第三章 【五】

「ねえ響希、もし私が間違った所に進もうとしたらどうする?」
 謎かけのような問いかけに、響希は黙って翠沙を見た。
 あまり足にはまとわりつかない、しっかりした布地で誂えた服を身につけ。日焼けしないように頭から厚めのローブを被っている。覗く緑柱石は煌いていて、響希は肩を竦める。
「間違いは後にならないと分からない。止めようがないさ」
「正論ね」
 クスクスと楽しそうに笑う翠沙を奇妙に見つめた。
 一体何を考えているのか。李苑とは違った意味で翠沙は侮れない。
「では李苑が間違った所に進もうとしたらどうする?」
 先程と同じ答えを返される事は望んでいないのだろう。
 敢えて問いかける翠沙を、今度は訝るように見やった。響希の視線を受けて翠沙は、先程と違う瞳を煌かせている。
「あいつは潰してでも止まらないだろう、勝手に自爆してもダメージは少ない。放っておく」
 今度こそ翠沙は声を上げて笑い出した。
 響希は苦々しく舌打ちして、被るローブを引き下げた。
 そろそろガラディアの国境なのか、先程から微かにせせらぎが聞こえてきている。国を護る結界だと、ランルは言っていた。終着点が存在しない川。
 先程から黙って進むサウスは、もうかなり前方を歩いていた。
 荒れてはいたが道はあったので、迷う事は無いだろう。どうせ同じ方向に進むのだし、ここいらは他に道など無くて一本道だと聞いていた。
「今日……だっけか」
 ランルを思い出していた響希はポツリと呟いた。
 先程まで響希を振り返り、後ろ向きに歩いていた翠沙は再び振り返る。何を言っているのか分からなかったのか、小首を少し傾げて。
「国葬」
 短く伝えればようやく、翠沙は「ああ」と得心がいったように声を上げた。その瞳に僅か憐憫を含ませて、今歩いてきた道を眺めやる。
 既に、その方向に城は見えない。幾つもの街を越えて遥か遠くまで歩いてきた。
「具体的に何をするんだ?」
「……ミサ」
 遠くを見るように、呟いた翠沙を響希は見つめた。目を細め、その言葉に李苑を思い出す。
 典型的な日本人のくせに、外国様式を好んで知りたがる。両親健在だった頃はそれでも他の者達と大して変わらない存在だったのだが。自分の護り手となる両親を失って、李苑はそれまでと雰囲気を変えたのだ。
「今回の事件では、あまりにも沢山の人間が死んでしまったから……きっと、ガラディアだけではなくて世界中で執り行われるのでしょうね」
 悲痛な光を瞳に乗せて、翠沙は前方を見据えた。
 既にサウスの影は小さくなっている。何を考えているのか、彼は城を出てから全く言葉を交わさない。それが本来の彼のスタイルなのか、それとも今の状態が変わっているのかは分からないが。妙な気分だった。
 翠沙は一歩一歩、踏みしめるようにして歩き出しながら歌を口ずさむ。
 荒れた風に掻き消されそうなほど細い声。それは不思議な旋律を持って、空へと消えていく。
 前を進むサウスが少し立ち止まったような気もしたが、響希が顔を上げた時にはまた先程と変わらぬように歩いていた。
 毎年李苑にせがまれている歌を、翠沙はユックリ歌いだす。伴奏も何もなくても、彼女の声はそれだけで訴えかける響きを含んでいた。
 そう言えばあの宝石にも吹き込んで送っていたなと、響希は思い出した。
 随分前にイフリートから送られてきた宝石。
 それはテープレコーダーのような機能を持っていて、李苑からの伝言を運んできた。無事だとは分かっていても、能天気なあの声を聞くと怒りが湧いてきてどうしようもない。
 翠沙は笑いながらこの歌を吹き込み送り返していたっけ、と過去に意識を飛ばす。
 ガラディアを包み込んで流れる川へと近づくと、不自然なほど清涼な空気が漂ってきた。
 宝珠の力の残滓。
 微かだがそれを感じ取る事の出来る自分に気付き、響希は瞳を細めた。無意識のうちに手が求めるのは胸の宝珠で、それに触れると安堵が湧く。以前はそのような事もなかったのに。
 次第に欠くことが出来なくなっている状況に湧き上がる恐れは本能によるものか。一体何が正しいのだろう。
 サウスは既に川の前で立ち止まっていて、流れを見やりながら響希たちの到着を待っていた。乾燥して埃臭い空気が水分を含んで流れていく。
「これはどうやって渡るんだ?」
 上流と下流を窺い見たが、橋なるものは存在していなかった。川の流れは緩やかだが底は深い。以前ランルと共に渡った時の事を考えれば、響希の背を軽く越すだろう。
 舟があればいいのだが、周辺の集落はどこも廃れていて、そのような存在も無さそうだった。
 もしかして橋のある場所まで歩くのかとうんざり思っていれば、サウスが一歩踏み出した。
 彼が動くと同時に響希は胸の宝珠が震えたことに気付き、共鳴を起こしているのだと悟る。サウスは、何らかの力を引き出しているのだろう。
 ――それはいいが、近くにある宝珠が力を発揮すれば引き摺られるっていうのは厄介だな。
 片手で宝珠を握ると熱かった。
 意識を凝らすとサウスへと向かう力の流れが見える。このまま何もしないでいればサウスの宝珠の力と結合して増大し、瞬間的に膨れ上がるのだろう。
 そうなればどうなるのだろう。セフダニアのように闇を引きずり出すのか。
 ふと湧き上がった興味だったが、宝珠の力に圧迫されていた息が楽になった事に気付いて隣を見た。直ぐ傍に翠沙が並んでいて、力の方向を定めている。
「……引き摺られないで」
 どこまでも惹きつけられる緑柱石。
 彼女の手が自分の力を押さえ込んでるのだと気付いたその時。
 サウスが定めた力はガラディアの結界を打ち壊し、氷による道を外まで繋いで完了させた。

* * *

「皇女」
 微かに揺らいだ体に気付き、直ぐ傍に控えていたカルミナ二妃が声を飛ばす。
 その事に我に返り、ランルはハッとして持ち直した。巨大な神殿に内包された重臣たちや神官たち、そして将軍たち。全ての意識がこちらへと向いている。
 気を取り直して居住まいを正した。
 神官たちの祈りの声はまだ続いている。ランルは再び瞳を閉じて、他の者達と同様に祈りを捧げ続けようとしたが。
 ……腹が立つわね。
 胸で燻る憤りはおさまらない。
 サウスたちが出発してからもう随分と経つ。
 先程感じた喪失感は、ガラディアの結界の一部の欠損。それを為したのは誰か。
 言われなくても感じられる。結界に触れた宝珠の力。
 間違いなくサウスだろう。
 ……あの結界を出れば、あとはもう自分には感知できない。感傷的になっているのだろうか。過去のものとするには、思い出はまだ鮮やか過ぎて。
 ランルは表情を改めた。
 彼らはガラディアを発ったのだ。