第四章 【二】

 セフダニアの領内へ入ったのは数週間前。
 響希たちは現在、セフダニアの首都へと足を運んでいた。中央へ進むにつれて酷くなる惨状に眉を寄せている。
 隆起した大地に淀んだ空。風が不吉な温かさを孕んでいる。冬という季節を無視した気候に薄ら寒さを感じていた。建物は残されているものの、崩壊しそうに傾いたものばかりだ。
 サイが消えた直後はここまで荒廃していなかった。数週間前に見たセフダニア領地の端も、ここまで荒廃していない。首都へ向かうほど酷くなる。響希たちが日本へ戻っている間、まるで天災が襲ったかのようだ。
 腐臭が漂っている気がして外套を口許まで引き上げた響希は、後ろからついてくる翠沙を窺い見た。
 セフダニアに向かうと聞いた瞬間、翠沙は断固として反対した。しかしサウスも譲らず強行を通した。二人の間で見えない火花が散ったのは気のせいではないだろう。響希がサウスの言葉に賛成を唱えたところ、翠沙は驚愕して絶句した。そして渋々許したのだ。そのときから今までずっと、翠沙の顔には『不機嫌』の文字が張り付いている。静かに放たれる怒りが響希の背中を焼くようだ。
 響希は小さなため息を吐き出して唇を歪めた。翠沙が落ち着かないように周囲に視線をさまよわせているのを見て、確かにこのような惨状の場所に来たがる物好きはそうそういないだろう、と思う。
 隆起した大地に足を取られて、ときおり転びかける翠沙を助けようとするが、その度に持ちこたえられて「平気」と強情を通される。普段温厚なだけに、怒ったときの翠沙の宥め方など分からない。
「翠沙。嫌なら無理しなくてもいいんだぞ」
「無理だから止めましょうと言えば、貴方たちは引き返すの?」
 返された言葉に発言を悔やむ。絶句すると翠沙は一瞥し、そのまま響希の横をすり抜けた。
 サウスはかなり前を歩いている。翠沙を気遣う様子など欠片も見られず、自由奔放に歩いて行く。今の響希と翠沙のやり取りも聞こえていない。
 追いかけようと早足になる翠沙を、響希もまた慌てて追いかける。李苑と違った意味で厄介だったと、今更ながらに思い出した。融通が利かないのだ。
 危なっかしい足取りで進む翠沙を背後から見守り、更に前方を進むサウスを見やる。どいつもこいつも厄介な人種ばかりだと苛々が募る。これならまだ李苑が一緒にいた方が楽だったかもしれない。彼女独自の雰囲気で皆を巻き込み、翠沙も今ほどの不機嫌には陥らなかっただろう。響希はそう思ったが、思った瞬間否定した。彼女がいれば自分への被害が甚大だ。
 軽く舌打ちして、前方にそびえる城を見る。城を囲む森は隆起していても枯れてはいなかった。相変わらず、逞しい生命力で大地に根付いている。傍に湿地帯が広がるため空気も潤っている。ガラディアに劣らず水源豊かな国だ。
 森の入口ではサウスが振り返り、そこで響希たちを待っていた。
 ここまで他人の調子を考えてこなかった彼がなぜここで止まったのか、近づくに連れて響希はその理由を知った。
「宝珠での結界か?」
「ああ」
 城を囲む森を、さらに囲むようにして光の半円球が作られていた。
 追いついた翠沙が結界に視線を向けて嘆息する。その視線をサウスに向けた。
「評議会というのは世界の中心なのでしょう?」
「そうだが?」
 何を問われているのか分からないように、サウスは平然と返した。その答えは翠沙の納得がいくものではなかったらしい。翠沙は更に深いため息をつき、半眼を伏せる。
「宝珠以外に力を持つ者はないという話だったよな」
「ああ。だから、この結界さえ無事に越えれば見つからない。直接中でバッタリ出くわしたりしない限りな」
 翠沙が顔をしかめながらサウスを見上げる。
「評議会は、宝珠国を戒めるために作られた機関ではないの? そのように簡単に、彼らが張った結界を無効にしては意味がないわ」
 そこでようやく翠沙が何を言いたいのか悟り、サウスはバツが悪そうに顔をしかめた。
「仕方ないだろ。評議会の奴らだって善人ばかりではないんだ。色々、残しておいたら不味い物だって沢山ある」
 翠沙はもう何も言わなかった。沈黙の間に事を済ませてしまえと思ったのか、サウスは結界に腕を伸ばす。彼の胸元で宝珠が輝き、目の前で結界がかすかに揺らいだ。響希は彼の力に引きずられるようにして鳴動した自身の宝珠を宥めながら、結界に穴が開くのを見る。穴が修復されないうちに、三人は中へ移動した。
 宝珠を持つ者だけに許された特権。その特権を気軽に揮えぬよう、戒めの機関が評議会だというのなら、サウスの行為は決して褒められたものではない。何のための結界だか分からなくなってくる。
 翠沙を見ると顔色が悪かった。今にも倒れてしまいそうだ。
「大丈夫か?」
「何が?」
 尋ねると不機嫌そうに返された。響希は「いいや」とかぶりを振る。
 自分でも気付いていないのだろうか。それとも、まだ強情を張り続けるつもりなのか。
 結界内に入り、再び勝手に進み出したサウスを追いかける。
 響希もまた、ため息をつきながら二人を追いかけた。


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 かつての栄華を忘れたセフダニア城。それでもどこか荘厳だと感じるのは、人々に刻まれた過去の記憶がそう思わせている、錯覚なのだろうか。
 森を半ばまで進んだ三人は立ち止まり、セフダニア城を眺めていた。
 閑寂さが違和感を強調する。評議会から派遣されているはずの、監視兵の姿は見えない。この城だけが外界から切り離されたようだ。三人の間には奇妙な沈黙だけが流れ続けている。
「城内にはどこから?」
 まさか正面からは行かないだろうと問いかけると、彼は城との距離を測りながら何かを探す素振りを見せていた。不審に思ったものの追及はしない。翠沙を促しながら彼の後を追いかける。どうやら彼も李苑と同じく、一つのことをしながら別のことができないらしい。
「翠沙。本当に大丈夫なのか?」
「……ええ。心配しないで」
 結界内に入ってからというもの翠沙の体調は悪化の一途を辿っている。歩みも遅くなり、樹を支えとするように頼っている。その様子は以前、日本からガラディアへと渡った直後の翠沙を連想させた。あのときはサイが宝珠を揮い、ガラディア兵を操って李苑と響希を襲わせた。翠沙はその過程でサイの宝珠にあてられたらしい。
 もしかしたら宝珠が暴走したというこの場所にいるだけで、翠沙の体に何らかの負担がかかっているのかもしれない。
 翠沙の強情さとサウスの奔放さに苛立ちが増す。これ以上放っておけないと、響希は自分から折れることにした。翠沙に手を伸ばそうとした直後だ。
「あったぞ。ここから中に入れる」
 少しだけ弾んだサウスの声が響いた。
 振り返ると、木々の闇に紛れるように赤い髪が覗いていた。目を凝らすとサウスの嬉しげな様子が確認できる。
 直ぐさま翠沙がそちらへ歩こうとするのを止め、響希は強引に彼女を横抱きにした。翠沙の小さな悲鳴が上がる。
「響希? 私なら」
「いい加減にっ」
 苛立ち紛れに怒鳴りかけ、翠沙の顔を見て口を噤む。なぜ自分が我慢しなければならないのか、実に理不尽だった。それでも怒りを宥め、低い声で告げる。
「お前が何であっても、俺も李苑も構わないと言っておいただろう。話したくないのは構わないが、強情を張ってこちらに心配かけるような真似はやめろ」
 翠沙は双眸を瞠った。響希の言葉は本音だ。そして今、このまま翠沙が強情を通せば突き放そうとしている。そんなことは耐えられそうになかった。
 翠沙は顔を歪め、小さく謝る。響希の肩に片腕を回して大人しく支えて貰う。それだけで身を苛む痛みが和らいだ気がした。安堵の息をつく。響希から小さな笑みを向けられて、何とか微笑み返した。
 二人は待っていたサウスに近づいた。そこで、彼の足元に、人が一人通れそうな穴が空いていると知る。意図的に隠されていたのだろう。サウスによって動かされた岩には苔が生し、土に埋もれれば探しだすのは困難に思える。
 響希は何気なくその岩を見つめ、宝珠の気配がすることに気付いて眉を寄せた。宝珠に意識を寄せて岩を見つめ直すと、先ほどまで景色に埋もれていたことなど忘れたように、存在を主張している。まるでモノクロ写真に岩だけがカラーで紛れ込んでしまったかのようだ。そのような仕掛けが施されているということは、恐らくここは王家の者の緊急通路なのだろうと推測する。
「宝珠に慣れて来ると厄介だな」
 あまり気配に敏感すぎるというのも疲れるものだ。
 舌打ちする響希に翠沙は笑い、「そうね」と同意を返した。その笑みには先ほどまでの強情さは残っていなかった。生来の翠沙がいるだけだ。顔色が冴えないのは同じだが、もう倒れるまで無茶はしないだろう。響希は翠沙を下ろした。
「ここはどこに繋がってるんだ?」
「中で分岐して、色んなところに繋がっている。だが、ここを通ったのは一度だけだ。俺が知ってるのは、地下牢に続く通路のみ」
 使えねぇ奴だな、と呟く響希にサウスは苦い笑みを見せた。サイが反乱を起こしたときにこの通路を使わざるを得なくなったのだ。そこに思い至った響希は顔をしかめたが、サウスは気にするなと肩をすくめて先に穴の中へ滑り込んだ。続いて響希も身を投じる。残された翠沙の手を引いて下ろし、洞窟の中を確認した。
 暗い闇が満ちるなか、翠沙がすかさず宝珠による光を灯した。通路は天然の自然洞を利用したようだ。高さは2m程度で、少々圧迫感が強い。
 光が灯された刹那、翠沙の瞳が怯えを含んでいたように見えた響希だが、振り返った翠沙はいつもの翠沙だった。小さく微笑んで響希の腕を取る。
「行きましょう。評議会に見つかる前に」
 響希は腕を引かれながら、足を踏み出した。


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 慣れぬ政務に翻弄され、朝から晩まで走り回りながら毎日を過ごして来たランルは、琴線に触れた『それ』に頬を引き攣らせた。
「冗談じゃないわよこの忙しいときに!」
 大人しく食事をしていたランルの、突然の怒声。いったい何が彼女の気に障ったのかと給仕は驚いた。並べた食事とランルを見比べる。ランルは拳を震わせて宙を凝視していた。その視線を追った給仕だが、何もなかった。
 側使えのユーハは二人のそんな様子を観察したのち小さく息を吐いて、ランルに近づく。
「ランル様。いかがされましたか?」
 ランルは我に返ったように勢い良く振り返った。近くで給仕が恐縮しているのを悟ると慌ててかぶりを振る。
「貴方のことじゃないわ。宝珠のこと」
 給仕は怪訝な顔をしたものの、自分が怒られたわけではないと安心したのか胸を撫で下ろす。ランルはいまだ荒れ狂う内心を押し隠し、不自然ではない程度の笑みを作って彼を送り出した。部屋には昔からの側近であるユーハしかいなくなる。
 ランルは大きなため息をついた。
「セフダニアの結界が揺れたのよ。同じ宝珠による力でね」
 何とか平静になろうとしているランルの声に、ユーハは微かに瞳を瞠って「それは……」と呟いた。一拍置いて口を開く。
「評議会へは、どのように伝えましょうか?」
「評議会へですって……?」
 怒りにきらめく紫紺の双眸がユーハを振り返った。怯むことなく受け止めたユーハは「ええ」と頷く。その平淡さがランルから怒りを抜いていく。ユーハの穏やかな亜麻色の瞳はランルを落ち着かせ、小首を傾げるようにして微笑んだ。ランルは肩の力を抜いて椅子にもたれかかる。食欲など消え失せた。
「報告なんて要らないわよ。追及されるのは御免だもの。真っ直ぐカナンに向かうと思っていたのに……もう、国外にまで干渉してらんないわ。サウスの馬鹿!」
 セフダニア結界が揺らいだ。そのことに、結界の施工者が気付かないわけがない。忙しさに埋もれて彼らに対する不安を忘れていられたのに、こうしてまた突きつけられる。理不尽で不毛な怒りはどこにもぶつけられない。彼らのことをわざわざ評議会に報告することも馬鹿らしい。
 セフダニアを訪れた三人を、そうしてランルは見逃した。
 そしてもう一方の施工者、イフリート王のジュラウンにもサウスたちのことは伝わっていた。こちらもまた頭を抱えている。
「まさか舞い戻るなんて、思ってもみませんでしたね……」
「自覚がないと見える」
 場所はジュラウンの執務室だった。ザーイは苦々しいを通り越し、憎々しげに舌打ちする。机に組んだ両手に額を乗せていたジュラウンは苦笑した。顔を上げてザーイを見る。
「けれど、これでさらに、時間ができましたね」
 呑気な彼らにお礼を言わなければならないだろうか。
 皮肉な言葉にジュラウンは唇を歪める。ザーイは沈黙を返しただけだった。
 そんな彼の顔から視線を外し、ジュラウンは窓を見た。
 すでに腹は決まっている。こうまで邪魔をする者がいないということは、その道を取るべきだと、天が教えてくれているのかもしれない。
「こっちの時間はないけどな」
 ザーイの言葉を敏感に捉えたジュラウンは頷いた。
 ここ数日で暗殺未遂が増えていた。黒幕を決して悟らせない、鬱陶しいばかりの暗殺だ。ザーイの前に彼らは次々と死体へ姿を変えていったが、ジュラウンの体にその手がかかるのは時間の問題になってきた。
 イフリートで、宝珠を持つ者の宿命だ。
 ジュラウンは小さなため息をついて体内に意識を集中させた。胸元がにわかに熱くなり、やがて小さな丸い珠が輝きながら体から出てきた。若葉色にきらめくのはイフリートの至宝だった。砂漠の民たちが永遠に憧れる色彩だ。
「気は、進まないんですけどね」
「評議会へは報告しないだろう?」
「当然です」
 そうしてこちらでもまた、セフダニアへの侵入者たちは黙殺されることとなった。