第五章 【四】

 ふとした瞬間にも体を這うおぞましい感触が思い出される。体が震えて唇を噛み締め、李苑は残った感触を消すように自分の腕を抱いた。
 どこまで本気か分からないような小さな声で「ぎゃー」と棒読みに叫び、頭から布団を被って小さく丸まる。
 誰もいない部屋。
 昨夜ジュラウンとザーイを追い出してから泣きに泣いて警戒心を最大に発揮していたのだが、心労は大きかったのかいつの間にか眠っていた。目覚めた瞬間、自分が眠っている事実に気付いて李苑は跳ね起きたのだ。けれど昨夜と変わらぬ無人の部屋。深い安堵と叫び出したい孤独感に顔を顰めた。
 セフダニアでの事件が起こる前、李苑が使っていた部屋とは全く異なる部屋。
 窓も無く扉も開かず。唯一開く扉は備え付けの浴室へと繋がる扉。そこにも窓はなく、この場所は決して逃げ出せぬように造られた牢獄だった。
 目を楽しませる物は沢山用意されていたが、どれも李苑の心を惹くのには力に乏しい。
 李苑をこの部屋に住まわせる為だけに造られた、新たな宮。
 情報の供給源がない李苑は全く知らない事だが、この宮はジュラウンの命令によって急遽つくられた宮だった。
 李苑専用の部屋しかない宮。ジュラウンの私宮の直ぐ傍に建てられた宮。
「……どこまで本気だっていうのよ、全く」
 いつまでもこうしていても仕方ないと思うのだが、他にする事も無く李苑は呟いた。肌にはまだ彼の体温が染み付いている気がして唇を真一文字に引き結び、「うー」と唸り声を上げる。布団に押し付けた顔は酷く熱を帯びて目頭が熱くなる。
「いい加減にここから出しなさいよね……っ」
 昨日の弁明だってしてみせろ! と、布団を被って小さくなっていた李苑は叫ぶなり起き上がった。大きな枕を無造作に掴むと壁に叩き付けた。埃が舞い散り咳き込んだ。
「悔しい……」
 静寂の中にいると潰されてしまいそうで、自然と独り言は多くなる。体に良くない発散方法で何とか気を紛らわしつつ哀しみを消し、両手に視線を落として嘆息する。
 ――ふと、扉の外から聞こえてきた音に、李苑は弾かれたようにそちらへ視線を向けた。
 大勢の人の気配だ。
 ジュラウンでもザーイでもなく、聞こえる足音はもっと軽く――ジュラウンたち以外の者達が直ぐ傍に来ている。
 そう理解するなり李苑は表情を輝かせ、体にシーツを巻きつけながら寝台から飛び降りた。昨夜からそのまま眠っていた為、服も何も身につけていなかったのだ。
 ともかく、服を探している暇なんて無いとばかりに焦って巻きつけ、鬱陶しく裾をまくりながら扉に駆け寄る。
 何せ初めての希望だ。ジュラウンたちに何があったのかは分からないが、今この機会を逃したらもう次はない。何としてでも引き止めなければ。
 片手でシーツを掴み、もう片方の手を扉に伸ばして。
 次の瞬間、李苑は扉が簡単に開け放たれた事に目を瞠った。
 李苑はまだ扉に到達していない。扉は向こう側から開かれた。そして現れた外には大勢の女性たちが控えていて、目を瞠った李苑と同じように女性たちも目を瞠っていた。
「えーと」
 シーツを握り締めたまま、李苑は助けて貰う事も忘れて冷や汗を流した。
 ジュラウンたちが言うには、この扉には宝珠で開かないような力をかけているという事であったのに。だから李苑は、絶対に開かないだろうと思っていたのだ。ひとまず扉を殴るなり蹴るなりして自分の存在を向こう側に伝え、ジュラウンに不審を抱いて貰おうかと考えていたのだが。
「あの」
 言葉を探す李苑に、驚いた表情をしていた女性がふわりと微笑んだ。つられて李苑も笑う。愛想笑いに良く似ていた。
「お迎えに上がりましたわ。塞ぎ込んでいるかもしれないと窺っておりましたけれど、お元気そうで何よりです」
「……は?」
「さぁさぁ、お召し物を取り替えましょう」
 李苑の戸惑いも意に介さず、涼やかな衣擦れの音を立てながら入ってきた女性たちは李苑を取り囲んだ。一様に同じ笑顔を浮かべて取り囲まれ、李苑は予想もしていなかった事態に更に戸惑う。
「ちょ、ちょっと」
 シーツに手を掛けられ、引っ張られる。
 剥ぎ取られようとしているのだと気付いて必死でしがみ付く。けれど女性たちの手は四方八方から伸びてきて、李苑がなけなしの体力を振り絞っても勝てなかった。剥ぎ取られたシーツは遠くへと放られて。
 李苑は慌てて手を伸ばし、奪い返そうとしたのだが女性たちの壁に阻まれた。
「何するのっ」
「まぁ可愛らしい」
 眺め渡されてそんな事を言われ、更にはその女性の言葉に呼応して周囲も静かに笑うものだから李苑は顔は紅潮していく。
 女性たちの笑顔には、純粋なものが含まれているばかりではなくて、その嫌悪感に李苑は怒りを湧き立たせる。
「どいてよ!」
 周囲に群がる女性たちの壁を突破しようとしたのだが、あまり乱暴にする事も出来ないのでどうしても弱気になってしまう。それでも、李苑は睨みつけてそのまま上へと飛び跳ねた。
 女性たちが驚く声も聞き流し、直ぐ目の前にいた女性の肩に足をかけて更に遠くへと跳ねる。
 扉が開いていたのでそちらに逃げてしまおうかと思ったが、裸の状態で外に出るのは躊躇われた。
 李苑が天井近くに跳ね上がるよりも一拍遅れて女性たちの悲鳴があがり、李苑はそれらを全く気にせず寝台へと飛び込んだ。どうせここには余るほどシーツがあるのだ。一枚や二枚無くなった所で文句は言われまい。
 李苑は素早く一枚を引っ張り出すと、再び体に纏わせた。
 振り返ってみれば、扉付近で群がっていた女性たちが皆一様に観察しており、眉を寄せて困惑したように顔を見合わせていた。反抗期真っ只中であると言わんばかりに毛を逆立たせる李苑を扱いかねて目配せし合う。
 一体この人物たちは何なのか、女性たちが李苑を観察するように、李苑もまた彼女たちを怪訝に見やる。最初は通りすがりかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。もしかしたらジュラウンが彼女たちをここへと寄越したのだろうか。だから扉が開いたのだろうか。
 李苑は奥歯を噛み締めた。
「――ジュンは」
「王は貴女をお待ちしておりますわ」
 答えたのは最初に李苑と言葉を交わした女性。恐らくこの女性が指導者的立場なのだろう。他の女性たちと違い、李苑に困惑した顔を向ける事も無く微笑んで前に進み出る。随分と剛毅そうな女性である。
 李苑は彼女へと視線を固定し、眉を寄せた。ジュラウンが何の言葉も無くこのように大人数を送り込んで来るだろうか、と違和感が先に首をもたげる。
「嫌だよ、ジュンの所になんか行かないよ」
 唇を尖らせてそう言うと、女は微かに微笑みを強くして首を傾げた。困ったように眉が下がったが、どこか演技を感じさせるその仕草。
 李苑は唇を引き結んで視線を落とすと拳を握り締め、力なく背後の寝台に腰掛ける。シーツで体をくるみ、その合わせを前でしっかりと止めながら彼女たちを窺う。
 女官たちにも階級や所属級があるのだろうか。李苑が外に出る事を許されていた頃には見たことのない者達ばかりである。知っている働き手たちが全て顔代わりした訳でもないだろうから、やはり出身や身分などが関係しているのだろうなと興味なく思考を巡らせる。李苑も、宰相の推薦と言う事で随分と優遇されていたらしいから。
「ひとまずお召し物をお取替えいたしましょう」
 李苑が知っている働き手たちは一様に動きやすい服装を好んでいたのだが、目の前の女性たちは、動く事より飾る事を主としている服装だった。
 声と共に、周囲に控えていた女性たちが李苑に迫る。極上だと思われる、手触りの良さそうな服がその手に掲げられている。
 慌てて李苑は体に力をみなぎらせた。
「嫌!」
 伸びてきた手を振り払い、再び跳躍する。
 長いシーツは重く邪魔であったが、女たちは悲鳴を上げて逃げてくれる。彼女たちの肩を借りて、今度は寝台と扉の中央辺りへと降り立ち壁に背中をつけて。表情を強張らせたまま女性たちを睨みつけた。
「幾ら同じ女だからって、今ばっかりは絶対譲れないんだから!」
 ――これ以上他人に肌を触れさせてたまるものか。
 李苑は固く思って彼女たちを睨みつける。
 ジュラウンの感触がまだ残っているのに、本当に、冗談では無かった。けれど女性たちは誰もが李苑の希望を叶えてくれるつもりはなさそうで、困った顔はしているが強引に事を進めてしまおうとする気配が漂っている。動き難いシーツだけの李苑では直ぐに屈してしまうだろう。
「だ、大体ねぇっ、ジュンが忙しいっていうならザーイはどこ行ったのよ! ザーイを寄越してよザーイを! 貴方たちがザーイのお使いだっていう証拠も無いしね! こっちから折れてたまるもんか!」
 少しでも時間稼ぎになればと叫んだが、どうやら意味は無かったようだ。女性たちの視線が突き刺さり、李苑自身も後悔に視線を落とす。ザーイの名前を連呼すると、昨夜感じた昏い感情が蘇ってくる気がした。喉が音を立てて目頭が熱くなろうとする。扉から入り込んだ温い空気がジトリと汗を滲ませた。
「――巫女様」
 静かな声音に焦りが滲んだのは何故だろう。
 ひやりとした空気が流れた気がして視線を上げた李苑は、目の前に女性が膝をつく様を見た。
 かしずかれたような雰囲気に目を瞠り、女性が腕に纏う柔らかな生地が床に舞うまでを焼き付ける。細い髪の毛をしっかりと頭の上で纏め上げ、相応の地位にいるであろう彼女にヒタリと視線を合わせられた。李苑は呼吸を止めて、その仕草を受け入れる。
「巫女様がお心を置く方々はお二方だけだと理解しております。何しろ長い間、このように人の通わない部屋へと篭っておられたんですもの。巫女様が私どもに不審を抱くのは仕方ありませんわ」
「篭って……」
 確かにそれは正解であったが、それは自分の意志では無かった為に眉を寄せる。李苑は女性たちから視線を外して、妙な居心地の悪さに下唇を突き出した。
 李苑の前に膝をついた女性はその様子に軽い笑みを乗せる。
「これからは私どもにもお心をお掛け下さい。巫女様は誰にも縛られず自由を約束されております方なのですから」
 李苑は顔を顰めた。
 壁際に追い詰められ、目の前で膝を折られて縋られて。自由を約束された事など一度も無いよと心の中で毒づいた。
 不意に湧き上がる不快感に顔を顰めて奥歯を噛み締める。
「――ザーイとジュン……」
 どれだけ言葉を取り繕おうと、笑顔を乗せようと。この居心地の悪さは消えていかない。自分の言葉を探しながらポツリと洩れた名前は、幽閉という手段に及んだけれど真剣に護ろうとしてくれた二人の名前で。
「着替えなんてしないよ。どこにも行かないよ。私はここにいるの」
 弱々しく、けれど徐々に心を固めていきながら。李苑は眦に力を込めて目の前の女性を見つめた。
「私を呼びつけるなんて横柄な奴は響希だけで充分だ。用があるならあいつらが来ればいいのよ。昨日の一件も謝らせない内から私が下手に出てたまるもんか」
 迷いや闇が払えたかのように、心が妙に軽くなって李苑は唇を笑みに刻んだ。凝視してくる女性に負けぬように見つめ返し、おもむろに胸を張ってみる。少しでも譲歩する気持ちは綺麗に消えていた。
 女性が軽く瞳を伏せ、嘆息してかぶりを振り。柔らかな動作で立ち上がり、その表情を李苑へと向ける前に。
「――リオン」
 誰よりも心を震わすような響きの声に、李苑は瞳を瞠らせ勢い良く振り返った。
 立ち塞がる女性たちは李苑よりも背の高い者達ばかりである為、通常なら阻まれて確認する事は出来ない筈なのであるが。女性たちの隙間からその色と光を捉え、李苑はザーイの瞳に視線を奪われた。
 知らない者ばかりに寄られていたこの状況で、知っている者が現れた事は酷く安堵する事なのだろうか。
 李苑は胸を撫で下ろしながらそう思い、表情を綻ばせようとしたが強張った。脳裏には昨夜の一件が浮かんで怒りまでも思い出す。駆け寄ってこの状況から抜け出したかったが、足は床に張り付いたかのように動かなかった。
 目頭が熱くなった事を理解しながら、李苑はザーイが近づいて来るのを待つ。裏切られた絶望感は未だに胸に残り、そんな感情を向けなければいけないことが酷く哀しくて悔しくて、そして拳を握り締めるのだ。
 ジュラウンの姿もあるのだろうかと捜したが、どうやらこの場に来たのはザーイだけであるらしい。
「閣下」
 気付いた女性たちが次々と頭を下げ、その場にひれ伏した。ザーイはその様を軽く一瞥しただけで李苑へと視線を戻す。
「な、何しに来たのよ」
 女性たちの様子に唖然とした李苑であるが、ザーイに傍へと寄られて表情を強張らせる。先程まで彼を切望していたが、実際に目の前に現れたとなると話は別だった。
 現れたザーイは不機嫌な表情であり、もう一度女性たちを睥睨すると乱暴に李苑の腕を掴む。幾ら李苑が振り解こうともがいても無駄だった。
「何するのよっ」
「大人しくしていろ」
 やはり高圧的な物言いである。
 シーツ一枚の状態で暴れる訳にもいかず、李苑は悔しい思いを抱えたまま睨みつける。
 そんな睨みが通用しないという相手だという事は理解していたが、それでも悔しくて。けれど李苑の睨みを受けたザーイは、一瞬だけ、何故か怯んだような様子を見せた。
 予想と違ったその様子に思わず反発力を抜いた李苑であるが、その次にはもうザーイは表情を隠していて易々と抱え上げられる。
 李苑の悲鳴など意に介さず、まるで荷物の様に肩へと担がれた。
 一体どこへ連れて行こうというのか。李苑はザーイの肩で拳を握り締め、暴れてやろうかと思ったがシーツがずりかけ慌てて引っ張る。剥き出しの肩や足は不安定で、ザーイに触れようとする度に心臓が物凄い勢いで飛び跳ねる。
「お待ち下さい閣下! 巫女の用意は我らに一任されて」
「今すぐに巫女を傍に。王命である」
「ですから、お仕度を」
「全ては向こうで整えよう。退がれ」
 女性たちを振り返りもせず、ザーイは歩みを止めぬまま言い放つ。鋭利な声音に李苑は思わず目を瞠らせた。
 ザーイの肩越しに見る女性たちは誰もが悔しげに睨んでいて、その様に李苑は心が冷えた気がした。思わずザーイの首に手を回してしがみ付くと、背中にザーイの腕が回される。硬い腕ではあるけれど宿す体温は熱く、徐々に安堵しながら李苑は息を洩らす。
「……何が、起きてるの?」
 先程の話の流れでは、このままザーイに抱えられたままだとジュラウンのもとへと連れて行かれる事になる。
 しかし今更逃げ出すわけにも行かず、せめて状況を把握しようと問いかけた李苑は顔を顰めた。
 今まで閉じ込められていた宮で、ザーイに向けてひれ伏していた女性たちが次々と体を起こして李苑を見つめる。既に遠く離れてしまったその部屋の中、常人なら見える筈の無い距離を李苑は見通し。
 立ち上がった彼女たちの表情が全て――憎しみを宿している事に、李苑は眉を寄せた。