第一章 【三】

 灼熱の太陽が住まうイフリート領。国土の大半が熱砂に埋もれ、人々が活動できる範囲はとても狭い。干からびることなく生活できるのはイフリートが宝珠国であるがこそだ。大地に染み渡らせた宝珠の力によって地下水脈を湧きあがらせ、吹き付ける死の風から人々を守る。イフリートに住まう者は世界の誰よりも宝珠の恩恵を受けていることを実感していた。
 結界によって隔絶された都は朝も夜も区別がつかなくなってしまったが、宝珠によって外と変わらぬ環境を造りだすことができた。
 ザーイはそろそろ昼時だということに気づいて窓を閉じた。時間をかけて汲み上げられていた水が地表で凍り、それらは強い日差しを浴びて自然と水に還る。場所によっては地面が川となる。そこは観光地としても機能していた。雨も降らないイフリートでは唯一水に触れあう機会だ。人々は昼食の休憩と共に、わずかな冷気を楽しんでいる。
 部屋の温度が下がるのを感じながらザーイは目の前の書類を眺めた。地方から集められた嘆願書だ。嘆願理由が通らないものであればここで差止して返却する。無理がないものはそのままジュラウンへ通し、そこで決裁する。それが今のザーイの役割だった。
 しかし朝から取り掛かっているものの、書類は減らない。定期的に大量の追加が来て、とても追いついていない状態だ。すべてセフダニア事件の関係だった。
「これもかよ」
 ザーイはため息をついた。脇に寄せていた書類に重ね、その束を手にして立ち上がる。文書受付で新人を雇ったのか、いつもはほとんど間違えることのない書類分別を、今日は朝から頻繁に間違えるのだ。建設工事や物資の補給、人足の手配などはザーイでも決裁できるが、直接ジュラウンへ通さなければいけない要求もある。そんな文書までザーイのところに回ってきている。お陰で先ほどから頻繁にジュラウンの元へと書類を届ける稼働が発生していた。この分では自分たちに来るはずの書類が他の管轄に回っている可能性もあるな、とザーイは思う。
 書類を置いたら注意に向かおうと考えながら、部屋続きになったジュラウンの執務室へと向かう。
 白い扉を乱暴に開けて眉を寄せた。
 執務室は、一般に住居用として使われている部屋よりも狭い。壁四面には本棚が並べられ、綴じられた書類が本の代わりに収められている。大きな窓までは塞がれていないが、ザーイはいつもこの部屋に入ると圧迫感を覚えていた。
 大きな窓は全開になっていた。イフリートが凍る今、閉めていなければ部屋まで凍りついてしまうだろうに。
 窓に向かいながら部屋の奥を見ると、その机にも大量の書類が山積みになっていた。先ほど見たときから少しも減っていないように見える。肝心のジュラウンは椅子に深く腰掛けて両目を閉じていた。
 窓を閉めて傍に向かう。それでもジュラウンは目を開ける様子がない。気づいていないのかもしれない、と訝りながら机の前に立った。
「陛下?」
 この部屋には誰もいないが余所行きの声で呼びかけた。反応はない。
 宝珠の力を割くことに集中して、呼びかけに気づかないのかもしれない、と思ったが腑に落ちなかった。イフリートが凍るのは毎日のことだ。常習化された力は補助をするだけで正常に働く。ジュラウンが毎日意識しなくても、イフリートに残存する力がその役目を負うと聞いた。だからジュラウンが宝珠の力を出そうと集中するほどのことではない。
 ザーイは何とはない胸騒ぎを覚えながらジュラウンを観察した。
 以前、彼が同じ状態に陥った時のことを思い出していた。集中した彼は目の前で消え、ザーイを唖然とさせた。しかし長い時間ではなかった。ほんの数分後、同じ場所に帰って来た。その腕の中に、血まみれになった少女を抱えて。
 少女を助けるために宝珠を振るったのだと直ぐに分かった。しかし、誰とも知れない個人のために宝珠を使っていては限りがないから、そういうことは一切行わない、とジュラウンは宣言していたから、少女を助けることに力を振るったことに驚いた。
 ザーイはジュラウンの顔を見ながら頬を掻く。引き戻すべきかと思い悩む。窓を見ると白い霧が立ち込めていた。気温は順調に下がっているようだ。
 何となく外の景色を眺めながら李苑を思い出した。評議会で異界へ戻ったと聞いた彼女は、今頃どうしているのかと。わずらわしい事後処理から逃れられるなど羨ましい限りだと思う。
 李苑は李苑で落第の危機を迎えていたのだが、そんなことは露ほども知らないザーイは異界を羨ましく思った。
「巫女……」
 静かな声に視線を戻すとジュラウンが目を開けたところだった。焦点がまだ合っていない。何度か瞬かせる様子は寝起きを連想させる。蒼穹の空を映す瞳はどこか虚ろさを感じた。宝珠を使ったことによる副作用だと、正気に戻るのを待つ。
 そして、ジュラウンが正気に戻るのと同時に。
「響希と翠沙は?」
 懐かしい声が机の向こうから聞こえた。
 瞳を瞠らせて覗き込むと、床に座り込みながら大きな双眸がザーイを見返していた。
 ジュラウンの直ぐ隣に現れたのは、以前とまったく変わらない様子の李苑だった。


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 答案用紙が返された直後、李苑は得意気に後ろを振り返った。
「ほら見て、響希!」
 彼女に浮かぶのは満面の笑み。翠沙は少し離れた席に座っていたが、その声に笑った。肝心の響希はうるさそうに眉を寄せる。李苑は彼女の机に自分の答案を叩きつけた。
 国語98点。数学69点。その他の教科は平均70点。及第点だ。何より李苑は数学で60点以上を取ったことがなかったため、自己成績を上回ったことが単純に嬉しそうだった。
 けれどそんな答案を見ても響希の表情は変わらない。
「おい榛原。先生の言うこと聞いてないだろ」
 教壇から担任の呆れ声が飛んできて、李苑は慌てて座り直した。
「聞いてますよ!」
 けれど信用されなかったらしい。教室には他にも生徒がいたが、失笑が洩れる。担任はため息をついた。
「今回、天野と日計は仕方ないが、榛原は追試の常習だろうが。もう少し緊張感を持て。追試が本試より甘いのは当たり前なんだ」
 叱られた李苑だが、その頬は緩みっぱなしだった。担任は一拍置いてから教室の皆を眺める。
「いま合格した奴らも、休み明けにはまた試験があるからな。しっかり勉強しておくように」
 教室全体を見渡し、何を納得したのか良く分からない頷きを残し、担任は教室を出て行った。皆からは途端に安堵が洩れる。重圧から解放された彼らは思い思いに行動を開始する。
「李苑は合格したみたいね」
 近づいてきたのは翠沙だった。李苑は振り返りながらブイサインを作ってみせる。
「翠沙、国語何点っ?」
「99点」
「だーっ! あと一点で同点だった!」
 机に突っ伏しながら嘆くと笑われた。今回は勝てたかも、と思っていた李苑の傷は深い。翠沙は笑いながら聞き流し、響希に首を傾げた。
「響希は?」
「96」
「勝った!」
 復活した李苑が勝利の笑みを刻んだ。
「どうせ国語だけだろ」
「私、国語以外はどうでもいいからいいの!」
「いいわけあるか」
 鼻で笑う響希に力説すると嫌そうに顔をしかめられた。李苑はすでに聞いていない。頬が落ちそうなほど緩ませながら、教科書を鞄に詰め込む。
「ランルたちのところ、行こうね!」
 追試が終わり、長い冬休みを満喫するだけ。
 嬉しげな李苑に、響希と翠沙は互いに意味の違う、複雑なため息を洩らした。


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 漆黒の宝珠が輝いた。繋いだ手からジンワリとした熱が体を包むのが分かる。
 今回は強制でも突発でもなく、自分の意志で訪れる。動きやすい衣装を選んでいた。
 体を包む熱を不思議に感じながら、李苑はランルたちを思い浮かべた。サウスのことが心配だ。ランルがいるなら大丈夫だと思うが、彼を裁く評議会とやらがどのような存在なのか分からない以上、あまり楽観視はできないとも思う。同時に、響希の母親のことも思った。肖像画を見る限りは優しそうな印象を受けたが、果たしてどんな人物で、なぜ異世界にいたのか。興味は尽きない。
 様々な思惑を巡らせながら辿り着くのを待っていた李苑だが、いつまで経っても空気が変わらないことに気付いて瞳を開けた。飛び込んできたのは何もない闇だ。
「響希?」
 前回は一瞬で移動できていたはずなのに、何が起こっているのだろうか。
 彼女を見上げた李苑は息を呑んだ。
 そこにいたのは、焼けただれた皮膚をさらし、うめくように唇を動かしている響希だった。李苑は思わず手を放す。ただれた頬肉がポタリと滴った。額が崩れ、瞳が半分潰れている。彼女は李苑を振り返ったが、何を話しているのか言葉も聞き取れない。李苑は先ほどまで繋いでいた手を見てみたが、彼女の皮膚がついている、ということはない。
 響希、と呼びかけようとした瞬間、彼女は闇の中にかき消えた。
 李苑は呆然と佇む。何が起きたのか分からない。
 まだ手を繋いだままの翠沙を振り返ると、彼女はそこにいた。今の異変に気付くことなく瞳を閉ざしている。先ほどまでの李苑と同じく、辿り着くのを待っているのだろう。
 李苑は安堵して呼びかけた。
「翠沙」
 握っていた手を引いて体を乗り出した瞬間だ。
 繋いでいた手を強く握りこまれた。骨が軋みそうなほど強い力だ。
「痛っ」
 普段の翠沙からは考えられない乱暴な力。強く握られた手は骨が交差し、痛みを訴える。
「翠沙?」
 ここで彼女の手を振り払ったら、独りになる。
 李苑は痛みに眉を寄せながら、握られた手はそのままにして呼びかけた。
「翠沙。ねぇっ?」
 目を開けて、と懇願しながら響希と繋いでいた手で、翠沙の腕をつかむ。
 翠沙の目が静かに開かれた。李苑は表情を輝かせたが、直ぐに怪訝に曇らせた。
「翠沙……?」
 少し緑がかった翠沙の瞳だったが、今や完全に鮮やかな翡翠色に染まっていた。そして李苑を振り返ったその瞳は、友人を見る瞳ではなかった。
「リオン」
 唇が刻んだ響きは、今まで何万回と聞いて来た翠沙の言葉ではない。
 妖しく輝く翡翠の瞳。白い肌が内側から滲むように黒く染まる。
 その変貌を呆然と眺めながら、李苑はセフダニアで見た女性を思い出した。宝珠によって生まれた闇から現われ、翠沙を引きずり込もうとした女性だ。それが叶わないと知ると、彼女は次にサウスとサイに襲い掛かった。最終的にはサイを飲み込んで消えた女性だ。
 李苑は今まで翠沙だと信じていた彼女を睨みつける。
「翠沙を返して!」
 強く握りこまれたままの手を、更に強く握り返した。負けるものかと顎を引く。自分の周囲から誰も消させない。
 翠沙が笑みを浮かべたまま遠ざかっていく気がして、李苑は腕を伸ばした。空気が酷く冷えている。包まれていた温かな空気から一転して寒気に襲われる。
 突き刺すような冷気の中で李苑は更に呼びかける。
「翠沙!」
 強い意志を込めて叫ぶと、不意に翠沙が震えた。彼女は我に返ったように李苑と視線を合わせる。何が起きたのか分かっていないようだ。瞳が不安定に揺れ伏せられる。まるで力尽きたかのようなその仕草に不安を覚えた。
 李苑が呼びかけようと唇を開いた直後、翠沙は目の前で消えた。
「翠沙……?」
 暗闇には李苑だけが残された。それが信じられなくて李苑は呆然とする。平衡感覚を失って倒れかける。しゃがみこみ、床に手を着いて安堵した。ちゃんと地面がある。
 そして再び顔を上げた。
「翠沙。響希」
 呼びかけても応える声はない。
 恐怖がじわじわと湧き出てきて、奥歯を噛み締める。
 道場で両親の帰りを待っていたときのことが思い出された。いつまでも帰らない両親に不安を覚えた末に届いたのは訃報。信じたくない。漠然とした恐怖が李苑を支配する。
「翠沙! 響希!」
 両親を失った李苑の支えとなったのは彼女たちだった。同時に、誤った道に進まないよう示してくれたのも彼女たちだ。こんな唐突に彼女たちを失ってしまうと、どうしたらいいのか分からなくなる。
 凍てつく空気に震えながら李苑は立ち上がる。二人を捜そうと闇に視線を巡らせる。振り返り、闇を一巡して。不変の闇に、叫び出したくなる。拳を握り締めて恐怖に耐えた。
 ふと空気が動き、李苑はもう一度振り返る。
 遠くに一点だけ動くものが見えた。
 もしかしたら翠沙か響希かもしれない、と表情を輝かせるが、次には戦慄した。近づいてくるのは翠沙の姿をした、先ほどの女性だった。艶やかな笑みを浮かべて迫る彼女の姿に恐怖を覚える。爛々と輝く翡翠の瞳が恐ろしい。
 闇を滑るように。風を切る音さえ聞こえるように。
 李苑は視線を逸らすこともできないまま、闇に光る一対の瞳が近づいてくるのを待った。闇は彼女の支配下にある。逃げることはできない。
 ――来ないで。
 彼女の息遣いまで詳細に分かる。恐怖が極限まで高まり、仰け反った李苑は不意に温かな風に包まれたのを感じた。冷え切った体が温められる。恐怖は瓦解し、闇を見つめる李苑の視界に薄い紗幕がかけられる。
 振り返った李苑は、そこに緑の光を見た。
「お迎えにあがりました」
 いたずらを囁くように、優しい笑みを浮かべて李苑を包んでいたのは、ナイ=イフリート=ジュラウン王だった。