第二章 【三】

 ジュラウンが住まいとする私宮は広い。
 砂で囲まれた庭を横目に、幾つもの部屋を通り過ぎる。途中、傾斜もあるため台車を押す力は結構な強さを要求された。辺りに人はいないので自力で押すしかない。
 そうしてようやくジュラウンの部屋に辿り着く。
 普段は別の部屋に行ったり、政宮に出向いたり、ジュラウンの行動範囲は広いため、必ずしも自室にいるとは限らない。だがこの時間帯は大抵この部屋にいると知っていた。
「失礼しまーす」
 李苑は扉を叩いて大きく声をかける。扉を押し開けた。
 視線の先にはジュラウンとザーイが真剣な表情で顔を突き合わせていた。書類片手に、何かを話し合っていたようだ。
 扉が開かれた瞬間、ザーイが弾かれたように振り返る。そこに剣呑な気配を感じ取って李苑は瞳を瞬かせた。だが物騒な気配はすぐに消える。ザーイは李苑を認めると顔をしかめた。あからさまに『嫌そうな顔』だ。ここ連日、食事を運ぶという仕事で部屋を訪れていた李苑にとっては慣れたことだった。それでも腹が立つのは仕方ない。少しだけザーイを睨みつけて台車を中に押入れようとするが、ザーイによって止められた。
「誰の許しを得て入ってきた」
「はぁ?」
「お前は今、ここの使用人だろう」
「そうだけど」
 ザーイの瞳から殺気は消えていたが、苛立ちが浮かんでいた。李苑に向ける視線は、とても友好的とは言い難いものがある。彼の言葉に李苑は戸惑いながら口を開いた。
「いまさら何言ってるの。いままでだって」
「使用人をやりたいと無理を通したのはお前だ。お前がただの使用人なら、ここでは王の断りなく入ることは許されていない」
 李苑は唖然とした。殴りつけてやろうかと思った。だが冷たくザーイに見返され、諦めの気持ちが先に立つ。度重なる連日の疲労が原因かもしれない。チラリとジュラウンを見るが、彼はザーイの言葉を遮るつもりはないようで、苦く笑って肩を竦めていた。黙って従ってくれということだろう。
 李苑は沸々と怒りを湧かせながら「そこまで言うならやってやろうじゃないのさ」と二人を睨みつけた。台車を握る手に力を込める。
「それは失礼いたしました。では私が食事が冷めて不味くなるまで外で待っています。どうぞ、お話の続きでもしてて下さいませ!」
 乱暴に部屋から台車を引き出し、壊れるのではないかと危惧するほど力いっぱい扉を閉めた。
「くっそー。覚えてなさいよ、ザーイ。いつか絶対勝つんだから……!」
 地団駄踏んで悔しがり、宣言した通り、李苑はその場に立ち尽くす。
 食事にかけた布をめくるとまだ湯気が立ち昇っている。冷めるのも時間の問題だろう。この暑いイフリートで、少しでも涼めるようにと、食後のデザートは凍った果物だ。
 ぶつぶつとザーイへの文句を吐き出しながら、がんがんと台車を蹴りつける。とりあえず台車が倒れない程度の力加減はしていたが、怒りは静まらない。
「リオン。もういいですよ。入ってらっしゃい」
 食事が湯気を上げなくなってきて、李苑自身も飽きてきた頃、ようやく中から声がかけられた。
 李苑は一度深呼吸してから扉を押し開ける。
 視線の先にはザーイとジュラウンがいる。さきほど見た位置から少しずれて、書類も片付けられている。そういえば先ほどは食事を置く場所もないほど散らかっていたっけ、と李苑は改めて室内を見渡した。
 部外者には見せられない書類、ということだろう。そこに思い至って李苑は憮然とする。幾ら部外者には見せられないとはいえ、イフリートの文字は李苑には読めない。見ても分からない。その辺りを気付いて欲しい、とは内なる声だ。
「さっさと並べろよ。腹が減った」
 無神経なザーイの言葉に李苑はブチリと何かが切れるのを感じた。さすがにジュラウンが咎めるようにザーイを見たが、李苑の苛立ちは膨れ上がる。
 李苑は笑顔を装って食事を並べ始めた。
「こちらは料理長おすすめの北方の果物です。涼めるようにとの配慮ですが、ほとんど溶けかけてますね」
 書類が片付けられた円卓に並べていく。事務的で親しみの欠片もない声音と行動に、ジュラウンとザーイは顔を見合わせた。そんな様子を視界の端に捉えていても、李苑は許す気になれない。
「ええと。ありがとう、リオン。貴方はもう、食事は?」
「まだです」
「では一緒に……」
「いいえ。使用人の分際で、仮にも国の中心にいるえっらい方々と顔をつき合わせて食事させてもらえる栄誉なんて、私には過ぎた幸せです。私は人並程度の幸せがあれば充分ですから」
 言葉がおかしいのは気にしない。棒読みのようになりながら、李苑は据わった目で彼らを眺めた。
「リオン」
「なんですか、ザーイ財務省」
「……宰相」
「ああそうですね。王族ってのは人の手がかかることばっかりするんでした。はいザーイ、座って」
 李苑の勢いは続く。怒りを込めた声音で命令すると、ザーイはさしたる反論もなく円卓についた。李苑は彼の前に料理を選り分け、盛り付ける。そして木匙に一口分をすくって差し出した。
「はい。あーん」
 機械的に差し出されたその木匙に、ザーイは呆気に取られた。
 沈黙が流れる。
 その沈黙から一拍置いて、堪えきれなくなったかのようにジュラウンが大きく笑い出した。
 李苑は驚いて目を瞠る。紳士的で王様の鏡、と思っていたジュラウンの像が見事に崩れるほど、腹を抱えての笑いだ。李苑は怒りすら忘れてジュラウンを見つめた。ザーイもまた、困惑した表情で主君を見やる。
「な、なにをやりだすかと思えば……!」
 ジュラウンは苦しげに声を絞り出した。目尻に涙を溜めて、まだ笑う。李苑が心配になるほど笑い続ける。
「いや、あの、そこまで笑ってくれなくても」
 怒りなど笑い声に消されてしまい、どうでもいいような気になった。
 李苑はため息をついた。差し出していた木匙を置こうとしたが、気付いたザーイがその手を掴み、口に運ぶ。
「ぎゃあっ?」
「ぎゃあって、お前……」
 しっかりと飲み込んだザーイが呆れる。
 ジュラウンは幾らか立ち直ったようだ。だがまだ笑い止まず、椅子に腰掛けたまま肩を震わせている。
「なにするのよっ。ザーイ菌が移っちゃうじゃない!」
「しっつれいな奴だなっ」
「どっちが失礼だっていうのよ、ぎゃあやめてよ触るなーっ!」
 嫌がらせのように手を伸ばしてくるザーイから必死で逃げる。その様子を見て、ジュラウンがまた笑い出す。
「リ、リオン。そろそろ止めて下さらないと、酸欠になりそうなんですけど……!」
「だってこいつが!」
「こいつじゃなくて、ザーイ宰相と呼べ」
「あんたなんて、こそあど言葉で充分だー!」
 因みに「これ」「それ」「あれ」「どれ」だ。
 人に置き換えるとおかしい物が混じっているが、李苑は気にせず叫んだ。ジュラウンは再び机に突っ伏す。
「リオン、リオン」
 それからしばらくザーイとの攻防戦を繰り広げていた李苑だが、ジュラウンに招かれて近づいた。
「ザーイは手のかかる妹が欲しかったそうですから、あれは愛情表現ですよ。我慢してあげて下さいね」
 李苑がジュラウンの側にいくとようやく食事を摂り始めたザーイだが、ジュラウンの言葉に思い切りむせた。ゴホゴホと苦しげに咳き込んで水を求めたが、二人は気付かない。
「手のかかる妹ってなによ。私から見れば、向こうは妹離れできない、不出来な兄だ」
「あのな!」
 ようやく苦しさから解放されたのかザーイが叫ぶ。だが、李苑はもう相手にしない。李苑のために用意されていたであろう三つ目の椅子に腰掛ける。
「ま。それじゃあ、しばらく可愛い妹を演じてあげましょう」
「どこが可愛い妹だ。憎たらしい弟で充分だろう」
 忌々しそうな舌打ちが聞こえたが、李苑はもう気にしない。二人と一緒に食事を摂る。
 少し冷えた食事は、騒動で熱くなった体にはちょうど良かった。

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 褪せた月が天空を支配するその下を、サウスは歩いていた。
 王宮から続く街道は広く、しっかりと舗装されていて歩きやすい。彼の背後には少し遅れて響希と翠沙が続いている。
 振り返りたい衝動に駆られたが、サウスは外套を頭から被って前だけを見据えた。恐らくランルはどこからか見ている。明朝に発つ計画を少し早め、夜中に出てきたのだ。これ以上ランルの側にはいられない。振り返り、ランルの姿を認めた途端、王宮に戻ってしまいそうで怖かった。
 城から出るとき、門番はいなかった。
 意図的なものであるのは明白だ。おかげでサウスはなんの騒ぎも起こさず、静かに抜け出すことができたわけだ。長い間、軍関係で世話になった上司や友人に挨拶することもできず、荷物は肩にかかるだけ。寂しさは募るが、それが罪の代価ならば甘んじるしかない。
 足首で揺れる外套を見つめる。
 交わす言葉もなく、三人組は月光の下を歩き続けた。