第六章 【一】

 響希はにわかに城内が慌しくなった気配を感じて胸騒ぎを覚えた。
 セフダニアの中枢にあった書庫。王家の者にしか入る事を許されていない書庫であったが、宝珠を鍵として入り込んでいた響希は翠沙の名前を強く呼ぶ。けれど未だに応えは返らない。
 評議会の者達がひしめく中で、まさか何も言わずに傍を離れるとは思っていなかった。書庫へと入る前に見せていた翠沙の翳りが思い出されて唇を噛む。彼女の姿が見えないだけで焦燥は大きく育ち、手の中から何かが零れてしまうような恐怖に襲われるのだ。
「翠沙!?」
 書庫内に彼女の姿は無い。
 そう広くはない書庫内を走り、名前を呼び、外へ出なければ無駄だという事を悟った響希は舌打ちする。苛立ちに任せて壁を殴ると躊躇うことなく宝珠を使い、次の瞬間にも響希は城廊下へと足をつけていた。
 その廊下にも翠沙の姿は見えず、あまり期待していなかったとはいえ響希は落胆に顔を歪める。
 セフダニアの者達から姿を隠せるように宝珠を使ったのは翠沙であるが、それを「絶対を保証するのもではない」と言い切ったのも翠沙である。一体どこへ行ったのだろう。もう少し気に掛けるべきだったのかもしれない、と後悔だけが湧いてくる。
 慌しくなった城内の気配。
 先程までの城内は、調査員たちが大勢いてもどこか閑散とした雰囲気を保っていたのだが、今は弾むような囁き声が聞こえてくる。
 響希は踵を返すと敢えてそちらへと足を踏み入れた。
 休憩の時間なのか、寛ぎ賑わいでいる調査員たちの間を器用に潜り抜けながら響希は王宮から出ようとする。翠沙ならこのように人の多い場所は避ける筈である、と直感で私宮へと足を向けようとし、そして眉を寄せた。
 何とはなしに窓へと移した視線の先には馬車が幾つか停まっている。評議会の者達が調査交代する為の馬車なのだろうかと勝手に納得し、そのまま通り過ぎようとした響希は絶句した。
 白く飾られた豪華な馬車の窓に、映る影。
 翠沙だった。
 思わず響希は窓に駆け寄り凝視したが、翠沙を見間違える訳が無い。
 馬車の中にいるのは彼女の意思なのか、翠沙は少々不安げな面持ちであるように思えるが、助けを請う素振りも無く鎮座している。
 評議会の者達が固める場車内で、無邪気に翠沙へと話しかけている少年の姿まで窓越しに見えた。そして、翠沙が乗車する馬車の後ろに従うもう一つの馬車。その中には、こちらも見間違えるわけが無いサウスがいる。
 それぞれ評議会の者達が御者を務める馬車でどこへ連れて行かれようとしているのか。
「翠沙!」
 理解できなくて声を上げた響希だが、まるで嘲るように馬車は走り出した。庭を抜けて門へと走り、あっと言う間に城から離れる。
 あの馬車を見失っては翠沙と逸れてしまう。
 そんな事を許す訳にはいかなくて、階段を駆け下りる時間すら厭わしくて、響希は窓を叩き割ろうと剣を抜いた。白刃が視界に煌き窓を叩き割ろうと振り上げられる。
「うわ、なんだお前は!?」
 翠沙に追いつく為には一刻の猶予も無かったけれど、背後で上がった悲鳴に響希は振り返った。
 思わず翠沙の名を呼んだのが間違いだったのか、どうやら響希に掛けられていた目晦ましは効力を失ったらしい。
 人の往来が激しくなった廊下で、響希の姿を目の当たりにした調査員が驚いたように双眸を瞠っていた。
 一人だけではなくて五人、十人と。その場を通りがかった者達が全員歩みを止めて響希を見る。
「……丁度良い」
 指差され、応援を呼ぶ様を見ていた響希は徐々に笑みを浮かべた。
 剣呑で鋭い、危険な笑み。
 戦闘力としては乏しいらしい調査員たちが息を呑む。
「翠沙が連れて行かれようとする場所を、吐いてもらうとするか」
 剣を構えなおし、そう呟いて。
 響希は集まり来る者達の中にその身を投じた。

* * *

 パシンと、目の前で小気味良い音を立てられてランルは驚いた。
 女官たちが長い時間手を掛けてくれたお陰で、今のランルは誰もの視線を一心に集めるだろう存在となっていた。
 いつも梳くだけで流していた紫髪も丁寧に纏め上げられて輪郭がスッキリとしている。強い力で結い上げられている為、皮膚まで伸ばされ輪郭の鋭さが増していた。目つきも『剣呑』という言葉が酷く良く似合う容貌となっていた。
「ユーハ?」
 呼ぶのは親しい女官の名前。
 幼い頃からずっとランルの側に仕えて、一番の信頼を預けている女性。
 女官長を務めるユーハは少々唇を尖らせてランルを覗いており、ランルが首を傾げると体を離す。両手を腰に当てて溜息をつく。
「あのですね、ランル様。今日から伴侶選びが始まるっていうのに主役がそんな顔でどうされます。もっと背筋を伸ばして、凛とした顔つき保っていて下さい」
「凛とした顔つき……って、髪に引っ張られて結構きつい顔になってると思うわよ?」
 瞳を見開かせたり大きく笑ったりすると痛いのだ、伸ばされた皮膚が。両頬を挟むようにして不満な声を出すランルに、ユーハは「違います!」と踏み鳴らせる。
 この部屋には二人しかいない。
 素早くランルは確認した。
「顔の造形じゃなくて、そういう雰囲気を意識してって言ってるんです!」
 サウスの事で案じた老臣たちが選んだ候補たち。宝珠国であるガラディアに王として選ばれようとする者も多いであろう。
「とにかく、ランル様はガラディアの顔なんですから。しっかりなさって下さい」
 必死に握り拳で力説するユーハに「分かったわ」と笑い、踵を返した。
 少しボンヤリしていたのは本当だ。
 老臣たちが選定した、ランルの伴侶たち。流石にこの短期間で一人に絞るのは難しかったらしい。後はランルに任せようと、候補たちを一定期間ガラディアに招いて共に過ごさせる。それが今日から始まるのだった。
 前王たちの葬儀をしたばかりであるが、急かされる理由もしっかり理解していて、ランルは憂鬱になるのである。
「いいですかランル様。相手は大切な重要人物ばかりではありますが、どれもランル様に敵うような方々ではありませんから。もし不埒な真似をされかけたら遠慮なく返り討ちですよ!」
「出来る訳無いじゃないのよもう」
 元気な声にランルは笑い、手を振って苦笑する。
「でも心強い言葉をありがとう」
「いいえ。私がランル様に出来る助言なんて、これくらいしかありませんから」
「はいはい」
 ランルが部屋を出ようとする気配を読み取り、ユーハは素早く回りこんで扉を開けた。先に廊下を確認したユーハの許可が下りるとランルは廊下へと身を滑らせ、そこで待っていた近衛兵たちに頭を下げられる。
「お待たせ。方々はもうお着きかしら?」
「先ほど先触れの馬が着きました。程なく皆も集まりましょう」
「そう」
 幾人かの近衛に囲まれて、彼らが歩くままに任せてランルも歩き出す。背後から少し弱められた声に振り返り、ランルは笑って手を振った。
「大丈夫よユーハ、行って来るわね」
 皮膚が突っ張るために唇だけで笑い、近衛の影からユーハを見る。
 サウスの事件を知ったユーハはその場でランルを殴ったつわものだ。けれど今見る彼女の表情は頼りなくて不安げで、ランルは安心させるように笑うと振り切った。