第二章 【二】

 翠沙は足から力が抜けたように椅子に腰を下ろして呆然としていた。サウスから放たれた棘が胸を苛んでいる。耳の奥に残響する。
「気にする必要がないとは言わないが、あいつも余裕がなかったんだろう」
 ためいきをつくように響希が慰めた。だがその言葉で翠沙の気持ちは晴れない。目の前が暗くなる。泣き出したいほどの感情が湧きあがるのを必死で堪え、膝に頭を押し付けた。
「……帰りたい……」
「それは『逃げ』か?」
 責める響きではないが、翠沙は怯えるように肩を揺らせて首を振る。
 本音を言えば逃げたい。だが、そうすることで友人に嫌われてしまうのが怖かった。平和な向こう側の世界で、ようやく手に入れた幸せが、こんなことで壊れてしまうのが恐ろしい。
「一人で溜め込むから溺れるんだ。俺たちに話せば溺れない」
 静かに隣に佇む彼女の存在がたまらなく嬉しい。泣き出してしまいたかった。彼女の言うように、溺れる前に全てを吐き出してしまいたい。
 翠沙はふと笑みを浮かべた。
「貴方にだけ話したら、李苑がまた怒るわ」
「怒らせとけ」
 響希は物凄く嫌そうに怒鳴った。
 翠沙は先ほどまで滲んでいた気配が消えたのを感じた。クスクスと声に出して笑う。隣で不機嫌そうな気配を見せる響希に、更に笑う。
「うん……ありがとう、響希」
 一人ではないということが嬉しい。
 翠沙は顔を上げて響希を見つめ、嘘ではない微笑みを見せた。
 ――サウスが宝珠の管理者でさえなければ。
 それで全てが解決できるとは思えないが、抱えている問題の一つは確実に軽くなるだろう。それを思って、翠沙は再び泣き出したくなった。

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 林とも森ともつかぬ場所。
 ガラディア王族にしか立ち入ることを許されない聖域。
 サウスは容易く禁を破ってランルの姿を求めていた。紫色の髪が闇に溶けていたが、彼女の姿は直ぐに見つけることができた。安堵しながらそちらに向かう。途中、踏み分けた草が音を立て、ランルが気付く。
「一人でも平気だけど」
 振り返りもせず放たれた言葉にサウスは苦笑した。
 どこら辺が大丈夫だと言うんだ。そう問いかけようとしてやめる。黙ったまま近づくと、ランルが大きく息を吸い込んだのが分かった。
「明日は早くに発つのでしょう? 私のことは」
「俺の前で無理をするなと、前に言ったよな」
 出会ってしばらく経った頃、確かに言った覚えがあった。振り返るランルを抱き寄せる。抵抗されたが放さない。
「私に触らないでと、何度言わせるの!」
「さぁ。俺は馬鹿だから」
「知ってるわよそんなこと!」
 サウスは苦笑した。抵抗を封じながらため息を落とす。
「俺が、嫌なんだよ」
 苦々しく告げると抵抗の力が緩んだ。少し腕を緩めると、精一杯に平常心を保とうとするランルの顔があり、サウスは口付ける。ランルの目尻から涙が零れる。
 このような状態のランルを放ってカナンへ行くことは躊躇われた。だが、ガラディアに留まればそれだけランルが心痛を負う。周囲の突き上げは凄まじいものだろう。留まるわけにはいかない。だが、カナンへ行ったからといって無事を保障されるわけではない。ランルは再び心痛を負うだろう。自分の存在そのものがランルの負担になっている。
「悪い」
 ぱらぱらと、声を殺して泣き出したランルを抱き締めてもう一度囁いた。
「貴方に対する当てつけでしょうね。縁談が持ち込まれたわ」
 つい腕が強張るが、サウスはなんでもないようなふりを装って頷いた。
 予想していたことだ。一族の繁栄を望むのは、当然の願いだ。
「正式な発表はまだ先。父上たちの葬儀が済んでからという手筈になってる。断れないわ。サウスのことは先方にも伝わっているもの」
 ランルは震えそうになる声を必死で殺し、縋りつくように背中に手を回す。サウスはどうすることもできない。全ては自分でまいた種とはいえ、やりきれない。一瞬、駆け落ちでもしてやろうかと考えたが、ランルは決して同意しないだろうと思った。万が一にも同意したなら、きっとランルは後々そのことを悔やむだろう。そんな姿を見たいわけではない。
 しばらく抱き合っていたが、やがてランルから離れた。
「行って。カナンへ。私ならもう心配要らないから。今までありがとう」
 別れの言葉。
 涙の痕はそのままに、ランルは静かに微笑んでいた。
 そんな微笑みを見た瞬間、後のことなどどうでもよく、攫ってしまいたい衝動に駆られた。爪が食い込むほど強く拳を握り締める。なにか言わなければと思うもののいい言葉が浮かんでこない。ようやっと、絞り出すように「ランルも」という言葉しか出てこなかった。
「ええ」
 ランルは頷いた。
 サウスは踵を返して歩き出す。聖域の出口へと向かって。まるで、聖域を脅かす存在として主に追放を命じられた羊のように、途方に暮れながら。
 聖域の出口に近づいても、追いかけてくる足音は聞こえなかった。

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 厨房は非常に広い。だが、そこに勤める人数も比例して多く、どこの厨房でも人口過多は否めないようだ。王宮の台所ともなれば純粋な調理人の他にも女官や業者が出入りしており、往来も激しい。
 李苑は人の波に押し流されないよう、必死で厨房の柱を掴んでいた。
「ええと、あのこれ、どこに運べばいいって……?」
 雑多な音に紛れ、怒鳴るように大きな声を出さなければ届かない。
 厨房の入口に留まっていた李苑は後ろから押され、たたらを踏んで睨む。ぶつかった男は爽やかな笑みを見せ、手を上げて軽く謝って足早に厨房の奥へ消えた。李苑はため息をついた。再度、手近な手押し車を見る。そこには湯気を上げる食事が乗せられていた。李苑はそれを運ぶように頼まれたのだ。
 問い返す李苑に、入口付近で魚を捌いていた老女は面倒そうに振り返った。忙しいのだから何度も言わせるな、ということだろう。そんな内心を読み取った李苑は憮然とする。幾ら使用人を演じているとはいえ、こちらにも異論唱える権利くらいあると思う、と反論したい。
「王の宮だよ! 今日もご公務で、大食堂に来る暇もないっていうことだったからね!」
 李苑はすかさず声を張り上げた。
「別の人に頼んで! 私、昨日も」
「新米が贅沢言わない! 国王に拝謁できるなんて破格の扱いなんだからね!」
「そんな破格の扱いなんていらないっ」
 李苑の悲鳴は届かない。さっさと行け、とばかりに背中を押され、李苑は慌てて車を押した。
「王の手付きになればあんたの将来も安泰だよ!」
「そんな将来いるか!」
 背中に飛ぶ野次ともつかぬ声援に怒鳴り返すと、厨房で聞き耳を立てていた料理人たちから笑い声が沸いた。李苑は連日、同じような役割を与えられ、既に厨房の者たちとは顔見知りだった。
 厨房から追い出された李苑は出来上がったばかりの料理を見る。
 王の口に入るだけあって、どれも美味しそうだ。厨房から離れて王の口に入るまで、新米の使用人に任せっきりでいいのかとは疑問であるが、李苑はひとまず目の前の料理に埃が入らないように布をかけた。ジュラウンを蹴落とそうと躍起になる人物たちがいるという話だから、料理を運ぶ役目が自分であるのは、逆にザーイたちにとっては都合がいいのかもしれないと思いなおす。恐らく運ぶ係りが李苑でなければ厨房の真横に毒見係を配し、どれほど忙しくても大食堂で食事をするのだろう。
 李苑はため息をついた。
「まったく。気楽に言ってくれるよ」
 車をゆっくりと押し始めた。小さな李苑の体にそぐわない大きな台車だが、滑りは良いためそれほど力は要らない。李苑でも運ぶことぐらい出来る重さだ。
 李苑は慎重に押し進める。以前、早く運ばなければと焦りながら廊下を走った李苑は、曲がり角で見事にすっ転んだ経歴があった。料理が台無しになったのはもちろんのこと、鉢合わせた兵士の鎧も台無しになり、危うく打ち首にされるところだった。ザーイの根回しによって事なきを得たが、あのような思いは二度と御免だ。
 李苑は額に汗を浮かべながら料理を見つめる。
 偽りの身分で王宮に雇われた李苑は、下働きとして王宮の厨房で働いていた。当初は全く別の目立たない仕事を任されていたのだが、李苑がいつも失敗ばかりするため厨房に回ってきたというわけだ。
 客室を整えるよう命じられれば更に散らかして高級な絵画を落としかける。
 庭師のもとで働かせようとすれば、景観が第一の植木に穴をあける。
 誰もがお手上げ状態。李苑は各部署をお手玉のように転々とし続け、ようやく厨房で引き取ったという次第だった。今度こそまともに仕事を覚えて慣れたいと願う李苑である。
 体を動かせるという意味では今までの仕事よりずいぶんと良い。だが、厨房より、本当は兵舎での雑用がいいなぁと考えている。
 厨房から王の私宮までの道中に訓練施設がある。ガラディアと同じように、兵たちが様々な武術訓練に励んでいるのを見て、羨ましくなったのだ。たとえ彼らに混じることができなくても、剣を磨いたり、馬の世話をしたり、そういう雑用で構わないのに、と李苑は残念がる。もっとも、それを一番危惧していたザーイによって、慎重に根回しが施されていた結果だった。
 ――厨房を首になれば、次は向こうに配属されるかもしれない。
 儚い希望とは露知らず、李苑は少しだけそう思った。
 イフリートを抜け出そうとして死にかけた頃と比べ、ずいぶんと寛容になったと自分で思う。命懸けの無茶をしなくなったのは、制限があるとはいえ、自由に出歩くことが許されているからだ。そして、響希たちには何の心配もないため気楽、ということが原因だった。響希が耳にしたら頭を抱えるかもしれない。
 楽しい想像に李苑はクスクスと笑いながら台車を押し続けた。
 少し歩いていると、廊下の先から政治家らしい壮年二人が歩いてきた。ここ数日、王宮で暮らしているためか嫌でも王宮作法に慣れていく。自分が使用人という立場な以上、彼らの方が位が上だ。李苑が脇に避けて頭を下げる。以前のように、知らずにぶつかり、裁判沙汰になったなど、洒落にならない。
 歩いてきた二人組みは李苑のことなど気にも留めていないらしい。二人は互いの顔を見ながら真剣な表情を崩さない。密かに「よそ見しててぶつかったら反撃してやる」と思いながら彼らが通り過ぎるのを待っていた李苑だが、彼らの声が聞こえてくると眉を寄せた。
「国葬もようやくと言うのにな」
「そう言うな。あれも随分と固執していたらしいからな。やっと厄介払いできて、老師たちも肩が軽いでしょう」
 なんのことを指しているのかは分からないが、嫌な気分である。李苑は奥歯を噛み締めた。二人が完全に通過するのを見計らって頭を上げる。
「ふう」
 もしも響希が今の自分の姿を見たら盛大にからかわれるだろうなと思った。
 李苑は再び台車を押し始める。
 厨房を出て間もなくは人の往来も頻繁だったが、王の私宮に入ると途端に絶える。ようやく本当に肩の力が抜ける。
 李苑は足早にジュラウンの部屋まで向かった。