第三章 【一】

 響希は地図を眺めながら唸り声をあげた。先ほどまでサウスが見ていた地図だ。近くで簡単な肉スープを温めていた翠沙が笑う。
「あまり馴染みのない文字だものね」
 地図には各国、広い範囲を版図として描かれている。重要な都も一緒に載っている地図で、旅人には欠かせない大きな街道も明記されている。そのどれもに名前が振られ、地図にも載っているのだが、響希には全く理解できない文字だった。
 文字ではなく記号にも思える。三角と直線で構成された文字だ。歴史書で見た楔形文字に酷似しているが、響希には判読できない。
「……日本語が通じるなら文字も日本語で統一しろってんだ」
 わがままな注文だ。聞いていた翠沙は楽しげに笑みを洩らした。
「厳密に言うとね、日本語じゃないの」
 響希は顔を上げた。
 宝珠で熾した火が翠沙の顔を照らしている。揺れる炎の影で、表情は憂えているようにも思える。
「こちらの世界の言葉。私たちには日本語に聞こえるんだけどね。もしアメリカ人やイギリス人が来ても、こちらの言葉は全て母国語に訳されて聞こえるはずよ」
「訳されて?」
「ええ。こちらの世界の人があちらに渡ったとしても、同じように訳されて聞こえるわ」
 そんな都合のいい話があるだろうか。
 翠沙を疑うわけではないが、にわかには信じ難い話だ。そんな思いを感じ取ったのか、翠沙は肩を竦める。
「声は空気の震動音。騙すことは簡単よ。でも、目に入って、そして相手と同じように書き取りする文字だけは便利さが働かないけれどね」
 途方もない話に響希は深いため息をついた。どのような仕組みになっているのか、眉を寄せて考えてみるが、考えるだけ無駄なのだろうと思う。
「それも宝珠の力なのか?」
「ええ。管理者たちが自国のため揮う力とは全く別の力よ。宝珠があるだけで世界に影響を与えているの。だから、失くすわけにはいかないのよ……」
 途中からやはり表情を暗くして、最後は囁くようだった。
 かき混ぜていた鍋が沸騰する。翠沙は火を調節して弱くした。ガラディア城から持ってきた香辛料をふりかけると、かなり食欲をそそられる匂いが立ち込める。だが、食べるにはもう少し待つようだ。
 響希は鍋の具合を確認してから再び地図を広げる。
 ガラディア。イフリート。セフダニア。
 三大国の所在地は分かるが、その他の小国となると分からない。苦労して国境線を見分けながら、名前は後回しで地形を覚えることに専念した方がいいなと思う。
「サウス。セフダニアまでは一週間強か?」
 ランルと共にセフダニアへ乗り込んだとき、少し遠回りをしてそれ位かかった。今回は馬車もなく歩きのみになるため、まだかかるだろう。周囲を見回って帰って来たサウスに問いかける。サウスは夕陽に瞳を細めていたが、問いかけに顔を上げるとかぶりを振った。
「全てを歩きで行くとなれば、まだかかる。途中で町にも寄らずに強行するというなら縮まるが」
「それはできない」
 こちらには翠沙がいる。武人として鍛えてきた響希やサウスに比べて、体力的にかなり負担がかかるはずだ。
 響希は語尾を強くして断言した。サウスが苦笑する。
「っと。そういえば、宿に泊まる金って、どうなってるんだ?」
 旅の仕度をしていたときにランルから大量の金貨を渡されていたが、価値が分からない。そのときは時間がなかったため、後で聞こうと思って忘れていた。
 翠沙が知っているかと彼女を見た響希だが、翠沙の表情は不安そうだ。おおよその価値は分かっても、確証はないのだろう。やはり現地人に聞くのが正解か、と響希は視線をサウスに向け直した。
 サウスは二人が座る場所に来ると、二人の間に入るようにして座り込んだ。腰に下げていた小さな袋を取り外して引っくり返す。揺らすと様々な色の硬貨が落ちてきた。
「札はないのか?」
 硬貨は全て同じ大きさだった。色が違うだけで、日本のように名称や柄が刻まれていることもない。道端に落ちていそうなものばかりだ。
「札ってなんだ?」
 サウスの問いに眉を寄せたものの、翠沙が直ぐに補足する。
「恐らくないわね。私がいた頃とそう変わっていないみたい」
 その声音には少しだけ安堵が込められていた。怪訝な顔をするサウスに札の説明をしながら、響希は翠沙の隣に座って硬貨を並べていく。全部で六色。赤青緑と色が並ぶ中で、一枚だけ目を惹く硬貨があった。単色ではなく、光の加減で幾重にも色を浮かばせる、なんとも不思議な硬貨だ。
 思わず拾い上げた響希は掲げる。
 気付いた翠沙が覗き込みながら笑みを零した。
「この中で最も高い価値の硬貨よ。国が取引に使う硬貨なの。ランル、そんなものまで持たせたのね」
「ふうん」
 響希は指で虹色の硬貨を宙に弾いた。キラキラと光を反射しながら落ちてくる硬貨を無造作に掴み取る。
「で、路銀は足りるのか?」
「もちろんよ。ざっと数えただけで、どんなに贅沢な宿に泊まっても1年は困らないくらいの金額があるわ」
「近衛長を務めていた頃の、俺の給金も含んでいるからな」
「近衛ってのはずいぶんと羽振りがいいもんだな」
 サウスは肩を竦めてみせた。
「クル単位の硬貨だけ覚えておけば、ひとまず旅には困らない」
 眉を寄せる響希を手招きし、端に並べた三種類の硬貨を指した。緑、青、赤の硬貨だ。他の硬貨に比べて量も多い。最も使用頻度が高いということなのだろう。
 響希は眉を寄せながら情報を頭に叩き込んだ。ひとまず街に着いたら様子を見ながら覚えて行こうと考える。一度全ての硬貨をひとまとめにし、再び袋に仕舞いこむ。
「資金には困らない。だが……」
 サウスは肩を竦めて周囲を眺めた。
 現在はまだガラディア内だが、何もない荒野に囲まれている。事情を考慮して、人通りの多い街道を避けるように歩いてきたのだ。領内とはいえ外れまで来ると寂しいものがある。
 ひとまずイフリートへは向かっているのだが、かなりの遠回りだと言えた。
 サウスの顔は広く知れ渡っているため、仕方のないことだ。騒ぎに発展するよりはましだろう。そう思っていたのだが、見事に荒野ばかりだと笑いが込み上げてくる。資金があっても、使う場所がなければ仕方ない。
「地図もあまり意味はなかったな」
 いい加減煮詰まってきたスープをお椀によそい、響希は呟いた。
 ランルから渡された地図は最新版だろう。だが、そんな地図すら役に立たない。セフダニアが及ぼした影響は、国境付近の大地を大幅に変えるような規模だ。集落が丸々消し飛んだらしい。広がるのは荒野ばかり。
 サウスは複雑な表情で、いま進んできた道を振り返って眺めていた。