第二章 【一】

 李苑とザーイは並んで王宮の廊下を歩いていた。
 傍目からは兄弟にしか見えない雰囲気だ。
「ザーイって、軍人?」
「元、軍人」
 李苑は歩きながらザーイを見上げる。隣を歩く青年は、丁度向かいから来た男たちに声をかけられ、笑顔で挨拶を返したところだ。李苑に向けた低い声を微塵も感じさせない笑顔だった。役者である。
 李苑とザーイに視線を向け、囁きを交わす者たちもいたが、李苑は気にしなかった。何日かぶりに外に出られた感動を満喫している。
「今はなにやってる人?」
「政治の中心にいる人を補佐する人」
 淡々としたザーイの声に親しみはない。李苑は唇を尖らせて眉を寄せる。返答の仕方に納得のいかないものを感じる。抗議しようかと口を開いたところでザーイが顔を向けた。ちょうど人通りが絶えたところだ。
「言っておくが、問題起こしたら」
「分かってますって。もう耳タコ。私はここでは一介の使用人」
 李苑はうんざりとしながら気のない声を出す。両肩を落として溜息を吐き出す。
 ザーイは仏頂面を見せた。
「分かってるなら、いい」
 ザーイは再び歩き出す。李苑もそれを追いかけ、視線を外廊下に面している庭に向けた。砂地が多く、緑は少ない。ガラディアでは当然のように見られた水場が全くない。空気も乾燥しており、この場所はイフリートだと実感させられる。
 李苑は砂が風に運ばれていく様を見ながら、日本からこちらへ移動してきたときのことを思い出していた。翠沙に良く似た、恐ろしい人物。あれは一体誰だったのか。ジュラウンに救い出されなければ自分は今頃どうなっていたのか、想像するにも恐ろしい。
 響希の嫌がらせか、単なる手違いか。
 ひとまず因果は後回しにする。
 現実的な問題として、イフリートに着いた李苑はまたしても幽閉の憂き目にあっていた。以前と違うのはジュラウンとザーイが格段に忙しく、李苑の身の回りを手配することもできなくなっている点だ。眠る暇もないほど忙しいらしい。
 李苑はなんとか二人を説き伏せ――半分は実力行使で、部屋の外に出すことを了承させた。食事すら満足に摂れないのでは、さすがに餓死してしまうだろう。
 何とか外に出られることになった李苑だが、そこには当然ながら制約がついていた。他の者たちに目をつけられないため、何らかの肩書きが必要だ。あまり重要な肩書きではすぐに露見するだろうことを危惧し、頭を捻らせたザーイは、最も無難な使用人に命じた。
(私から色々洩れたらやばいんだろうってのは分かるんだけどさ)
 李苑はザーイの後ろをついて歩きながら唇を尖らせる。
 王とは言え、ジュラウンが置かれている状況は切迫しているらしい。周囲はジュラウンを追い落とそうと躍起になる者ばかりのようだ。だから、その行動を起こさせる、一片の事件も与えてはいけない。
 李苑は部屋から出るときに何度も言い聞かされた。
「ところでサウスって」
 王宮の位置関係を知るためと、使用人として李苑の顔を覚えてもらうために、ザーイと連れ立っていた李苑だが、先ほどから続く同じような景色の廊下に飽きた。不意に浮かんだ疑問を問いかけようとした。
 だが、その瞬間。
 一見すれば安穏と進んでいたザーイが素早く振り返った。目にも留まらぬ速さで李苑の口を塞ぐ。驚いた李苑は双眸を瞠った。ザーイの瞳には苛立ちがある。
「その名を口にするな」
 窒息しかけた李苑は勢いに呑まれたまま素直に頷いた。
 ザーイは周囲に誰もいないことを確認し、李苑から手を外した。重たい砂避けの外套を不機嫌そうに翻して再び歩き出す。安穏とした雰囲気と歩調は、李苑を黙らせた剣幕を微塵も感じさせない。李苑ですら先ほどのことが夢のように思えた。
(軍人かぁ)
 李苑は違うことに感心しながら一つ咳き込み、彼の後を追いかける。
「禁句?」
「当たり前だ。誰のおかげで俺らがこんなに忙しいと思ってやがる」
「ふーん」
 忌々しそうな舌打ちに寂しさを感じ、李苑は砂庭に視線を向ける。
 李苑に与えられていた部屋は王の私宮にあたる部屋だった。そこからは権力者たちが集う政治の中心、政宮に繋がっている。李苑は私宮から出るところも見られないよう、遠回りして再び王宮の門をくぐることになった。そうまでしないといけないほど自分の存在は厄介なのかと、複雑な心境だ。
「ザーイ」
 野太い声にザーイの歩みが止まった。
「なんだお前。呑気にこんなところ歩いててもいいのか?」
 李苑たちの背後から見知らぬ男が近づいてきた。仕立ての良い服に身を包んだ大男だ。年齢はヨールよりも上に見えた。良く日に焼けた顔には、加齢の皺が刻まれている。
 彼の視線はザーイにのみ向けられていた。その隣にいる李苑には気付きもしないらしい。
「バダック殿が血眼になって捜してたぞ。書類抱えてな」
「またかよ」
 ザーイは嫌そうに舌打ちした。気心の知れた友人といった雰囲気に李苑は瞳を瞬かせる。ザーイは王の近くに仕える立場なのだから、王宮に知り合いがいるのは当然だ。だが、ガラディアでヨールに見せたよそよそしさとは全く違う雰囲気を意外に感じ、李苑は身を乗り出した。興味を覚える。
「誰?」
 尋ねると頭を叩かれた。
「ちょっと!?」
 抗議しようと声を荒げるとザーイの手が伸び、頭を押さえつけられる。強制的に礼を取るようにされた。
「躾がなってない新人だと思われたくなけりゃ、黙って頭を下げろ。本来なら新米使用人が顔を合わせられないような立場の奴だぞ。ま、俺もだけどな」
 実力行使で反抗しようとした李苑だが、その言葉に抵抗をやめた。頭を押さえつける力も緩いものだ。そしてザーイの言葉は、李苑ではなく男に向けられているように聞こえた。部屋を出るさいに何度も注意を受けたことを思い出す。しぶしぶと従う。
「新しい使用人か? お前の推薦でか?」
 こうまで李苑の存在を会話に入れられてしまえば気付かない訳にはいかない。男の視線が李苑に移された。
「そ。王宮に入る前、近所に住んでたガキで、リオンと言う」
「なにその説明」
 反論しようとしたが、すかさず頭を押し込められた。
「リオン。こっちは俺が軍にいた頃の上司で、リューエン」
「……初めまして、リューエン、殿」
 李苑は屈辱に顔を歪めながらもなんとか挨拶した。翠沙のように、人当たりのいい笑みを見せようと努力したが、上手くいったかは分からない。リューエンは一般的な挨拶を返しただけだった。
「教養を身につけたいってんで、下働きに推薦したんだ。まあ、この格好で、教養でもなけりゃ嫁の貰い手も」
 李苑は無礼者の足を思い切り踏みつけた。素足なのでダメージは少ない。だがザーイには苦い顔をされて小突かれる。そんな二人をリューエンはなんとも言えない表情で見比べ、やがて呆れたような溜息をついた。
「一瞬、噂の姫かと思った。違うのか」
「それは忘れろって言ってんだろが!」
 李苑には理解不能な言葉だったが、ザーイは素早く反応した。リューエンは愉快そうに笑い声を上げる。元部下の肩をポンと叩く。
「冗談だよ。お前の好みは知っている」
「それも忘れろ!」
 だがリューエンは笑みを湛えるだけだ。
「さ。いつまでも遊んでないで、バダック殿のところに行ってやれよ」
 リューエンはひらひらと手を振って立ち去った。すれ違いざまに李苑の頭を撫でるように叩く。彼の背中を、李苑は複雑な表情で見送った。ザーイもまた苦虫を噛み潰したかのような顔をして彼を見送った。
 やがて彼の背中が廊下の角に消えたのを見計らい、ザーイが長い息をついた。
「……ったく。一人目でそれじゃあ、外に出す話が白紙に戻るぞ」
「人権侵害!」
「あいにくとこの世界じゃ、全ての権利は王に帰属するんでね」
 ひょうひょうとした態度で諭されて、李苑は悔しさに唸り声を上げた。早くも前を歩き出す武人へと、怒りを込めて飛び蹴りした。

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 カナン教国へ行くには、まずセフダニアに入る。セフダニアの国境沿いに南下してイフリートを目指す。イフリートよりも更に南下して、ようやくカナン教国に辿り着く。道のりは長い。
「そこで相談なんだけどな。俺らも途中まで一緒にさせてもらう」
 地図を見ていたサウスは顔を上げた。
 響希と翠沙が決意したような眼差しでサウスを見ていた。
 響希などはガラディアの武装で身を固め、ガラディアの兵士と変わらない様相だった。翠沙も同じだ。ガラディア様式の衣装を纏っている。異世界からの雰囲気を払拭させた彼女たちは、一見すれば貴族のお嬢様と護衛騎士に思えた。
「相談というわりには、言い切りの形になっているが?」
「ああ。お前に選択の余地はないだろう」
 サウスは眉を寄せて響希を見返した。真っ黒で吸い込まれていくような瞳だ。強い意志を含み、決して支配下には下らない。ランルも同じく吸い込まれそうな瞳を持っているが、響希が持つ瞳は不安を呼び起こす。世の混沌が封じられているようだ。
「サウスの容貌は人々に知れ渡ってしまったもの。貴方の境遇も知られている。一人では宿に泊まることもできないでしょう?」
 響希の瞳に縛られていたサウスは、その声に視線を動かした。翡翠色の瞳は軽く笑んでサウスを包み込んだ。だが、含まれる意志は同じだ。
 まったく、なぜ自分の周りには強い女が多いのか。
 サウスは苦笑しながら肩を竦めた。響希が問いかける。
「なにか言いたいことはあるか?」
「両手に華」
 冗談交じりで笑ってみせると、本気で響希に殴られた。
「痛いな。なにするんだ」
「お前を見てると腹が立つんだ!」
「李苑を思い出すものねぇ……」
 そこで親友の名前を持ち出して納得する彼女たちの関係をもう一度確認したくなったサウスだが、機会は失われた。ランルが部屋に入ってきたのだ。
「平気なのか?」
 ランルは誰とも目を合わせることなく扉を閉めた。ただでさえ白い顔色は、ここ数日の忙しさで更に血色悪くなっていた。政治がらみの複雑な会議が連続で行われているのだ。心痛もあるだろう。
 少しよろめいたランルの側に寄って支えたが、ランルは小さく首を振る。支える手は振り解かれた。
「一人で歩けるわ」
 けれどその肩は頼りない。サウスはもう一度手を伸ばそうとして思いとどまった。これ以上、この国に自分はいられない。ランルの側で支えることができなくなるのだ。いま手を差し伸べることは簡単だが、ランルがそれに甘んじてしまえば国を出るとき、更に追い詰めることになる。
 サウスは唇を噛み締めた。自分以外の誰かがその肩を支えるのかと思うと、やりきれなさが湧き上がる。大体、もしもその肩を支える者が、本気でランルを心配するのかといえば、そうではない可能性が高い。彼女は既に一国の主だ。個人の感情とは無縁の場所まで進んでいる。将来ランルの隣に並ぶ者は、政治的判断によって選ばれただけの者になるだろう。それでも、『国』という舞台から弾かれてしまった以上、サウスにできることは何もない。黙ってランルの側を離れる。地図を広げている机に戻る。
「明日にはここを出るよ。ガラディア自体を出るのはまだ先だろうけどな」
「……うん」
 ランルの視線はぼんやりと地図の上を彷徨っていた。心配になったが気付かないふりをする。
「キョウキとスイサも一緒だ」
「二人とも……?」
 ランルの目が瞠られる。サウスは彼女の目に視線を合わせ、静かに頷いた。
「イフリートを通っていくから、リオンを迎えに行くんだろう」
「これ以上野放しにしていたら迷惑だろうが」
 不機嫌さを装う響希に笑みを洩らすサウスだが、ランルは笑いもしなかった。呆然と二人を見つめる。顔色は青い。さすがに心配になって言葉を止めると、響希と翠沙もようやくランルのおかしさに気付いたようだ。問いかけるような視線を向ける。だが、気遣いすらも今のランルには重みとなっているのだろう。ランルの視線は再び地図に戻される。
「リオンを迎えに行って……次はどこへ行くの?」
「それはイフリートに行ってみないと分からない」
 言葉を選びながら答えるとランルの瞳が切なげに揺れる。そこに翠沙の声が入り込んだ。
「ランル。貴方はもう王なのだから、他人を頼るのは」
「スイサ!」
 サウスは声を荒げた。憔悴した表情のランルが瞳を大きく瞠る。遮られた翠沙はもどかしげな表情で口を閉ざすが、ランルの表情は晴れなかった。耐えるように奥歯を噛み締める。
「そうね。スイサの言う通りだわ。貴方がたの旅のご無事を、心からお祈りしています」
 誰が見ても作り笑いにしか思えないそれを乗せて、ランルは礼を取った。そして背を向ける。逃げるように、足早に部屋を出て行く。
「ランル!」
「サウス」
 追いかけようと腰を浮かせるサウスは鋭い声に止められた。絶対的な支配者である宝珠の巫女の声だ。含まれる抑止力は絶大だった。サウスは一度足を止め、だが奥歯を噛み締めて翠沙を振り返る。巫女の声に従おうとする内なる衝動に逆らう。
「……巫女が支配するのは宝珠だろうが。俺らはまだ人間だからな。止めたいなら、人として考えてから言葉を選べ!」
 視線の先で翠沙が蒼白になったのが見えた。
 響希が動く気配がした。だが、彼女が翠沙を宥めるにしても自分を止めに出るにしても、サウスはその前に外へ飛び出して扉を閉めていた。罪悪感が胸を占める。今すぐ巫女の前に戻って非礼を詫びたい衝動が湧き上がる。けれどサウスは拳を強く握り締めることでその衝動に逆らった。
 翠沙の蒼白な顔が蘇る。そして脳裏に、一度だけしかまみえていない李苑の顔も浮かぶ。比較しようとする自分に気付き、サウスは慌てて二人の顔を脳裏から追い出した。ランルを王と思うなら翠沙の言い分は正しい。認めたくないのは、自分勝手でわがままな想いからだ。それでも、ランルの精神安定のためには翠沙より李苑の方がいいかもな、などとついつい考えてしまう自分に辟易しながら廊下を見渡した。
 ランルの気配は既にない。
 だが、宝珠がその存在を知らせてくれる。たとえ宝珠がなくても、彼女が行きそうな場所には見当がついていた。彼女を一番近くで見ていたのは自分だったから。それについては自信がある。
 半分に欠けた月が見守るなか、サウスは王族しか立ち入ることを許されない、王庭の森へと足早に向かった。