第六章 【三】

 一蹴りで意識を取り戻した男は勢い良く飛び上がり、反射的と思われる素早さで飛び退いた。けれどまだまだ未熟である。背後に聳えていた大木へと容赦なく背中を打ちつけ痛みに耐える。
 一連の動きを静観していた響希は「馬鹿が」と呟き溜息を零す。
「姉貴?」
「誰が姉貴だ」
 驚いたように顔を上げた男へと、響希は力いっぱい枝を投げつけてやった。額へと刺さるようにヒットしたようで、悲鳴が上がったが響希は鼻を鳴らすと顎を反らせた。寝ぼけるのは勝手だが、それでこちらの時間まで潰されてはたまらない。
 男はしばらく呆けたように口を開けて響希を見つめてきたが、やがてそれが誰なのか気付くと慌てて立ち上がった。周囲を見回し、その瞳が子供たちを映し。そして大きく見開かれる様を見ながら響希は小石を拾う。
「お前、こいつらに何しやがった!?」
 予想通り、怒りの形相で叫んだ男の額に、容赦なく響希は石を投げつけた。哀れ男は言葉も紡げぬほど痛がりしゃがみ込む。
「寝ぼけるのも大概にしておけ」
 一言だけ響希は言い捨てると踵を返す。もう何度これを繰り返したことか。一向に進めない。そして今回も、また。
「ま、待てって。思い出してるよ、冗談だって」
「俺は今急いでるんだ。お前の冗談に付き合っている暇など」
「助けて貰って感謝する!」
 嫌そうに顔を顰めながら振り返った響希に、男は勢い良く頭を下げた。膝をついて地面に両手をつき、まるで土下座である。
「……はぁ?」
 正直訳が分からなくて響希は片眉を上げたが、男は輝くような笑顔で見上げてきた。土下座などこの男には何でもない事らしい。
「助けた覚えはないぞ」
 その笑顔に嫌なものを感じながら響希は溜息をつき、密かに拳を握り締める。目の前にいるのは男であるが、どこか李苑を髣髴とさせる仕草や行動に無条件で怒りが湧いてくる。男にとっては理不尽な八つ当たりであった。
「俺はクーリュエン。そっちは? 姉貴? 姐御? 何て呼べばいい?」
「……俺の名前は響希だ」
 怒鳴りつけたい衝動をぐっと堪え、響希は低く絞り出した。クーリュエンの笑顔が更に輝く。
「キョウキ! 名前まで男前な名前なんだな!」
「殺されたいのか?」
 響希は額に青筋を浮かべると剣を抜き放った。本気ではなく威嚇である。
 ふざけた男の首へと、振り払うようにして剣を当てて瞳を瞠る。
 威嚇とは言え、込めた勢いは本物である。あと数ミリずれれば首へ斬り込まれただろうに、クーリュエンは笑ったままその場から微動もしていなかった。豪胆なのか馬鹿なのか、それとも響希が本気ではない事を悟っていたのか。響希は不審にクーリュエンを睨みつける。軽んじられているのだろうかと苛々が湧いていく。
 クーリュエンの瞳が響希を捉え、その瞳には焦りや憤りなど微塵も無い。先程子供たちを止めた必死の形相は見る影も無くなり、まるで別人なのではないかと窺わせる。
 李苑や翠沙と離され気付かぬうちに溜まっていた苛々が微かに宥められた気がして響希は剣を引いた。
 無言で鞘へと戻し、まず何を問い質すべきか首を傾げようとしてその動きが止まる。
 まるで獣の唸り声のように低い低い、けれど決して無視できない音が空気を震わせた。クーリュエンの腹の音だった。
「いやぁ、キョウキに会えて本当に良かったぜ。何しろ俺、ここ一週間まともに食ってないからさぁ……」
 と、いう間にクーリュエンの体は後方へと傾いていった。響希は思わずその腕を掴んだが意外に重く、響希は諸共地面に転がる。再びクーリュエンの腹が音を立てる。
「さっき動いたのでとっくに限界越えてたんだよな。次動いたら俺はきっと餓死の旅に連れて行かれるぜ」
 憔悴しきった表情で、クーリュエンは呟いた。口を動かす事も煩わしそうである。
 響希は体を起こしてクーリュエンを見下ろし、絶句して、そして笑う。体を二つに折り曲げ腹に腕をあて、クーリュエンの傍に座り込んで肩を震わせた。緊張感などあっと言う間に霧散した。
「全く」
 クーリュエンの怪訝そうな視線も気にならず、響希はひとしきり笑うと袋を手繰り寄せた。餓死寸前のクーリュエンが体を起こす。
 その瞳は期待に輝いたが、横目でそれを見ていた響希は口元に笑みを浮かべただけだった。
 取り出したのは一枚の硬貨。
 投げ渡すとクーリュエンは硬貨と響希とを見比べる。食糧を貰えるのだと思い込んでいた彼にとって、それは酷く不思議であろう。響希は笑みを崩さないままクーリュエンに告げた。
「先が見えない今、貴重な食糧をお前に渡す訳にはいかない。それは俺の情けだ。無償で譲ってやろう」
 響希が渡したのは腹の足しにもならない硬貨一枚だけ。クーリュエンは何か言いたげに口を開いたが、響希は手を翳してそれを制止する。彼の腹が代弁するように再び音を立てた。
 響希は笑いを堪えながらクーリュエンに向き直る。
「さてここからは商談だ。この先、人がいる集落までは随分と歩く羽目になる。その金をどうにか食糧に換えなければお前は餓死決定だ。そこで転がってるガキどももな。さぁどうする?」
「分かった。この金をキョウキの食糧と換えてくれ」
 躊躇い無くクーリュエンは硬貨を響希の手へと押し込んだ。
 物分りのいい奴は好きだよ、と。響希は軽く微笑んだ。
「足りないな」
「……は?」
 響希の笑みが深くなる。
「言っただろう。俺にとっても今持ってる食糧は貴重なんだ。そんな安っぽい硬貨一つで渡せる訳がないだろう」
「ひ、酷ぇ。詐欺だぞ貴様!」
「どこがだ。非常時における正当な価値観じゃないか。貴重な物ほど物価は高くなる」
 嘯いた響希を、クーリュエンは射殺しそうなほどの視線で睨んだが意味は無い。そんなものに響希が怯える訳はない。
「ああ、腹が減った……」
 フッと。上体を起こしている事が再び億劫になったのか、クーリュエンは体を倒した。響希が選んだ場所とは違い、その場所は微かに湿っている。けれど生き死にの挟間であるクーリュエンにはどうでもいいらしい。響希は微かに笑った。
「まぁ、普通ならここで商談は終わりだがな。俺にはもう一つ欲しい物があるんだ。お前がそれを俺に差し出すというなら、食糧と等価で交換してやろう」
 クーリュエンの視線が響希に向けられたが、そこには不信感がアリアリと表れていた。先程の事を思えば当然の変化であるが、響希は楽しそうに笑うばかりだ。
「何と交換すればいいんだ? 俺にはもうこの体……はっ、もしかして襲うつも」
 言葉も無く飛んできた剣の鞘に、クーリュエンは大人しくその口を閉じた。
 響希は不機嫌な顔で鞘を回収するとクーリュエンに迫った。彼の髪を鷲掴みにすると自分に向かせる。浮かぶ表情は剣呑で、先程まで僅かに緩んでいた空気が張り詰める。
「俺を安く見るなよ、クーリュエン」
 低く低く、地を這うような声を震わせて。響希は漆黒の瞳をクーリュエンに近づけた。
 二人でしばらくそのまま金縛りにあったように動かないでいて。
 先に動いたのはクーリュエンだった。
 薄暗かった森の中へと差し込む一筋の光。
 細く強いそれを確認した途端、クーリュエンはハッと顔を上げる。つられて響希が顔を上げる頃には、光は大きく薄く伸ばされて朝を森に渡らせた所だった。周囲の気温も急激に温められて夜霧は消され、完全なる朝を迎えようと目覚め始める命の気配。
 クーリュエンは響希の手を振り解くと慌てたように立ち上がった。腹の空き具合など関係ないように立ち上がった彼に合わせて響希も立ち上がり、そしてその異様な周囲の事態を目の当たりにする。
「……なん、だ?」
 響希は知らずに喉を押さえていた。
 上昇する気温と共に漂い始めた甘い香りが喉を乾燥させていた。
 可愛らしい砂糖菓子を連想させる匂いではなく、鼻腔にねっとりと絡みつくような、陰湿さを感じさせる甘さ。この匂いは過去に知っている。訳も分からずランルと共に走ったとき、宝珠による力で兵を異形のものへと変化させた時に漂っていた匂いと同じものだ。
「吸うな!」
 立ち上がっていたクーリュエンに被さるようにして彼の鼻を塞ぎ、響希は息を止めた。
 クーリュエンは抵抗もせずに大人しくそれを受け入れる。黙って、先程気絶させた子供たちが朝日の中へと消えていく様を見守っていた。
 彼が見守るその様を、響希もまた黙り込み、軽く目を見開かせたまま見守っていた。
 子供たちの輪郭は薄れ、風が渡れば灰の様に崩れていく。規則正しく呼吸を繰り返し、上下する胸や肩があるというのに、それをそのままにして端から子供たちの体は消えていくのだ。
 響希は匂いも忘れて見入っていた。
 やがて、朝日が完全に昇る頃には子供たちは全員が消えていた。一番近くに倒れていた子供の場所へと足を運んでみたが、名残は何も無かった。子供たちが横になっていた地面に触れてみたが、子供たちの存在に触れる事はない。だが確かにその場所に子供がいたという証拠に、雑草が潰れていた。草は重みを無くした事で徐々に起き上がり、葉を伸ばそうとし始める。
「どういう事だ?」
 気が付けば甘ったるい匂いも消えていた。途中からその存在も忘れていた衝撃に響希は呆然とするが、振り返った響希は更に驚愕した。
 クーリュエンの首から下がどす黒く染まっていたのだ。
 顔はまだ肌色であるが、首から下へと徐々に黒さを増していく肌。服から覗いていた腕や足などは見る間に真っ黒く染まっていった。先程までは夜闇で判別付けがたかったとは言え、確かに普通の人間の肌と同じようであったのに。
「お前、その肌は……?」
 問いかけた響希の前でクーリュエンは微かに笑った。一瞬隠すような素振りを見せた彼だったが、見られてしまったのなら仕方ないかと諦めたようにも思えた。
「情報料って事でどうだ? 俺が持ってるのって、他にはない。つまりはそういう事を言いたかったんだろう?」
 朝日の中に佇むクーリュエンは酷く儚く見えた。自虐するような笑みに響希は眉を寄せたが、先程言いたかった事とつまりは同じだったので口出しは控えた。少々遊びすぎたかと小さな後悔が生まれている。
「来いよ。俺たちの町は直ぐそこにあるんだ」
「俺たちの町……?」
 直ぐそこ、という事はセフダニア領内という事だろう。つまり、クーリュエンは。
「どういう訳か滅んじまったセフダニアの、生き残りって訳だな」
 背中を向けて歩いていくクーリュエンを、響希は荷物を握り締めながら追いかけた。