は?」
 どんな基本なのだと翠沙が持つ教科書を見れば、世界史だった。
「……黄色人種、黒色人種、白色人種……」
 これこそ差別じゃないのかと思いながら李苑は必死に頭を働かせる。最後の人種がまったく分からない。黙ったままでいると翠沙の視線が痛い。ちらりと窺うと、彼女は普段通りの微笑を浮かべているだけで、ヒントをくれる様子はなかった。
「赤道直下の赤色人種……」
「赤道は赤くねぇ」
 響希の訂正が鋭い。
「高山に住んでる迷彩人種……」
「何からカモフラージュする人種だ!」
 服が迷彩なのは構わないが、肌が迷彩柄なのは子供も泣く。
「分かんないよ、何その問題! 最後の人種って何人よっ?」
 呟くたびに丸めたノートで頭を叩かれていた李苑は眉を寄せながら怒鳴った。
 翠沙は苦笑しながら教科書の一点を指さす。
「黄色人種、黒人、白色人種、原形から外れた人々」
「原形から外れた人々っ? 何それ、そんなの有りなのっ? 差別だイジメだ国際問題だ!」
 響希のノート攻撃をかいくぐって李苑は叫んだ。
「教科書に腹を立てても仕方ないだろ。本質は脇に置いといて、今は試験対策だけ考えてろ」
 李苑は難しい表情をしたが言葉が空回りするばかりで何も言えず、椅子に座りなおした。
「もういいよ、次!」
 数学よりは意欲的な李苑に翠沙が微笑む。その隣で響希がため息をついた。
 外はもう夕暮れだ。
 赤く焼けた雲が重たげに空を飾っている。
 落陽に染まる壁や机を見ながら電気をつけようと思い至ったところで電気がついた。振り返ると響希がスイッチを入れたところだった。背の高い彼女を見たあと李苑は天井に視線を向ける。
「そう言えば向こうって水晶みたいなものが勝手に明かりつけてくれてたっけ。あれいいよね、便利で。こっちに持ってきても機能するのかな。それともやっぱり宝珠がないと駄目なのかな。ああ、響希が持ってるか。頼んだらやってくれる?」
「断る」
「分かってるけどさ。言ってみただけだもん。ところでランルたち無事かな。ああ、そういえば翠沙、後で全部話してくれるって」
「李苑が無事に落第を免れたら、の話に訂正させてもらうわ」
 にこやかな却下に李苑は頬を膨らませた。
 姿勢を正して教科書を立てる。
「で、次は?」
 綺麗に思考を切り替えて翠沙を見上げると苦笑された。
「一般的な問題だけど、四大文明」
 李苑は顔を輝かせた。ふふふふ、と笑い声を上げて再び椅子に深く座り直す。
「私、そこの所は滅茶苦茶詳しいのよ!」
 得意げに胸を張って指を突き出す。
「メソポタミアとエジプトとインダスと黄河!」
「はい、正解」
 本当に基本的なことだが、翠沙に笑顔で「正解」と言われて舞い上がる。
「栄えた年は?」
 背後から響希が口出ししてきたが、これにも李苑は笑顔で振り返る。
「紀元前の4000年、3000年、2500年、2000年!」
 あまりテストには出題されない質問ではあるが、即答した。自分の興味があることは調べつくす李苑である。響希が面白くなさそうに舌打ちする。
「ふふふふー、これ関係だったら私まだまだ行けるよ! 紀元前3000年にシュメール人がいて、天体観測とか六十進法での時間とか。絵文字から楔形文字作って、遺跡から発掘された粘土板にはね、洪水物語が」
「もういい」
 話が些末な箇所に及んだところで響希に打ち切られた。
「そういう無駄な知識詰め込む余裕は数学の公式と英語の文法に回せ」
「無駄って何よ!」
「次はまた今度にしましょうか」
 学校はもう冬休み直前。そんな中、夕暮れまで教室に残っているのは三人くらいのものだ。外は夕焼けから星空に変わろうとしている。
「間に合う訳ないだろ。潔く落第したらどうだ」
「冗談! 絶対三年生になってやるもんね!」
 闘志はあるが、実力が伴わなければ意味がない。それでも李苑は楽しそうに、広げていた勉強道具を鞄に詰め込んだ。
「私たちの追試って来週でしょ?」
「次の登校日の放課後」
 訂正しながら響希も帰り支度を始める。
「ったく。さっさと帰ろうと思ってるってのに、なんで俺がこんなこと」
 久々の登校日に李苑に捕まり、登校日だけではなく休みの日にも天野組に押しかけられている。一度「翠沙に教えてもらえ」と突き放したが、次には翠沙を伴って屋敷に顔を出す始末だ。
「響希は大丈夫なの? その、組のほう……」
 少しだけ気遣いを見せながら尋ねる翠沙に、響希は「ああ」と答えて向き直った。
「慶が上手くやってくれている。ひとまず俺は、世間でいう“成人”までは自由にできる」
 組の中では既に成人として扱われている響希だが、外に出れば法律の問題がある。表立っての場は慶が仕切っていた。
「平気平気。響希なら何とかなるって」
「お前に言われると物凄く腹が立つ」
「ああ、人徳ってヤツかな」
「それは今使う言葉じゃねぇ!」
 翠沙が笑う。
 そのとき教室のドアが音を立てて開かれ、三人は弾かれるように振り返った。
「なんだお前ら。こんな時間まで何を――」
 顔を出したのは1年生の学年主任だ。三人が直接関わることはなかったが、全校集会などで良く見かける先生のため、李苑も顔だけは知っていた。
 行方不明として一段と有名になってしまった三人の姿に、主任は言葉を途切れさせた。視線の先には響希。行方不明になったのは組の抗争に巻き込まれたからだという噂がある。
 翠沙は微笑ながら首を傾げ、響希は黙ったまま帰り支度の続きをする。
 場の空気を無視した李苑が明るく声を上げた。
「私たち来週追試受けなきゃいけなくってさ。ほら、この中で落第する可能性が高いのって私だから、勉強を見てもらってたの」
 主任は李苑に視線を移したあと、明るい笑顔に複雑そうな顔をした。
「本当は受けるはずだった試験とは問題変えるって言われたから友達にも聞けなくってさ。先生、何か対策ないー? 担任に聞いても教えてくれないんだもん」
「いや、俺とは学年が違うだろうが。じゃあ、まぁ、そういう訳ならいいが、あまり遅くならないうちに帰れよ」
「もう帰るー」
 逃げるように扉を閉められた。
 机に座って足を遊ばせると翠沙に睨まれ、慌てて鞄を持ち、飛び降りる。
「合格したら、また向こうに連れて行ってね?」
「来年になるかもな」
「絶対来週に受かってやるから、見てなさいよ!」
「やれるものならやってみろ」
「むっかつくー!」
 鼻で笑われ、李苑は両手を握りしめながら絶叫した。