第三章 【四】

 結構な遠回りをしたが、李苑はザーイに連れられ、イフリートで最も神聖だとされる国立神殿に足を踏み入れていた。
「国葬?」
 荘厳な雰囲気に相応しく、皆は微かに瞳を伏せて粛々と進んでいく。ガイナンを先に行かせた通り、式まで時間がない。人通りはまばらだ。ザーイに気付いて軽く腰を折る者もいたが、ほとんど誰もザーイたちに気付かぬまま席に着いていく。
 李苑は自分が場違いに思えた。だがザーイが迷いなく進むため取り残されるわけにもいかず、覚悟を決めるように喉を鳴らして追いかける。一度決めてしまえば臆することはない。滅多にない経験だと思うことにして、辺りを遠慮なく観察する。
 落ち着きのない李苑の頭をザーイが押さえつけた。
「そう。イフリートだけではなく、世界規模での葬式が行われる」
 セフダニアの事件で亡くなった者たちに、世界中の人々が瞑想を捧げる。ガラディアも例外ではない。
 李苑は薄青い光に包まれた聖堂を見上げた。無言のまま瞳を細める。
 ガラディアではランルの両親が亡くなった。セフダニアではサウスの弟が消えた。特別親しいわけではないが、一度目にした者たちがこの世界のどこにもいないのだと思えば心が騒いだ。
「聞けばお前も参加したがるだろうと、ジュンが特別に許した。だから、騒ぎは起こすなよ?」
 周囲は息苦しいほどの静寂に包まれていた。参列者たちの末席に着きながら二人は囁き交わす。吐息に紛れるほど小さな会話だが、それすら響いてしまいそうで、落ち着かない。
 李苑は唇を引き結んで頷いた。
 辺りは顔も知らぬ大人たちばかりだ。下働きとして親しんだ者たちは、神殿に入ることも出来ないだろう。李苑だけがジュラウンの知り合いということで許されている。
 李苑は顔を動かさないまま視線だけでガイナンを捜した。けれど先に入った彼を捜すことは難しい。神殿内は人で埋め尽くされていた。王族が座るだろう場所を探してみるが、今いる位置からそこまではかなり遠い。人の頭に遮られて見通せない。
 李苑はガイナン捜しを諦めてため息をついた。視線を脇に逸らす。
 赤い絨毯が敷かれた通路。その両脇に長椅子が整然と並べられており、李苑は入口に最も近い末席に案内されていた。その列にはザーイしかいない。膝の上で両手を握り締めながら、李苑は慣れない空気に緊張する。近所の教会へ遊び半分で出かけたこともあったが、この神殿内に満ちる空気は教会とは全く違っていた。誰かに上から見下ろされているようだ。圧される空気に息がつまる。
「ザーイはここにいるの?」
「まぁ……そうするしかないだろうな。戻るにはもう時間がねぇし、とりあえず、お前の監視も兼ねている」
 ザーイは軽く口の端だけで笑った。
 最後の台詞には唇を尖らせた李苑だが、知り合いがそばにいる事実は心強く、安心した。そっと息を吐いて背筋を伸ばす。
 目の前には高い帽子を被った男性陣。横長の椅子に腰かけ、李苑は一段下がった後ろの椅子に腰掛けている。横列を覗いたが、李苑とザーイ以外にはいないようだ。前を向いてひたすら時間を待つ男性たちは、背後に李苑が座ったと知らない。気配で気付く者はいたかもしれない。だが誰も振り向かない。沈黙が痛い。
 あまりに長い静寂に李苑が堪りかねた頃、神殿全体に、涼やかな鈴の音が大量に響き渡った。
 大音量だった。しかし耳を塞ぐほど不快には感じられない。どこから響いてるのだろうと首を振りかけたが、隣から「じっとしていろ」と注意を受けた。李苑は大人しく視線を前に戻す。
 鈴の音が消えかける頃、次いで金属同士が擦れあって奏でる音が響き渡った。一定間隔ごとに、シャランと鳴らされる。
 李苑は振り返りたかったが我慢する。脳裏に錫杖が浮かぶ。テレビで、僧侶や修行者たちが持ち歩く杖だ。先端に幾つもの金環が取り付けられ、地面を強く叩くことで音を生む。邪気を祓う。
 音に次いで、背後から大勢の気配が近づいてきた。さやさやと衣擦れの音が生まれる。李苑は落ち着かなく視線を彷徨わせたが、誰も動かないため、やはり振り返ることは諦める。ここでザーイと喧嘩になるわけにはいかない。
 衣擦れの音はゆっくりと近づいてきて、やがて李苑はその姿を見ることができた。赤い絨毯を踏みしめるのは神官たち。青い法衣をまとい、二列になって進んでいく。彼らの胸には白い十字架が描かれていた。ここにもキリストはいるのだろうかと、李苑は別のことに首を傾げてしまう。
 神官たちは分厚い本を胸に抱き、高い帽子を被って進んでいく。法衣の下からはやはり青い、絹のような布が床を引きずりながら進んでいく。
 誰も踏まないのかなと、やはり李苑は妙なところへ意識を飛ばす。
 この神官たちのために廊下の掃除を命じられたのだ。そして、穢れを寄せないためジュラウンが宝珠で結界を張った。彼らが通った後は清冽な空気が漂っていた。李苑は自分が、静かな湖の側に佇んでいるような気がした。彼らは本当に人間なんだろうかと、つい背伸びをして見ようとしてしまう。
 あいにく前に座る男性の背が高く、李苑が幾ら伸び縮みしようが、神官たちを見ることはできなかった。隣から呆れたように「なにをしている」と聞かれ、踏んだり蹴ったりだ。李苑は咳払いして座り直す。
 やがて神官たちは所定の位置に整列したらしく、音楽が流れてきた。
 神殿の外で聞こえていた音楽だった。
 ザンッと音を立てて、全員が立ち上がった。
 李苑も慌てて立ち上がる。だが、皆が立つと背の低い李苑は埋もれてしまい、息が詰まる。周囲の様子は全く分からない。早々に飽きそうな雰囲気に李苑はため息を堪える。
 そのときだ。
『巫女よ。彼らに永遠の安息を与え、彼らを絶えざる光もて照らし給え』
 神官たちの声だった。一息も乱れぬ正確さで唱和された。
 始まりの一節は神殿内にゆっくりと浸透していく。
 李苑は瞳を見開いてその言葉を受け止めた。そして、それらが持つ響きに俯いた。
「……ミサだ」
 小さく呟いた李苑を、ザーイは首を傾げて見下ろした。
 だが李苑は気付かない。
 落とした視線をゆっくりと上げる。神官の声が李苑を包み、世界から李苑だけを切り取ってしまったかのようだった。李苑は自分の鼓動を聞きながら前を見た。男たちの背に阻まれていた視界だが、まるで彼らが消えてしまったかのような錯覚に陥った。
 全てを超えて、神殿の中央に並ぶ神官たちが視える。祈りの歌が聴こえる。彼らの声に唱和する、翠沙の声が聴こえる。
 クリスマスにいつも歌ってもらった賛美歌。
 意味は違うけれど、ここにいる者たちからは同じ気配が感じられる。胸がつまって切なくなる。声を上げて泣き喚いてしまいたい。
 宝珠の暴走によって犠牲となった者たちの鎮魂を願う祈り。
 けれど李苑は、翠沙の声と重なって聴こえた祈りに、事故で儚くなった両親を思い出していた。
 クリスマスイブに、脇見運転で車線を外れた車と、正面衝突。即死だった。加害者の男は半身不随となり障害が残った。今も病院でリハビリを続けている。何度か李苑を訪ねてきたようだが、李苑は一度も会っていなかった。
 彼は生きている。私の両親は死んでしまったのに。
(なんで、こんなこと思い出してるんだろう)
 李苑はどこか麻痺した感覚のまま、疑問を浮かべた。
 凍らせた感情。深く眠らせた。怒りも悲しみも、全て克服したはずだった。
 神官たちの声が宥めるように触れていく。
 翠沙の歌を、両親のための鎮魂として聞いていたためかもしれない。このときに両親を思い出したのは。
『世を去りし全ての魂を、地獄の罰と、深き淵より救い出し、獅子の口から解き放ち給え』
 何度も何度も翠沙が歌った鎮魂。
 最も李苑が祈りを込めた歌声。どうか彼らの魂に安らかな眠りを、と。
 それらが、翠沙以外の響きで心の中に入り込もうとしている。なにも知らない異界の神官たちが、李苑の哀しみを感じて宥めようとしている。旋律だけをなぞる。大丈夫、もう悲しまなくてもいい、彼らの魂は至上の楽園に招かれたのだから、と。見透かしたように傷痕を撫でていく。李苑を眠らせて高らかに李苑の哀しみを謳い上げる。
『李苑。いま、お母さんたちがね』
 蒼白な顔で道場に飛び込んできたのは叔母だった。病院からの電話は、道場にいる李苑には届かなかった。なにが起きたのか分からないまま李苑は叔母の車に乗せられ、病院に連れて行かれた。両親の亡骸と対面した。
 真っ白な顔で、真っ白なシーツに包まれて、真っ白な寝台に横たわる二人が誰なのか分からない。信じられないのではない。本当に誰なのか分からない。叔母が泣く意味も、分からなかった。
「忘れてなんて、ない」
 ザーイがこちらを見たのが分かった。
 神殿を包むように紡がれる神官たちの声が耳障りだった。
 琴線に触れる祈りの歌。
 けれど、翠沙の声ではない。
 加害者の男に会わなかったのは、響希と翠沙が止めたからだった。彼女たちはいつも正しい。だって、謝罪の言葉が紡がれた瞬間、殺していただろうから。
 ここイフリートに響希と翠沙はいない。
 祈りの歌を反響させていた神殿のステンドグラスが、凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。