第五章 【三】

 寝台に肩を押さえつけられて口付けられる。あまり温度を感じさせない唇はただ単に触れるだけで終わったが、次には熱いものが割って入ろうとする。
 何かの間違いだと思った。
 その暴行は目の前の人物にあまりに不似合いで、怒りより先に李苑は口にした。
「ジュン、相手間違ってない? 私は李苑で側室じゃないよ?」
 単に彼は部屋を間違えたのだと思った。ジュラウンは王様であるし、そうであるなら側室の一人や二人は当たり前に持っているのだろうという偏見でもって李苑は告げる。
 組み伏せられ、更には薄い服を縛る腰紐を解こうとされていても、李苑は単純にそう考え、何の恨みも宿さぬ声を出す。
 身を沈めようとしていたジュラウンが体を起こし、李苑と視線が絡む。煌く緑柱石が困ったような光を宿すのを見て、李苑はやっぱり間違えたんだと笑顔を作る。どこを見ても非の打ち所のない彼が間違いを犯す姿を見るのは楽しいような気がする。
 笑顔を見せた李苑をどう思ったのか、ジュラウンは李苑の肩から手を外さぬまま見つめ続ける。ため息の様に零した。
「部屋を間違えてなどいませんよ」
 穏やかなその声に李苑はきょとんと目を瞠る。ジュラウンは苦笑を浮かべて再度李苑に口付けた。
「私には貴女が必要なのです」
 愛の告白のような台詞だった。けれどもそこに熱は含まれていない。肌を這おうとする手を掴み、李苑は訳が分からなくてジュラウンを見つめる。
 部屋を間違えていないと言うならどういう意味なのか。こちらを認識して口付けてくるのは何故なのか。
 李苑の思考は良く回っていなかった。強くなった彼の力に小さな悲鳴を上げる。押し留める李苑の手を払い、圧し掛かってくる重い体。混乱したまま李苑はジュラウンを押し返そうとしたが、弱っている体では力も満足に入らなかった。暴行というにはジュラウンの瞳は静か過ぎ、違和感を拭えない。信じたいという気持ちがどこかにあるのか、まだ状況が把握できない。
「悲鳴は上げても平気ですよ。ここには誰も来ませんから」
 首筋に顔を埋められ柔らかな髪が頬に触れる。首筋に走った小さな痛みに、少し呆然としていた李苑は現実に戻される。ようやく彼が本気なのだと悟った。
「冗談」
「じゃないですよ」
 慌てて逃れようとしたのだが、その時まで無防備過ぎた李苑は逃れられない。体の下でもがくと強い力でねじ伏せられ、今までジュラウンに抱いていた印象が一変する。翠沙に感じていた、聖母然とした安堵する雰囲気をジュラウンからも感じていたというのに――あれは自分の思い違いだったというのか。
 薄着でいたことが悔やまれた。
 死守しようとしたのだが、ジュラウンが力を込めると簡単に破れてしまう。イフリートの冷気は容赦なく李苑を包み込んで震えさせた。触れられた場所から伝わる熱は温かいのだが、それに縋るなど冗談ではない。
 李苑は投げ飛ばそうと試みたが、華奢に見えてもやはり男か、どんなに力を込めても効果は無かった。ジュラウンの腕は硬く李苑を抱き締める。体力不足もたたって強引に体を進められる。
「ちょ、ちょーっと待ってストップ嫌だ!」
 本気の焦りでも出てくる言葉に緊張感は無いのか、李苑はそれでも必死に叫ぶ。服を剥ぎ取られて露になった脇腹をなぞられ、それは悲鳴に変わった。
 次第に追い詰められていく状況に更なる混乱が訪れ、恐慌状態だ。
 響希と翠沙から引き離され、突然イフリートに引き寄せられた。そこから今まで軟禁状態であったというのに、今日になって突然強要される理由が分からない。ジュラウンがこちらに向けていた感情はこういった物では無かった筈だ。
 手首を強く掴み取られ、目の前に迫った美貌に息を呑んだ。
「ごめんなさいリオン」
「謝」
 謝るぐらいなら最初からやるな、という叫びは出なかった。ジュラウンの舌に絡み取られて潰される。
 撫で上げられて妙な寒気が背中を走る。息苦しいまま身を捩り、蹴り飛ばそうと思ったのだが事前に察知されて足を掴まれ止められる。膝を割られていよいよ危険意識が高まった。
 ――嫌だ。
 指を絡め取られ、圧し掛かる体に本能的な恐怖が浮かび上がる。芯から湧き上がってくる何かに体を乗っ取られて滅茶苦茶にされてしまいそうな焦燥。
 角度を変えて何度か迫る熱をそのまま享受しながら、李苑は体が震えた事に気がついた。
 そっと瞳を開けると視界が滲んでいる。間近には先程と同じくジュラウンが入り、けれどその表情は映らない。目の前で揺れる若葉色の髪が頬をくすぐって滑り落ちる。
「いや……」
 胸元に痺れるような痛みが広がって、呟く事でしか抵抗を示せない李苑からは涙が落ちる。それでも強引に進めようとしてくるジュラウンに、カッと全身が熱くなった。
「嫌だって言ってるでしょうっ、触らないでよ!」
「リオン」
 しばらく大人しくしていた李苑の突然の抵抗にジュラウンはしたたか殴られ顔を顰めたが、それだけだった。次には李苑の手を掴み取って重ね合わせ、腕一本で固定される。唯一の救いは宝珠を使おうとしない事か。純粋な宝珠の力では李苑を拘束できないと知っているからなのだが、李苑はそんな事に思考を回す余裕も無く睨みつける。
 屈辱に顔を真っ赤にさせて呼吸を荒くさせ、涙が浮かぶ瞳で睨みつける。
「どいて」
「そういう訳にはいきません」
 触れてくる指先。
「嫌だって言ってるじゃん!」
「嫌われても構いません」
 隙を作らない為か、決して離れない体。硬い腕は李苑の背中に回され、その強さにやはりジュラウンは男なのだと強く認識を改めて。
 自分の意志に関係なく触れてくる彼に、せめて罵声を浴びせようとしたのだが唇で封じられる。その合間に躊躇いが入ったように感じられる事も、李苑の怒りを増大させる原因だ。
「私は貴女を、イフリートの王として手に入れなければなりません」
 義務的な物言いに李苑はこれ以上無いほど強く奥歯をかみ締め、不穏な呟きを胸中で洩らす。素肌をまさぐられて唇を噛み締め、時折震えるように体を捻る。誰がジュラウンの良いようにさせるものかと思ってみるのだが、彼にとっては別に自分を好かせる必要は無いのだからこの抵抗も無意味なのかと悔し涙が浮かんでくる。
「い、やだ……っ!」
 時折嬌声に変わりそうになる声を必死で抑えてかぶりを振る。
 脳裏が真っ赤になった気分で苦しかった。
「嫌だ、嫌……っ、誰か……!」
 人に助けを求めるのは元々嫌いであった李苑だが、この時ばかりはそうも言っていられないと声を張り上げる。ジュラウンの手を止めるよう務めながら必死で扉に顔を向ける。
 閉じ込められてきた今までも何度か叫んだ事はあったが、誰も訪れる事は無かった。だから諦めるしかないのだと理解はしていても、素直に享受できる訳がない。
 泣き声のように高く、必死で助けを呼びながらもがく。
「……リオン」
「触らないでってば! 誰か……響希、翠沙!」
 彼女たちがここにいる訳がないのだが、それでも他に応えてくれる人物を知らないから。必死で彼女たちを呼び続ける。
 泣き叫びながら暴れ出した李苑を見下ろしてジュラウンは微かに瞳を伏せ、そして再び体を沈める。かかった負荷に李苑は一瞬ビクリと体を震わせて首を竦めた。
 ジュラウンは体の下に丸々収まってしまうくらい幼い李苑を抱きながらユックリと口付けを下ろしていき、李苑はおぞましいその感覚にきつく拳を握り締める。言葉を聞こうとしないその強引な態度に、もう時間稼ぎも出来ないのだと悟って唇を噛み締め、しゃくりあげるように大きく息をついた。
 次第に思考が混濁し始める。時折音を立てて肌を吸われ、小さな痛みが積もっていく。堕ちて行く意識と引き換えに、酷く凶暴な何かが浮かび上がるような気がした。
 ジュラウンの指が太腿を探り、下肢の一番熱い場所へと触れようとしたのを感じた刹那。
 最後の抵抗を込めて、李苑は叫んだ。
「……っ、ザーイ!」
 びくりとジュラウンが動きを止める。驚いたような瞳が李苑を捉え、李苑はしゃくりあげながらジュラウンを見上げる。
 けれどそれは一瞬だけで、ジュラウンは直ぐに表情を元へと戻すと、再び李苑へと覆い被さった。李苑はシーツを硬く握り締め、唇を引き結んで瞳を力いっぱい閉じ、耐えようと覚悟して。
 ――壊しかねないほど勢いをつけて、扉が開かれる大きな音が部屋に響いた。
 ジュラウンも李苑もそちらを振り返る。
 扉を開け放ち、全力疾走して来たのか苦しげな呼吸を繰り返し、言葉も出せずに入口に現れたザーイを凝視する。
 廊下に満ちた白光が静かに滑り込み、揺らめく炎の色を映えさせる。見慣れたその色に、李苑は信じられなくて瞳を瞠らせた。今まで響希と翠沙しか応えてくれる者はいなかったのだが、彼も応えてくれるのだろうかと、何故か先程とは違う涙が頬を濡らした。
 ジュラウンが体を起こした事で李苑も体を起こし、呆然とザーイを見ていると視線が合った。微かに寄せられた眉と、瞳に浮かぶ光が痛ましそうな表情を作ったに見えるのは気のせいだろうか。
 李苑は慌てて裸を隠そうとするのだが、纏えるような物は何も無かった。
 ザーイが呼吸を整えて曲げていた腰を伸ばし、視線をジュラウンへと移す。
「――事前、だよな?」
 李苑の顔から一瞬にして表情が消えた。胸をひやりとしたものが撫でて呼吸が止まる。喜びは消え去り、虚無が訪れた気がした。
 変わった李苑の気配には、近くにいたジュラウンのみが気付いたらしい。彼は微かに瞳を伏せて溜息を洩らす。
「事前ですよ。それで、何か?」
 ザーイは今宵の事柄を全て知っていたのだと、李苑の心に昏い闇が下りていく。瞳を瞠っていても何を映しているのか分からなくて、李苑は呆然としたまま寝台に座り込んでいた。
 ジュラウンがザーイから隠すように李苑の前へと出て、寝台を下りる。そうすると李苑の瞳には紗膜しか映らなくなって、声だけが脳裏を通り過ぎていくのだ。
「セフダニアの三人だ。評議会から苦情が来た」
「苦情?」
「誰がヘマしたんだかは知らないがな。見つかったらしい。肩書きと共に評議会が引き入れた」
 ザーイの声は硬く聞こえ、対するジュラウンの声も真剣味を帯びていく。苦々しげな舌打ちの音が李苑の意識を徐々に覚醒させていく。
「通信を見るときセリシアも隣にいた。俺の不注意だ。情報が渡ったな」
「ザーイ」
「……何だよ」
「――いえ、私が口出し出来る事ではありませんからね」
 物言いたげなジュラウンの表情にザーイは顔を顰め、ジュラウンは諦めるように溜息をつく。視線で先を促した。
「正確には理解してないが、引き入れられたのは二人で」
 何しろ、これを早くジュラウンに伝えなければいけないとして、情報を深く理解している時間も無かったのだ。
 困った事態だが焦ってもどうにもならない事。それでもザーイは理由を与えられて時間を惜しむように、飛び込んできた。
 考え込むように視線を落としていたジュラウンは、ザーイの言葉が途切れた事に気付いて顔を上げた。彼の視線はジュラウンではなく、その背後へと向けられている。
 ジュラウンもそちらを振り返り、軽く瞳を瞠らせた。
 いつの間にか、薄い掛け布だけを纏った李苑が近づいてきていた。
 背後を取られて焦ったけれど、李苑はジュラウンを害する目的で近寄ってきた訳では無いらしく、その場で止まる。幼い顔立ちは今、泣き腫らした事で真っ赤に崩れていた。
 李苑は二人の視線を受けてゆっくりと息を吸い込んだ。
「――出て行けお前らーーっ!!」
 ジュラウンとザーイは部屋から蹴り出される。
 ザーイは余程慌てていたのか扉を開けっ放しにしていたのだが、李苑は逃げる事を浮かばせることなく怒鳴りつけた。
 外に出るより、今は中へと閉じこもっていたかった。
 ジュラウンとザーイを部屋から追い出した李苑は、力いっぱい扉を閉めた。