第三章 【二】

 李苑は虚ろな瞳で空を仰いだ。
「うぁっつ……」
 零れる声にも力がない。
 体を包む倦怠感にため息が出る。唯一、僅かに温度の低い廊下の壁に頬をつけて涼しさを求める。衆目など気にしない。
 絶えず吹く風が運ぶ砂。そのせいで少し汚れている壁だが、先ほどまで李苑が必死に磨いていたため、その範囲だけ綺麗になっていた。
 そうして李苑が瞳を閉ざそうとしたとき、険のある声が降りかかった。
「さぼってないでしっかり働きなさいよ!」
 視線の先にはファイナンがいた。王宮で働くようになってから知り合った少女だ。同室で同世代という要素も手伝い、今や友人と呼べる間柄になっている。
 ファイナンは少し褪せた黄金の髪をしっかりと結い上げ、水を張ったたらいに両手を入れ、雑巾を洗っている。睨みつける瞳は結構な力を含んだものだ。
「ちょっと休まないー?」
「なにを言ってるの。午後には神官さまたちがここを通られるのよ? 休む暇なんてないわよ!」
 銀細工の髪留めをきらめかせ、ファイナンは休みなく働く。洗ったばかりの雑巾で、いまだ手付かずの汚れた壁を拭きだした。
 李苑はため息をついて体を起こした。相変わらずやる気は皆無だが、ファイナンだけ働かせているわけにはいかない。先ほどまでファイナンが雑巾を洗っていたたらいに手を入れると、生温い液体が手を包み込んだ。不快な感覚に李苑は顔をしかめた。
 現在、李苑は外回りの雑用へと業務を移されていた。厨房担当は、新たに入った別の働き手が配属された。そうすると李苑とジュラウンたちを繋ぐ公式な関係は何もない。そのため李苑が彼らに会う機会はめっきり減っていた。ジュラウンたちが李苑たちの働く場所に顔を出すことは皆無に等しく、李苑たちが彼らの場所に足を運ぶことも、禁じられている。こうして初めて、彼らは本来ならば自分の手が届かない所にいる者たちなのだと、改めて実感した。
 李苑はジュラウンたちの顔を思い出しながら何度目かのため息を零す。
 彼らに会おうとすれば、夜に人目を忍んで侵入していかなければいけない。恐らく李苑が警備員に見つかっても、ジュラウンたちは表立って助けようとはしないだろう。そんなことをすれば不自然だ。そうすると李苑は慎重にならざるを得なくなる。だが、今は同室にファイナンという存在があるため、一人で外へ出ることも厳しい。必ずファイナンが気付き、どこへ行くのかと不審な顔をされる。
 そんな訳で李苑はジュラウンたちに会えないまま、数日を過ごして来た。響希たちの情報を聞くこともできなくなった。これならばザーイの軽口を我慢してでも食事運びを続けるべきだったか、と今更ながら後悔が募る。
 李苑はムーッと下唇を尖らせて雑巾を乱暴に洗った。
 今はなにも考えない方がよさそうだ。王宮の外廊を綺麗にしろとの命令の実行中だ。これが思いのほか大変なのだ。道場でいつもやっていたから掃除くらい平気と高を括っていた李苑だが、室内で陽射しも遮断され、風通しも良かった道場と比べてここは半分外だ。幾ら天井があるとはいえ、イフリートの強い陽射しは横から入ってきて体力を奪う。まだイフリートの気候に慣れていない李苑にとって、辛い環境だった。
 ――熱射病になるかも。
 李苑は重い頭を感じながらそう思う。目が回りそうになりながら周囲を眺める。
 朝早くから命じられて、以来この作業にかかりっきりだが、掃除はようやく半分が終わろうとするところだ。あと半分だけ、と思えばいいのか、あと半分も、と嫌になればいいのか。
 もちろん李苑だけが命じられたわけではなく、手が空いている使用人たち全員にその任が与えられたのだが。
「いつまでも怠けてないで働きなさい!」
 頭上からの怒声に李苑は首を竦めた。恐る恐る仰ぐとファイナンがいた。どうやらもう壁を磨き終えたようだ。視線を壁に移すと、彼女が掃除した壁だけが綺麗な乳白色を取り戻していた。
 思わず拍手を送ると険しい瞳で睨まれた。
「貴方が動かないから私が余計に働く羽目になるんじゃないの!」
 腰に両手を当てて凄んでくる。ファイナンは美人の部類に入るため、そうして凄まれると迫力がある。響希とは違った恐ろしさだ。
「これ以上動いたら私死ぬって。絶対」
「人間これくらいじゃ死にません!」
 背中を叩かれた李苑は慌てて持ち場に向かう。ファイナンは中々強烈な性格の持ち主でもある。
 李苑は持ち場に向かいながらそっとファイナンを振り返り窺った。
 悪意はないと分かっているが、やりにくいと思う。
 額に浮いた汗を拭って顔をしかめる。汚れた壁に雑巾をあてる。そうして力を込めて拭き始めたとき、直ぐ隣に気配を感じた。思わず怯んだが、それはファイナンだったと知る。先ほど雑巾を洗いに行ったばかりだというのに、もう戻ったようだ。その素早さに感心する。
 李苑の何倍もの速さでファイナンは拭き掃除を終えていく。李苑がふと他の働き手たちを見ると、ファイナンに及ばないまでも、彼らもあくせくと働いていた。李苑だけがのんびりと手に雑巾を持って休憩している。
(くそう。体調が戻ってたら、私だってさぁ)
 李苑は熱いため息を吐き出しながら重たい腕を持ちあげた。
 そうこうしているうちに、命じられていた範囲の廊下の掃除が終わった。
 太陽はちょうど真上にある。午後までに終わらせろという命令を、何とか遂行できたわけだ。
「ああ、もう、本当に疲れた……」
「だらしないわねぇ」
 掃除し終えたばかりの廊下に座り込む李苑に、ファイナンは苦笑を向けた。命じられた分は終わったため、ファイナンの表情は緩やかに綻んでいた。次の仕事を命じられるまで、しばしの休息だ。掃除用具を片付ける他の仲間に礼を言いながら、二人は廊下に残る。
「ところで、なんで今更ここの掃除なわけ? いつも放ったらかしじゃん」
 李苑たち使用人たちが住む場所とは遠く離れ、ジュラウンたちが住まう公宮に近い廊下。いつもはここに立ち入ることは許されていない。一定以上の身分を持つ者しか歩けない廊下だ。それに加え、この廊下は王宮全体の中でも最も砂漠に近い位置にあるため、砂を含む風が絶えず吹きつけている。掃除したばかりの廊下だが、端には既に砂が溜まろうとしていた。幾ら掃除しても果てがないのだ。
 廊下に溜まった砂は定期的に掃き出すだけで終わっていたが、今回に限ってなぜ壁まで磨かなければいけないのか。体力の限界を感じながら李苑は問いかけた。
「神官さまたちがここを通られる、と説明を受けたでしょう? 彼らには一切の穢れをつけてはいけないのよ」
 李苑には良く分からない説明だったが、特に興味もなかったので「ふうん」と相槌を打つだけにした。
「さ、食堂へ行きましょう。今日は私たちにもご馳走が出るはずよ」
「え……?」
 李苑は頬を引き攣らせた。
 ご馳走には興味があるが、暑さに参っていた李苑は食欲が湧かない。昼食を摂るよりも先に、木陰に行って涼みたい。だが力強いファイナンの腕に引きずられ、李苑は否を唱える暇もなく食堂に押し込められた。
 熱気立ちこめる食堂に、李苑は思わず呻く。
 昼時のためほぼ満席だ。厨房の熱気と人の熱気で、食堂は天然のサウナ状態になっていた。さまざまな匂いに刺激されて吐き気まで覚えそうだ。
 李苑は辟易した。
「あー、私もういい。お腹いっぱい。ファイナンだけで食べてきて」
「なに言ってるの。まだなにも食べてないじゃない」
 ファイナンは慣れた様子だ。李苑の言葉をいつもの軽口と受け取ったのか、強引に李苑の腕を取って中に入っていく。李苑には抵抗する気概もない。
 本気で死ぬかもしれない、と気弱なことをぼんやりと思った李苑だが、ちょうど人ごみの中に入ろうとする間際、かけられた声によって危機を回避できた。
「リオン。いま休憩時間か?」
 少年の声だった。
 ザーイよりも幼く、どこかあどけなさを残す顔立ちだ。
 振り返って見出したその姿に、李苑は瞳を大きく瞠る。呆気に取られるファイナンの腕を解き、李苑は暑さも忘れて彼の側に走り寄った。
「ガイナン皇子」
 前王の息子であり、ジュラウンの異母兄弟でもあるガイナンだった。
 ジュラウンが第六皇子であるのに対し、ガイナンは第八皇子。年齢も15歳と若く、李苑にとっては同年代のいい遊び友達だ。
 けれどそこは使用人たちが集まる専用の食堂。
 ガイナンが姿を現したことで、一瞬にして混乱のるつぼに陥った。
 慌てて平伏する者。平伏しようとして皿を落とす者。姿を見ようと押しかける者。ちょっとした喧騒になってしまう。
 気付いたガイナンは困ったように眉を寄せ、軽く皆を見渡して、落ち着くように片手を挙げる。そして李苑に視線を戻した。
「暇なら来るがいい。あに……少し、話がある」
 なにかを言いかけて言葉を変え、ガイナンは食堂に背を向ける。
 もともと熱気漂う食堂から逃げ出したいと思っていた李苑だったので否など唱えない。振り返り、やや呆然としているファイナンに謝ってからガイナンを追いかけた。
 ガイナンは既に食堂を出て、廊下を先に歩いている。振り返ることはしない。李苑は慌てて追いかけ、彼の隣に並んだ。
「君が来るなんて珍しいね。いつも中庭で会うだけなのに」
 少し前のできごとだ。
 ファイナンと同室になる前、夜中に部屋から抜け出した李苑は中庭で剣の練習をしていた。ガイナンとはそこで出会ったのだ。将来は軍人になってジュラウンの負担を減らしたいらしい。枝を剣の代わりにして素振りしていた李苑を見て、彼の方から話しかけてきた。
『女のくせに剣筋はいいようだな』
 と。
 当然、今までの王宮生活で結構なストレスを溜め込んでいた李苑は簡単に挑発に乗った。そのときはガイナンを皇子だなどと気付かず、全力で相手をした。結果は李苑の大勝だった。
 年下の少年とはいえ、身長はガイナンの方が高い。女と侮り、さらに自分より身長も低い李苑に負けたガイナンだが、素直に感心した。そしてそれ以来、二人は人知れず夜中に会って、剣の稽古に励んでいる。お陰で余計にジュラウンたちに会う機会は減ったのだが、李苑にとって剣の練習相手がいることは素直に嬉しいことだった。
「なぜそんなに離れて歩く」
 李苑がついてきていることを知ったガイナンは歩きながら振り返る。そして訝しげに瞳を細める。中庭で落ち合うときの李苑は躊躇いなく友達の距離に踏み込むのだが、今はどこかよそよそしく距離を取ってガイナンの後ろを歩いていた。
 問われた李苑は瞳を瞬かせ、次いで肩を竦めた。
 人目の少ない夜ならまだしも、人目の多い日中にガイナンと並んで歩く勇気はない。もしもザーイたちに報告などされたら卒倒するだろう。そして直ぐにも李苑は幽閉生活に逆戻りだ。そんな事態は御免被りたいのが李苑の本音だった。
 李苑はそんな本音を押し隠して別の言い訳を考える。
「私は使用人だし。君といるだけで会う人は頭下げるでしょ。それがなんかねぇ……」
 夜中は遠慮なく『ガイナン』と呼び捨てにしている李苑だが、さすがに辺りを憚っているのか名前を呼ぶことは遠慮する。
「私は構わない。だが気になるなら好きにすればいい。どうせあと少しで人の通りも絶えるだろう」
「いつも思うけどガ――君って言葉遣い変だよね。まだ15のくせになんでそんな悟ってるの」
「悟ってなどいない。私の周囲には堅苦しい男しかいなかったから自然とこうなっただけだ」
 ガイナンはどうやらいつもの中庭とは全く別の方向へ進んでいるようだった。
 王宮で暮らし始めて日が浅い李苑はどこへ向かっているのか分からず、迷子にならぬよう、必死で彼の後を追いかけていく。
 初めて脱出しようとしたとき、迷いに迷って死にかけたことは、まだ苦い思い出だ。ザーイが助けに入らなければ確実に死んでいただろう。
 しばらく無言で彼の後を追いかけていた李苑は、さきほど掃除したばかりの廊下に戻ったことに気付いた。
 砂漠から吹きつける風に絶えず晒される廊下。
 けれどいまは風が全く動かず、李苑が辟易していた砂すら廊下には入り込んでいなかった。
 李苑は瞳を軽く瞠らせて視線を移す。
 ちょうど廊下の石畳と地面との境目に、キラキラと光を反射する幕が張られていた。掃除していたときにはなかったものだ。
「これ、なに?」
 もしかしてそろそろイフリート全体が凍る時間だからこのような現象が起きているのだろうか。
 李苑は推測しながら近づいた。
 まるでオーロラのように色を変える光の幕。
 手を伸ばそうとした李苑は止められた。
「ジュラウン王が宝珠で張った結界だ。そろそろ式が始まり、ここを神官たちが通る。彼らに、砂漠からの穢れを寄せてはいけない」
 手を掴まれたまま、李苑はガイナンを見た。ファイナンも同じようなことを言っていたと思い出す。少し残念に思いながら光幕に視線を戻し、触れることは諦める。
 ガイナンは李苑が完全に幕から離れてから手を放した。
「うーん。暑さはそんなでもなくなったかな」
 結界に護られた廊下は、そこだけ温度が違うように感じられた。どうやら日射もかなり軽減されているようだ。
「で、私はどこに連れてかれるわけ?」
 暑さが気にならなくなると、次は空腹が気になってくる。だが食堂はもう遠い。頻繁な出入りがあった食堂に比べ、この辺りまで来ると無人である。
 李苑は廊下を歩きながら、奥から音楽が流れてくることを聴き取った。
 誰かがピアノを弾いているのかもしれない。とても静かで大人しい旋律だ。弦が弾かれるような音が続く。切ない音色。
「……リオンが、兄上の知り合いだとは知らなかった」
「え?」
 呟かれた声は、音楽に集中していた李苑に届かなかった。
 問い返そうとしたとき、歩く先に新たな建物が見えた。
 白亜の宮殿。
 見上げれば大きな屋根に空が切り取られ、扉脇の二本柱には細かい唐草模様が描かれている。柱は屋根付近まで伸びていた。柱と柱の間に取り付けられた丸いガラス窓は様々な光に反射していて、李苑は瞳を細める。
 反射光が強くて詳細が見えない。
「すっごい。教会? 十字架はないけど。ああ、神殿って言った方がいいのかな」
「そう。ここは神殿だ。王宮で最も神聖な場所だ」
 石だけではない。屋根付近には透明な水晶が敷き詰められて光の屈折を起こしている。本来なら純白に見える神殿の一部の壁は虹色に変化して揺れている。一瞬ごとに色を変えるそれは、夜ならば本当のオーロラのように見えるかもしれない。
「あの光は今の時間にしか見ることができない」
 まるで李苑の胸中を読み取ったようにガイナンが教えた。
 神殿近くまで来た李苑は神殿を振り仰ぎ、ガイナンの言葉も耳に入らないまま呆けたように見続ける。ガイナンも付き合って立ち止まり、少し楽しげに説明した。
「光の入射角がとても重要なんだ。こんなふうに晴れた日の、今の時間帯だけしか見られない。このイフリートを囲む結界の揺れがここにまで及ぶんだ」
 李苑は視線をガイナンに移した。
 彼が言う結界とは、いつか見た炎を指すのだろう。ガラディアには川が流れていたように、なにかを媒介として具現化させた結界だ。
 李苑は、この世界が自分の近くを大幅に超えたもので構成されているような気がして、改めて感嘆した。他の国にもこのように綺麗なものがあるのだろうか。見て見たい、と単純に思う。
「今日の天気も、宝珠によるものだ」
 最後だけ。一瞬、掠めるように自嘲して見せたガイナンの瞳は酷く大人びて見えて、李苑は瞳を瞬かせた。
 ガイナンの視線が神殿の入口に向けられる。
 李苑も誘われるように入口に視線を移し、思わず「げ」と唸った。
 大きな入口から神殿の内部は見えない。暗い闇しか見えないその場所から吐き出された人物は、李苑がいま最も会いたくないと思っていたザーイだった。