第五章 【五】

 憎しみが込められた昏い瞳。
 あの瞳を私は知っている。自分ではどうにも出来なくて、叫び出したいくらいの憤りを胸に抱えて、振り上げた拳をどこかへ振り下ろしたい時の瞳。
 ずっと昔、家に閉じこもっていた時、鏡の中にいた私と同じ瞳。
「あんまり力を入れられると苦しいんだが」
 耳元で聞こえた声に、李苑は目を瞠って意識を戻した。
 視線を向けるとザーイの瞳が直ぐ近くにある。知らないうち、ザーイの首に回す腕をきつくしていて予想以上の力が入っていたようだ。李苑は慌てて両手を放したが、背中をザーイに抱えられているので離れる事は出来なかった。落ちないように抱え直されて悲鳴を上げる。
「ちょ、下ろしてよ!」
 忘れていた心臓が早鐘を打ち始めた事に気付き、同時に全身がカッと熱くなった気がした。それらを悟られるのが嫌で叫ぶのだがザーイは聞き入れない。耳元で叫ばれて煩かったのか、僅かに眉を寄せて李苑を窺う。
「さっきまであれ程俺の事呼んでおきながら何が」
「な、何が!?」
 李苑の声が引っくり返った。一体どこからどこまで聞かれていたのか、先程までの情景が凄まじい勢いで李苑の脳裏を逆走する。
 向けられたザーイの視線は静かで真剣で、てっきり笑われるんだと思っていた李苑は言葉に詰まって顎を引いた。からかわれるのも嫌だが、これはこれで落ち着かない。
 その視線を振り解きたくて、李苑は無言のままザーイの顔を手の平で押した。何だか非常に悔しかった。
 ザーイは何も言わずにかぶりを振って李苑の手を払い、顔を顰めたまま一度李苑を睨んで視線を前へと移す。捉われた視線が外され、李苑は安堵の息を洩らして俯いた。
「――それで、今更私を外に出したのはどういう訳なのさ」
 揺れる声に気付かれないよう努めて強く声を出す。シーツを纏う事でようやく肌を隠している現状、あまり派手に抵抗することが出来ないのだ。シーツ越しに伝わってくる体温は非常に落ち着かない気分にさせる。
 李苑は返事がない事に僅か落ち込みながら、再度口を開いた。
「言っておくけど昨日のこと、私はまだ忘れてなんて無いからね」
「忘れる必要は無い」
 体を通して伝わってくる振動と、その言葉に目を瞠って視線を上げた。
「女であるお前には怒る権利がある。だが、それでもジュンには謝らせない。そうする事があいつには必要だったからだ」
「あんな強姦まがいのことが必要だったって言うの? ふざけてる!」
 一瞬の間が空いて、ザーイは微かに笑った気がした。しかし直ぐにそれを払拭させて静かに睨みつけられる。
「ふざけてなどいない」
 炎を宿した瞳は鋭くて、その奥には恐ろしい何かが潜んでいる気がして、李苑は気圧されつつもそれを見据えた。背中を冷たいものが流れ落ちるようだ。
 いつの間にか立ち止まっていたザーイはやがて、言い訳なのか弁護なのか、視線を外すと呟きを落とす。
「イフリートの王にはそれが必要だったんだ」
 小さな声で、聞かせる為とは到底思えない独り言のような声量で。
 意味が理解出来ない事と、遠くを見るようなザーイの視線に李苑は言葉を詰まらせた。胸が締め付けられるように苦しくて拳を握り締める。
「……いいよ、ジュンから直接聞くから」
 結局許しているのだろうかと困惑しつつ、一度ザーイから降りようとしたのだが叶わなかった。抱えられる力を強められる。
「下ろしてよ。部屋に戻って着替えしてくるんだから」
 逃げる意志は無いと告げるのだが、それでも許されなかった。
「殺されたくなければ大人しくしていろ」
 これまで随分譲歩してきたと言うのに、まだ足りないと言うのか。
 そんな脅しに屈服してたまるものかと李苑は怒りを覚え、怒鳴りつけてやろうと息を吸い込む。けれど。
「あの場所に戻れば殺されるぞ」
「はぁ!?」
 予想もしていなかった言葉に李苑の怒声は取って代わられる。ザーイの瞳が微かに笑いを含んだ気がした。
「何、どういう」
「リオン、ザーイ」
 長い廊下を抜け、王が住まう私地でも政治的なものが揃う宮へ近づいた頃だ。
 呼ばれた名前に視線を向けると、薄手の服を翻しながらジュラウンが駆けて来る所だった。
 緊張した様子の彼に、李苑も表情を強張らせる。ジュラウンの警戒は外へ向けられる物であったのだが、流石に李苑はそこまで気付けなかった。近づくジュラウンの姿に微かな怯えを覚え、ザーイに体を寄せるとその首に腕を回す。
 ジュラウンは李苑の傍に近寄ると状態を見て取って、どこにも変化は無いと判断するとザーイを見る。その視線を受けてザーイは頷き、ジュラウンの表情にはようやく安堵が浮かんだ。
「良かった。もしかしたら間に合わないかもしれないと思いましたが」
「少し暴れてくれたようだからな。流石に動き回るリオンを捕らえる事は難しかったらしい」
 二人の会話に李苑は顔を顰めた。部屋に来た女性たちはジュラウンの命令で来たと思っていたが、違うのだろうか。二人の口ぶりではまるで、彼女たちを危険視しているように思えてしまう。
 ジュラウンが来たことでザーイは李苑を下ろし、下ろされた李苑は怪訝なまま二人を見上げる。情報が脳裏を巡って混乱ばかりだ。
 気付いたのか、ジュラウンが視線を下ろして李苑を捉えた。
「昨夜は私がいるからいいでしょうと、扉の結界を解いていたんです。迂闊にもそれを忘れていて、私たちが気付いた時は既に彼女たちが貴方へと向かっていて――焦りましたよ。どこにも怪我はありませんね?」
 説明の形は取っていたが、李苑にはやはり意味が通じず唇を尖らせる。意味を考えるよりも先に、伸びてきたジュラウンの腕に体を震わせてその腕を払った。反射的な行動で、ジュラウンの瞳に傷ついた光が浮かんだ事を悟った李苑は気持ちが落ち込んだが謝罪はしない。口元まで出かけて飲み込んだ。
 ジュラウンが李苑に向ける心配は本物のようであるが、昨日の今日で容易く許せる筈も無い。ジュラウンは微かに笑うと背筋を伸ばし、ザーイに視線を移した。
「これで少しは絞られましたかね。言及は任せます」
「ああ」
 二人にはそれだけで意味が通じるらしい。
 任されたザーイは一つ頷くと李苑に視線を落とし、その頭を軽く撫でると歩き出す。
「え、ちょっと、どこに行くのっ?」
 李苑は慌てて追いかけようとしたが、ジュラウンに抱え上げられた。悲鳴を上げて抵抗する。
「放してよ!」
「貴方はこちらです」
「ちょっとジュン! これ以上私に何かするつもりだってんなら本気で許さないからね!」
 肩に担がれるような格好になりながら暴れようとしたが敵わない。
 たおやかな外見に惑わされて見抜けなかったが、ジュラウンも結構な曲者であったらしい。ザーイほど安定はしていないが、抱え上げられる。
 李苑は何とかもがこうとしながら、遠ざかるザーイの背中を見つけて哀しくなった。そんな感情を吹き飛ばすように怒声を上げると笑われる。屈辱に頬を紅潮させて睨みつけようとする。
「これ以上? ではこれ以上何もしなければ昨夜の一件は不問にしてくださるという事でしょうか?」
 抱える腕を変え、李苑は顔を覗き込まれた。ジュラウンの瞳は楽しそうに緩んでいる。
 毒気を抜かれて李苑は言葉を失い、そうするとジュラウンは笑い声を上げた。再び歩き出しながら彼は、また別の宮へと向かうようだった。王宮はどのような全体像になっているのか、想像もつかずに李苑は目を光らせる。いつでも逃げる算段を整えられるように、全てを把握してやろうという心意気を込めて流れる風景を頭に叩き込む。
「……不問になんてしない、けど。でも昨日のは私も最初は抵抗してなかったし」
 抵抗しなかったのではなく、何が起きているのか理解出来ていなかっただけなのであるが。
「それに、ジュンは本気じゃなかったじゃない。強制されるんのは最悪だけど、本気じゃない強制はもっと最悪」
「本気ではないと、何故言い切ることが出来るのです?」
「だってっ。今までそんな」
「その気になれば私は今ここで貴方を抱く事も出来ますが」
 肩に担がれていた李苑は急に下ろされて悲鳴を上げ、渡廊を仕切る欄干に背中を押し付けられて衝撃に瞳を閉じた。瞳を開けば目の前にジュラウンの顔が迫っており、真剣なその表情に双眸を見開かせる。
「私はいつでも本気です」
 瞳に鮮やかな若葉色が揺れる。ジュラウンが持つ緑柱石の瞳は酷く懐かしさを掻き立てて李苑の抵抗を封じる。囚われたようにその瞳に魅入ってしまう。きっと『緑』という色には魔法が込められているに違いない。
 李苑は口付けが下りて来る事を感じながらそう思い、表情を虚ろにさせた。ジュラウンが何をしようとしているのか想像は出来たが、何故か理解するには至らなかった。思考が奪われたように何も考える事が出来ない。
 そして、吐息が感じ取れる程の距離に迫った時。
「ご無礼をお許し下さい、ジュラウン王!」
 怒鳴りつけるような声と共に、目の前に迫っていたジュラウンが横に突き飛ばされた――ように、李苑には見えた。
 床に座り込んでいた李苑は倒れたジュラウンを呆然と見やる。横から伸ばされた手に気付いてそれを辿る。
「リオン、貴方の部屋には私が案内します。王のお手を煩わせる程の事ではございません!」
 前半は李苑に、後半はジュラウンに。
 女官たちが纏うような簡素な羽織が李苑の視界を舞って、憤然としたファイナンの姿が目の前にあった。彼女はよっぽど急いできたのか鼻息も荒く強く言い切る。
 両手を腰に当て、黄金の髪を纏め上げ、細かな銀を散らせて。
 李苑が下働きとして王宮内を闊歩していた頃、同室になり、共に働いていた職場仲間である。
「さぁリオン、行きましょう」
 ファイナンから手渡された服を手早く身につけて、李苑はその言葉に双眸を瞠らせた。
 手を差し伸べられ、掴めば力強く引き上げられる。
 少しよろけながら李苑は立ち上がり、目の前のファイナンを見つめた。
 ザーイとジュラウンに隔離されてからどれ程の日が過ぎたのだろう。日にちの感覚も無かった李苑であるが、閉鎖的な環境下では一年にも二年にも長く感じられていた。
 隔離される前、彼女は李苑と同じく下働きとして王宮内で働いてはいたが、彼女はジュラウンやザーイと言葉を交わせる立場に無かった筈だ。
 李苑からすれば国の決まりごとには興味も関係も無かったが、ファイナンにとっては今のように、ジュラウンを押しのけるという事は死罪に当たるはずで。
 李苑は狐につままれたような気分になりながらジュラウンに視線を向けようとしたが。
「さ、早くなさいよ。相変わらずとろい――行動が鈍いわね」
 グイと手を引かれて理不尽な言葉を掛けられ、李苑は憮然としながら歩く事を余儀なくされた。彼女が一瞬敬語を使ったような気がして、彼女との距離が遠くなってしまった気がして、李苑は更に眉を寄せる。
「あ、あのっ、ファイナン?」
「質問なら後にして頂けますか?」
「そうですね、離れるのは早いに越した事はありません」
 すっかり忘れていたが、ジュラウンの声も後ろから追いかけてくる。慌てて振り返ってみると視線が合って微笑まれる。彼もこのまま一緒に行くらしい。
 李苑は脳裏が疑問符で埋め尽くされそうな事に眉を寄せ、もう一度後ろを窺い見ようとするのだが許されなかった。
 ファイナンの歩調が早く、転ばぬように付いていく事で精一杯だ。
「だああもうっ! 後で絶対洗いざらい全部吐かせてやるんだからねーー!!」
 李苑の苛立ちによる絶叫は、綺麗に黙殺された。

* * *

 水晶が奏でる綺麗な夢を見ているようだ。人々の囁きが遠いどこかから聞こえてくる。
 夢を紡いで、夢を重ねる。力を織って、時の欠片を手繰り寄せる。
 巫女の為の神殿。時の流れから一切を遮断されたこの場所では何も動かない。
 脳裏を掠める穏やかな色に、不意に憎悪が湧いて眠りを醒ます。
 ここからでは何も見えない。一度、大きな流れに引き寄せられるままこの手の中に何かを取り込んだと思ったのは偽りだろうか。
 そっと手を開いてみると、鮮やかな真紅がそこにあった。
 上体を起こして視線を落とし、ゆるりと唇に笑みを刻む。
 ようやく――時が刻まれ始める。
「――」
 声はまだ、空気を震わせない。けれどこの声は確かに貴方の元へと届く筈。
 私をこのような場所へと幽閉した血族へと。辿り着くのはまだ先だけれど、そう遠い未来ではない。眠りについていた今までを思えば、その時間は決して長くない。

 力を手に入れる手始めに、まずは風の民たちへと。
 女は手を伸ばし、真紅が手の平から零れ落ちた。

* * *

 ジュラウンはふと、地面が揺れた気がして歩みを止めた。
 騒々しく前を進む少女二人に視線を向けたが、彼女たちは今の揺れに気付かなかったように歩いていく。その姿に、自分の気のせいだったのかと再び踏み出す。
 首を傾げて瞳を細め、歩きながら宝珠の力に意識を乗せる。
 屋根の端から空を覗くが、真っ白く灼かれた空は常と変わらない。自身が広げた力の膜が見えるだけである。
 耳を澄ませても異変は聞こえず、念の為に城下へ意識を飛ばそうとしてやめた。今、傍にはザーイがいないのだ。護衛がいない今では意識を城下へ飛ばしては危険である。
「私の気のせいならば良いのですがね」
 軽く肩を竦めて両手を組ませた。後ろ手に回して溜息をつき、歩みをゆっくりな物にしていた為、随分離れてしまった李苑とファイナンを早足で追いかける。周囲は変わらず静かなものだ。先程走った事が嘘の様に静まり返っている。
「セフダニアが欠けてしまった今では、宝珠を持つのは」
 言葉を切って、続きを胸中で吐き出す。
 ――ガラディアが目障りなようなら、潰さなければいけない。
「さて」
 ジュラウンは軽く息を吐き出すと空を仰ぎ、未来に想いを馳せると瞳を細めた。