第三章 【三】

 イフリートの強い陽射しを浴びて輝く炎のごとき髪。
 サウスに見出した炎とは全く異なり、ザーイの髪は、明るく燃えるようだ。髪を切る時間もないほど忙しいと零していたとおり、ザーイの髪は中途半端に伸ばされている。いつもは軽くターバンでまとめ、それでも忙しさにいつの間にかだらしなくずり落ちてしまっているのだが、今は丁寧にまとめ上げられていた。そんな彼の姿を初めて見た李苑は、別人かと思う間もなく勢いよくガイナンを振り返る。
「ちょっとガイナン! 私を売る気っ?」
「は?」
 脈絡のない言葉にガイナンは目を瞠った。掴みかかられて面食らう。だが李苑はガイナンの反応になど構っていられず、ザーイから遠ざからなければと慌てて走り出そうとした。王族であるガイナンと一緒にいるところを見られれば、一体何を言われるか。逃げるが勝ちだ。
「え」
 脇をすり抜けようとした李苑にガイナンは驚いた。
 ――李苑の悲鳴が高く響く。
 反射的に、ガイナンが李苑の足を引っ掛けて転ばせたのだ。高い位置での足払いだったため、李苑は持ち直そうとする反対の足も出すことができず、顔面から倒れる結果となった。
 ガイナンが慌てて足を引っ込める。
 李苑は素早く起き上がった。
「なにすんのよっ?」
「つい」
「ついで済むかあ!」
 服や髪に砂をつけて、涙目になって李苑は叫ぶ。
 無理に手をついた拍子に右手首を挫いてしまったらしく、徐々に痛みが湧き上がる。
「なんていうかもう、ついてない!」
「すまない。条件反射だったんだ。連れてくるように言われてたのに、いきなり逃げ出そうとするから……」
 ガイナンは本当に申し訳なさそうに頭を下げる。その様を見ながら李苑の胸に苦いものが込み上げた。眉を寄せ、小さな声で「もう……」とため息を零す。
 砂地に座り込んだまま唇を尖らせ、捻った手首に触れて――頭を掴まれた。
「ガイナン皇子。申し訳ない。あとは私が。あなたは早くお席に」
「けれど私は、兄上に頼」
「私も王命により参じました。この者は私が引き取ります。あなたは式が始まる前に席についていなければいけない。さぁ、お早く。時間がありません」
 ガイナンは真意をはかるような視線をザーイに向けた。ザーイは李苑を掴んだまま彼の瞳を見返す。嘘は欠片も含んでいない。やがてガイナンは納得したのか、微かに頷いて神殿に向かった。式が始まるまで時間がないというのは本当だった。神殿から零れる音楽が最終章を奏でている。
 ガイナンは最後、李苑に気遣わしげな視線を向けつつ背中を向ける。正直李苑は彼を掴んで引き止めたかったが、ザーイに頭を掴まれている状態ではそれも叶わぬ夢だった。下唇を噛みながら、彼の姿が神殿に入るまでを見つめる。
「さぁてと」
「いたっ、いたたたたたたたたっ。ちょっと!」
 ガイナンの姿が視界から消えた途端、頭を掴む手に力が加えられた。その締めつけに李苑は悲鳴を上げる。訴えても無駄だとは悟っている。実力で排除しようと、両手でザーイの腕を掴んだが敵わない。全力で抵抗しても、彼は片手だけで李苑を軽々押さえられるのだ。
「あれほど目立つなと、念押ししてたっていうのに!」
「目立ってない! ガイナンと会ってるのは夜だけだし! だいたい、ガイナンから近づいてきたんだからね!」
「近づける状況にいたお前が悪い」
「だって! なんにも知らないで、どうやって避ければいいのよ!」
 知っていれば避けようとしたかもしれないのに。
 知っていても普通に接していたかもしれないとの思いはひとまず隠し、だからこの失態はなにも教えようとしなかったザーイが悪い、と李苑は指を突きつけた。
 ザーイは眉間の皺を深くしながらも手を外す。
 李苑はようやく息をついて立ち上がった。
「今日限りでお前は下働き、クビだ」
「え、ええっ!?」
 李苑は目を丸くした。ちょっと待って、いくらなんでもそれは横暴だ、と李苑は睨みつけたがザーイは全く動じない。涼しい顔で神殿に向かう。
「私いやだよ! また閉じ込めるつもりなのっ?」
 叫んだけれど、相手にしてもらなかった。
「そんなことしたらまた逃げ出してやるからね――聞いてるの!?」
 だが、どんなに叫ぼうとザーイは振り返らない。そのまま神殿に歩いていく。その後ろ姿は遠い。
 李苑は悔しさに両手を握り締めた。挫いた右手が酷く痛む。自分という存在はそれほど軽いものなのかと、涙が込み上げる。
(いっそのこと、大声で泣き出してやろうか)
 堪えきれない涙に、考えを実行に移そうとしたとき、ようやくザーイが振り返った。いつまでも追いかけてこない李苑を不思議に思ったのだろう。訝しげな表情で振り返った彼だが、全く動いていない李苑に呆れ、次いで驚く。
「な、なにも泣くことないだろうっ?」
 ザーイは慌てて李苑のもとに駆け戻った。離れた距離が瞬く間に埋まる。涙目で睨みつけられて狼狽する。
「いやだって言ってるじゃん!」
 肩を怒らせて訴えると、感情のまま涙がさらに浮かぶ。睨みつけられたザーイは酷く情けない顔をした。
「分かった。分かったから。そんなに下働きが好きなら」
「誰がそんなこと言ってるのよー!?」
 李苑は怒り心頭のまま泣き出した。ザーイはなぜ怒られたのか分からないように首を傾げるが、その様子がさらなる怒りを誘う。泣き出した李苑をどうしたらいいのか分からず、その手をただ彷徨わせている。女性に関しては慣れているザーイでも、こと李苑になると経験値など役立たない。あらゆる意味でこれまで相手にしてきた女性と違う。
「どうしろっていうんだよっ?」
 ついにザーイは叫ぶが、李苑はもう何を訴える気も起きなかった。なにを言っても無駄だと悟る。乱暴に涙を拭う。なぜこの国にとどまるつもりになったのだろうと思い直す。下働きとして外に出た瞬間、響希たちの元へ戻れば良かったのだ。結果的にそれがジュラウンたちを欺く行動だとしても、それがなんだというのだろう。自分にとって大切な者は響希と翠沙だったはずだ。
 心底からこの国に見切りをつけて踵を返そうとしたとき、目の前で膝をつく気配がした。
 李苑は顔を上げて瞳を瞠る。
 素早く伸びてきた腕に硬直する。
 肩を掴まれ、後頭部を引き寄せられ、李苑の瞳はちょうどザーイの鎖骨あたりに押し付けられる。一転して闇の世界に李苑は混乱した。腰に回された腕は強く、抱きしめられていると悟る。だがなぜなのか。理由が全く分からない。
 あまりにも予想できなかったザーイの行動に、李苑は思わず全てを忘れた。
 しばらく黙ったまま抱き締められる。イフリートの熱気に包まれていたが、不思議と不快ではない。やがて李苑は静かに解放された。ザーイはまるで壊れ物を扱うように、恐る恐る腕を放し、李苑を覗き込む。李苑の涙など、とうに乾いている。
 目線の高さを合わせるザーイの瞳を、李苑はただ見返した。
 覗き込んでくるザーイの瞳はまるで、叱られた子どもが母親の顔色を窺うかのようなものだった。
 李苑は思わず指を突きつけて叫んでいた。
「ザーイ、お兄ちゃんだ!」
 とつぜん間近で叫ばれて、ザーイは面食らう。
 だが李苑は構わず笑顔を見せた。ようやく胸のつかえが消えたようにすっきりしていた。
 とつぜん泣き出した妹をどう扱ったらいいのか分からず、泣き止んで欲しいのにその方法が分からず、ただ抱き潰して涙を止めようとする不器用な兄。
 そんな認識が、李苑の中に生まれていた。
 イフリート脱出の思いなどすっかり消えていた。李苑は悟りを開いたように満面の笑顔で頷く。
「もう、仕方ないなぁ。そういうわけなら許してあげるよ」
 肝心な説明をすっ飛ばしている李苑の心境の変化など、ザーイには当然ながら分からない。怪訝な顔で李苑を見つめる。だが李苑は構わない。まだ膝をついたままのザーイの肩をぽんぽんと叩く。
「ザーイって女の人と付き合ったことないでしょう」
「はぁ?」
 ザーイはますます怪訝な視線を李苑に向けるが、やはり李苑は構わなかった。上機嫌のままザーイに微笑みかけて胸を張る。
「でも、なにげに絶対たらしよね」
 李苑は殴られた。
「ちょっとっ?」
 ザーイは無言で立ち上がり、膝の砂を払い落とす。
 殴られた李苑は頭を押さえた。涙目で抗議するが、もうザーイは動揺しない。慰めなどもってのほかだ。
「なんか今、猛烈に腹が立った」
「図星で怒るなんて大人気ない証拠じゃないか! っと、そうそう、怒るな怒るな私。ザーイはただ不器用な」
 自分に言い聞かせるように声に出した李苑は再び殴られて。
 李苑は『妹』に徹しようとしたことも忘れ、元気よくザーイに掴みかかった。