第五章 【一】

 李苑は寝台に突っ伏すようにして瞳を閉じていた。
 体が鉛のように重い。指一本すら自分の意志で動かせず寝台に沈み込み、意識もあるのかないのか曖昧である。夢の中で現実を見ているような、そんな不確かな認識。
 そっと瞳を開いて李苑は溜息をついた。飛び込んでくるのは固定されて見慣れたイフリートの風景だけだ。
 自分の意志では何も出来なくて。何も出来ないなら私がここにいる意味はあるのかと考えてしまう。響希と翠沙に会う事だけが自分の存在意味ではない。王宮を自由に闊歩できるなら誰かとの交流も図ることができ、直接でも間接でも、小さな自分の力を生かして貰う事が可能だろうに。この場に閉じ込められていても、会うことが出来るのはジュラウンとザーイだけ。こちらの力など誰かに伝わる前に潰されてしまいそうだ。
 ああ、でもいつか――潰される力も積もっていったら、彼らを動かせるだろうか。そうなるようにここに居る事が、私の役目なのかもしれない。
「――冗談じゃないってのよ」
 思わず口に出して意識が回復した。
 ようやく本当の意味で目覚め、李苑はきょとんと瞬きをする。今まで感じていた想いは夢の中での事だったのかと首を傾げた。
「……あれ?」
 妙に自分の声がリアルに聞こえて、やはりこちらが現実かと納得した。先程までは夢の中であり、その中でも強く想っていた為、声に出ていたのだろう。寝言という奴だ。
「うわ、恥ずっ」
 李苑は顔を顰め、小さく吐き捨てると上体を起こした。腕に入る力は酷く弱い。
 それにしても夢の中でまであんな理不尽な思いをしていなければいけないなんて、と頬を膨らませてみたが、この部屋に見る者は誰もいない。
 緩慢な動作で寝台を下りると冷気が素足に絡みつき、李苑は寝台を覆う紗膜を捲ると小さく震えた。相変わらずイフリートの夜は寒いようだ。
 眠る前と変わらず何の変化も無い部屋。以前は窓から逃げられたのだが、今回の部屋はそれを危惧したのか窓も無かった。どこかへ出かけて帰ってくる部屋とするならいいのかもしれないが、一日中この同じ部屋で過ごしていると頭がおかしくなりそうだ。
「人間も日光浴びないと栄養作られないんだぞ、っと」
 寝台に腰掛け、先日のテスト勉強で復習した事柄を思い出してみた。今更だが懐かしい。実際テストが目の前に現われれば逃げ出すのだろうが、遠く離れた今はそれでもいいから変化が欲しいと願ってしまう。無い物ねだりである。
 大きく伸びをするとお腹が鳴り、李苑は顔を顰めてお腹をさすった。視線を巡らせるといつもの棚に食事が置かれていたが、食べる気持ちは湧かない。いつから絶食をしていたのだっけ、と思い出そうとするが思い出せなかった。どうでもいいかと肩を竦めて足を遊ばせる。
「二人の目の前でちゃぶ台返しとかしたら効果あるかな」
 呟きは本気であったが、イフリートにちゃぶ台なんて無いだろうと本気で考え本気で諦めた。
「暇ー、寒ーい、誰かこーい」
 冗談交じりに呟きながら弱く笑った。返事など無いことは分かっている。
 一人で使うには広すぎる部屋に、天蓋までついた寝台。手をついたら手首まで沈み込む柔らかさであり、イフリートでの価値はどうなっているのか分からない李苑にもそれは高価そうに思えた。何せここイフリートの夜は氷点下まで落ちるのだ。昼間は暑苦しくて見たくも無いのだが、夜ともなれば必需品だ。湿度はそれほど高くなく、それだけは助かっているが。
 李苑は一度弾むように寝台に腰を掛け直してから視線を移した。
 天蓋を支える柱には、人の目を意識して彫られたと思われる優美な装飾が施されている。その随所には小さく煌く宝石が埋め込まれて非常に高価そうである。
 最初こそその煌きに目を瞠った李苑だったが、直ぐに興味は失われた。他人に与えられた物よりも、自分で気に入り集めたビー玉やガラスの欠片などの方がよっぽど愛着が湧く。
 そういった意味で、この部屋には李苑が愛着を抱くような物は何も存在しなかった。
「――窓ぐらい付けろってのよ」
 囚人みたいじゃないか、と唇を尖らせてかぶりを振った。
「みたいじゃなくて、囚人そのもの。いつから犯罪者になったのよ私」
 神殿で国葬が行われ、響希と翠沙に会いたいと縋りついてから何日が経ったのだろう。このような部屋に一人で閉じ込められていると時間の感覚が無くなってくる。日付カウントで柱に傷でも刻んでおけば良かったなと、李苑は煌く柱を恨めしげに睨んだ。
 さんざん泣き喚いて暴れて、入ってくるジュラウンやザーイに当り散らして食事をすることも突っぱねて。
 もう涙は出尽くしたらしく流れてこない。少しでも反抗したくて絶食手段に訴えてみたが、既に後悔していた。理不尽な思いをしているのはこちらだというのに何故更に自分から苦しむ方法を取ってしまったのか。それでも一度やってしまったからには最後までやり通さなければ、という意地だけで、李苑は絶食を続けていたのだ。
 空腹感は峠を越えたらしいが、体力低下が著しかった。一日ごとに力が入らなくなっていく事が、実にリアルに分かってしまう。。緩慢に死へと向かっていく、そんな感覚。
 李苑はばたりと寝台に倒れた。仰向けになって両手を広げてみる。高い天蓋と、寝台を覆う薄い紗膜が更に小さな牢獄のよう。こんな豪華な寝台に憧れていた時期もあったけれど、幽閉の憂き目にあっても憧れを抱き続けるほど魅力は無かったようだ。
 寝台から落ちている足をばたばたと遊ばせ、暇だから腹筋でもしようかなとふと思う。
 以前ザーイが通っていた時には運動と称した実践訓練をさせてくれていたのだが、今の状態でそれを望むのは無謀だろう。
「ガイナンにも会ってないし、ファイナンにも会ってないし」
 セフダニアで出来た友人たちを思い浮かべる。きっと心配している事だろう。
 特に、ファイナンは李苑がジュラウン達と知り合いだなんて知らない筈だから尚更だ。
 李苑はふと全身の力を抜いて弛緩させると表情を強張らせた。
 ――こうして一人で大人しくしていると、嫌な事まで湧き上がってくるのだ。
 誰かが自分の頭を両手で挟み、そうして締め付けてくるような感覚。ぐしゃりと潰されてしまうのではないかという恐怖。
 嫌な想像だとは思ったが、一度湧いた恐怖や想像は簡単に薄れてくれない。
 李苑は唇を引き結んで横になった。膝を折って寝台に丸まり、両手を顔近くに引き寄せる。
 道場に自分一人を残し、買い物をしてくるからと出て行った両親。出かける際に彼らは笑顔を浮かべていたと思うのに、その表情は思い出せない。思い出そうとすると奈落に落とされるような感覚に襲われて、浮かんでくるのは白い部屋だけ。
 李苑は固く瞳を閉じた。
 イフリートは夜になったばかりなのだろうか。先程よりも気温が下がっている気がする。
 女性用の薄い衣服しか纏っていない為、李苑は肌寒さを覚えながらも動こうとはしなかった。布団の中に潜るために動くのすら面倒だった。
 強い眠りが押し寄せてくる。眠ってしまえば全てを忘れられるのだ、と李苑は誘惑のままに意識を閉ざそうとしたが、それを阻む音があった。無音の世界であったその部屋に、初めて外的な音が加えられた。
 ジュラウンかザーイが入ってきたのだろうか。
 李苑は押し寄せてくる眠りに意識を沈ませながらぼんやりと思う。数日前までは飛び掛かるようにして外へ出ようと躍起になっていたのだが、圧倒的な惨敗が何度も続くとその気力も無くなってくる。それとも空腹過ぎて動くなという本能なのだろうか。
 李苑は寝台に横になったまま、全く動こうとしなかった。
 部屋に入ってきた気配は静かな足音を立てながら寝台に近づき止まる。軽い溜息の気配。全く手を付けられていない食事を見たのだろう。
 そんな様子を脳裏に描きながら李苑は黙ったまま息を殺していた。
 自分から折れる気持ちは全く無い。静かな冷戦は向こう側が折れるまで続くのだ。
 先程の溜息から、入ってきたのはジュラウンだと分かる。彼なら、こちらが寝ていると知れば話しかけることも動かすこともしないだろう。李苑はそのまま瞳を閉じていた。
 毎日毎日、こちらの様子を伺いに訪れている事は知っていた。体力が無くなってきてからはいつも寝たふりを装っていたので、言葉を交わしたことは無い。
 今回もただの様子伺いだと信じて疑わなかった李苑は、寝台が軋んだ事に内心で首を傾げた。
「リオン」
 声を掛けられたが寝たふりを装う。早く出て行ってくれと願いながら瞳を閉ざし続けていると、大きな手が肩に触れた。
 一瞬にして仰向かされ、驚きに瞠ると目の前にジュラウンがいた。
 紗膜は再び閉められたらしく、寝台に洩れてくる光は非常に虚ろだ。その中に浮かび上がったジュラウンの表情は驚くほど剣呑で、李苑は表情を強張らせたまま彼を見つめた。
 この様子では李苑が寝たふりを装っていた事などとっくに看破していたに違いない。
 李苑は不機嫌に声を出そうとしたが、予想していなかったジュラウンの行動に絶句した。
 両肩を掴まれて寝台に押し付けられた李苑に、ジュラウンは身を屈めると口付けてきたのだ。