第三章 【六】

 真っ白な部屋で、真っ白な寝台で、真っ白な顔で。
 本当は暗い部屋に蝋燭が灯されていたけれど、私には全てが真っ白に見えていた。
 目の前に横たわるのが誰か、分からなかった。認めたくない気持ちで分からないんじゃない。本当に誰なのか、分からない。
 だって、横たわるのは命の抜け殻。ちょっとへこんだ頭部と、左側が大きく抉れた胴体と、やっぱり半分ほど無くなってしまった右腕。下半身があるであろう場所は何も無い事を示すように、掛けられている布団がふくらみを見せない。包帯でぐるぐるに巻かれ、人の形は保っていたけれど。
 それが誰なのか聞かされたって、それは自分が覚えている彼らとはあまりにかけ離れていたから。
「李苑ちゃん……」
 病院まで連れてきてくれた叔母の手が、肩に触れた。
 重みに見上げると、ハンカチを目に当てた叔母が震えていた。抑えきれない涙が彼女の頬を濡らしていて、こちらの肩にまで落ちて濡らす。
「兄さん、義姉さん……っ」
 気丈な叔母が泣く姿を、李苑は初めて見た。同時に胸の奥から強い衝動が湧き起こる。それを外に出したくなくて、いけないと思っていても。衝動は否応なく暴れ出そうとする。
 胸を押さえ、唇を噛み締め、必死でその衝動を殺そうとした。
 そうしながら李苑は再び寝台を見る。
 医師たちが出来る限り綺麗にしてくれたのだろう。でも、いくら綺麗な包帯を巻いていて人の形を保とうとしていても。あの包帯を取れば、そこには醜いたくさんの縫合の跡と抉れた肉塊が見出せる筈だ。
「なんで、クリスマスイブなんかに、こんな……っ」
 叔母は声を上げて泣き崩れる。寝台に近寄り、しゃがみ込み、大声で泣き出した。
 本当ならそれは李苑の役割なのに。実の娘である李苑はまだ涙も流していない。
 李苑は叔母の背中を見つめながら一歩、寝台へ近づいて視線を彷徨わせた。
 どこを見ても真っ白な空間。ここは、嫌だ。
 顔が歪むのが自分でも分かってしまい、でもそんな自分を認めたくなくて、目の前の叔母にも見せたくなくて、一刻も早く部屋から出てしまおうときびすを返した。
 響希の所へ行こう、翠沙は今日は出かけてる筈だから。毎年恒例のミサに呼ばれて、そのあとは会食するのだと言っていたから。響希の所はクリスマスも何も関係ないから、何もやってなくて、いつも通りの日常が待ってる筈だから。
 早く、ここから離れなくちゃ。ここは、イヤダ。
「……っ」
 暴れたがる感情を押さえつけ、泣き声を上げ続ける叔母に背中を向ける。
 霊安室から出ようと、走り出しかけた直後。
 閉じられていたドアが開かれて、李苑はそこに白衣の男性を見出した。
 ――どうして世界はこんなに真っ白なの。
 眼鏡をかけた、背の高い男性。部屋の中にいた李苑と叔母を認めた瞳は悲痛に歪められる。それが急に、癪に感じられて。
「出て行って!」
 李苑は怒鳴り声を上げていた。
 男性が驚いたように目を瞠る。一歩後退してなびいた白衣を引っつかみ、李苑は男性を突き押した。
「出て行って、出て行ってっ」
「李苑ちゃんっ?」
 まだ涙声だった叔母が驚いて駆け寄ってくる。
 肩に触れようとしたその手も叩き払い、李苑は叫び続ける。
「皆、みんな。今すぐ出て行ってよっ!」
 嫌だ、嫌だ、誰か助けて。私から何も奪わないで。連れて行かないで。こんなの嫌だ。
「お嬢さん、落ち着いて……」
「そうよ李苑ちゃん……」
 宥めようと伸びてくる二人の腕。壊れ物に触るように弱弱しいその腕は、李苑によって強く拒否される。
 痛みに二人が顔を顰めたのが見えた。見えたけれど李苑には感覚として入ってこなかった。
 いつの間にか流れていた涙を腕で拭い、荒い息を吐き出しながら二人を睨みつける。
 誰か――止めて。
「いいから早く出て行ってよぉ!」
 絶叫と沈黙。
 医師と叔母は顔を見合わせ、医師は困ったように、叔母は辛そうに、部屋から出て行こうとする。
 自分から言い出した事だったのに、二人がドアへ向かうと途端に更なる嗚咽が込み上げてきた。
 パタンと小さな音を立ててドアが閉められる。それを確認しないまま、今度は両親を振り返った。
 しゃくりあげ、滲む視界に白い包帯の塊が映り込む。
 小さくなった、私の両親。生きていない私の両親。こんなの私の両親じゃない。
 布団を掴み、李苑は力いっぱいそれを捲り上げた。布団の上から落ちる影。ゴトンと音を立てて床へと落下する。
 誰もいない。どこにもいない。いなくなってしまった。
「……っ」
 李苑は大声で泣き出した。

* * *

 パチリと目を開けると天井が高い。起き上がって部屋を見渡すと、丁度こちらに気付いたジュラウンと目が合った。寝台傍のサイドテーブルに腰掛け、両手を顎に当てながら何かを考え込んでいたようだ。李苑と目が合うと直ぐに立ち上がる。
 明るい若葉色の髪を揺らし、優雅な動作で彼はこちらに歩み寄る。
 ああそうか、彼の姿に安心するのは、翠沙と同じ雰囲気を持ってるからなんだ。
 そこにいるだけで癒しを与えてくれる存在。納得し、李苑は寝台を下りた。彼の到着を待たぬままに側を通り抜け、扉へと向かおうとした。すかさず腕を掴まれ止められる。
「――行かなきゃ」
「どこへですか?」
 彼を振り仰いで足を止めると、腕を掴まれていた手も外される。
「響希と翠沙のところ」
 淡々と続く声。
 いつもの李苑らしからぬ声音にジュラウンは少しだけ顔を顰める。李苑は一つの笑みも見せず、淡々と彼を見つめ続けた。
「申し訳ない事ではありますが、この部屋から貴方は出せません。国葬の最中にステンドグラスが割られて、議会は混乱を極めています。貴方はその中心に据えられてしまった」
 宝珠で、何よりも厳重に護っていた神殿で起こった変事。それが何の原因で起こった事かは分からないが、国の中心にいる者達は驚愕と共に訝りの念をジュラウンに覚えたのだ。
 そして……本来その場にいてはならない筈の、李苑という『下働き』の存在。
 ステンドグラスが割れた瞬間、李苑は絶叫した。いや、絶叫が上がってから割れたのかもしれないが、そんな違いはどうでもいい。
 聞く者全ての胸が締め付けられるような、全ての感情に訴えかけるようなその声は聖堂にいた全員の耳に入り、李苑は明るみへと出されたのだ。隣に付き添っていたザーイという存在も含めて。
 李苑は何も覚えていなかったけれど。この部屋から一歩出れば、李苑は直ぐに政治の中心へと巻き込まれていくだろう。
 『宝珠の巫女』という肩書きと共に。
「響希と翠沙に会いたい」
「それは、出来ません」
 現在ジュラウンの代わりにザーイが奔走している。出来るならジュラウンも同じく事態の収拾に努めたかったのだが、李苑を一人で残しておくのは危険だという判断で残ったのだ。
 万が一の事があった場合、宝珠を扱えるジュラウンが残った方がいいだろうと。
 実際、起きた途端に動こうとする李苑を見て、その判断は正しかったとジュラウンは内心で思った。もしザーイなら……再び喧嘩になる事請け合いだ。
「なら、響希と翠沙を、連れてきて」
「それも、出来ません」
 無表情を保っていた李苑の顔が唐突に歪んだ。
 大きな栗色の瞳が潤み、口元はシッカリ引き結ばれていて固く、下げられた両手は握られて真っ白くなっていく。
 そうして何かを言おうと口を開くのだが、彼女の声は紡がれない。唇が小さくわなないて、見上げるその顔は更に曇っていく。
「リオン、二人ならば今こちらに向かっていると、ガラディアから連絡が入っています。ですから、どうかそれまでは」
「嫌っ」
 李苑は言葉の意味も理解しようとはせず、ただ彼が紡ぐ言葉全てに反発したくて声を遮る。自分の行動を妨げようとする全てに腹が立っていた。
 友人二人の姿が脳裏に浮かぶと同時に、李苑は大声で泣き出した。
 叫べるだけ叫ぶように、腹の底から大きな声で。悲鳴のようにも響いたそれに、間近にいたジュラウンはギョッとして一歩後退した。
 李苑は顔を上げ、顔を歪めて泣き続ける。
 泣き止ませてくれる存在を求めるように、そのまま大声を張り上げてボロボロと涙を零して。
「どうして!? 会いたいって言ってるのにどうして会わせてくれないのっ? 響希も翠沙も、まだここにいるのに……!」
 全てを聞き取れた訳では無かったが、尋常ではないその様子と言葉にジュラウンが息を詰まらせる。
 胸がざわついた。とても危険な兆候を感じ取っているかのようだ。彼女が世界を渡った時、何者かに飲み込まれようとしていた時のように。
「リオン、落ち着いて……」
 宥めようと伸ばしたジュラウンの手を、李苑は無理やり振り払った。
 大声で何かを喚くが何を言っているのか分からない。嫌な予感ばかりが育っていって、心は焦ったが李苑にこちらの言う事を聞き入れる気はないようだった。自分が失敗したと悟らざるを得ない。
「リオンッ」
 手に力を込めて、彼女の肩を強く揺さぶると悲鳴が止まる。
 荒く息を繰り返して、小さくなるように両手をぎゅっと胸の前に組んで脇を締めて……涙に濡れた大きな瞳で睨まれた。
「……イフリートなんて、嫌い」
 その重みに、ジュラウンは息を呑んだ。

* * *

「どうなりましたか?」
「……宝珠の巫女以外、納得しないだろうあの連中は。認めなければお前が王の座から引き摺り落とされる」
「肯定、したんですね」
 険しい顔のままザーイは頷く。ジュラウンは唇を噛み締めた。
 李苑は今眠っていて、場所は彼女の隣の部屋だ。もし彼女が目を覚まし、何か異変があっても直ぐに駆けつけられるように。
「では……」
 ジュラウンが躊躇うように視線を彷徨わせ、ザーイも苦々しく腕を組む。
 しばし沈鬱な時間が流れて何の音もしなかった。
「ガラディアを発ってからまだ日は浅い。異世界から来たと言っても、他の奴らとそうそう変わらないんだろう?」
 耐え切れずに沈黙を破ったのはザーイの方。
 彼にはジュラウンの考えも知識も与えてある。これからジュラウンが何を為そうとしているのかも、全て。
 それを促すのが彼の役目。だから、ジュラウンは酷く悔しくて申し訳なく思うのだ。
 宝珠の巫女の存在さえなければ、彼にとっても自分にとっても、事態はもっといい方向に転がったに違いないのに。あの少女の存在が希望になったかもしれないのに。
「迷うなよ。今までだって、イフリートはそうして来たんだろうが」
 違う、そうではないと、否定したいのに。ジュラウンには出来ない。ますます宝珠を恨みたい気分だった。
「ごめんなさい……」
「謝ったって許してもらえそうにもないけどな」
 違います、これは貴方への謝罪なんです。
 心の中で何度もザーイに謝りながら、ジュラウンは弱弱しく首を振った。