第六章 【六】

 太陽は天頂を少しだけ過ぎたところにあった。
 先はまだまだ長い、と響希は瞳を細める。
 クーリュエンに案内された道を逆に辿っていた。見覚えのある細い路地からは強い風が吹き出していて顔をしかめる。クーリュエンが共にいたときは容易く通り抜けられた道だが、響希一人で踏み入れば、足に何十キロという重りをつけられているかのように困難になった。
 強風に腕をかざして耐える。唇を引き結び、一歩一歩確かめるように足を進める。風の中には甘い匂いが混じっているような気がして不愉快になった。フードがついている外套の前を引き上げる。気休め程度に鼻と口を隠してみると、それだけでも呼吸は楽になった。
 昼を回ったばかりだが、降り注ぐ熱線が額に汗を浮かばせる。まるで砂漠の中にいるようだ。セフダニアとはこんな気候の国だっただろうか。
 通りの向こうに見える大通りが、蜃気楼のように歪んで見えて、壁に手をついた。
 大通りから外れ、風の吹溜りとなっている区画。
 セフダニアの住民が消えたのは宝珠の暴走によるものだったのだと、響希は推測を確信に変える。
 ハイロウト民族の血族は幾らか耐えられたようだが、それももう限界が近い。それでも、他の者たちが形も残さず滅んだ今、クーリュエンだけはなぜ未だに完全な肉体のまま生きていられるのだろうと、風の中を歩きながらそんなことに考えを巡らせた。
 風はますます強くなる。
 瞼を閉じずにはいられなくなって、響希は顔を背けながら胸元の宝珠をつかんだ。少しでも風を和らげるため宝珠を使おうとした。
「キョウキ!」
 後ろから追いかけてくる気配。
 追いつかれた響希は舌打ちした。振り返ろうとしてよろめき、壁に肩をぶつける。
「なに……?」
 一瞬だが平衡感覚を失った。まさか強風に足を取られたのかと驚愕したが、否定する。強風は嘘のようにおさまっていた。素で自分がよろけるなど考えられず、響希は顔をしかめる。クーリュエンを見て双眸を瞠らせた。
 彼は響希と同じような旅装束に着替えていた。肩には荷物一式をかけている。短い時間でできるような旅支度ではない。以前から旅の計画を練っていたのだと知れる。彼はきっかけを欲していただけなのだ。
 決意を固めている彼に響希は息をつく。足手まといになったら即刻置いていく、と告げようとして違和感に気付いた。
 顔以外の肌を旅装束で隠したクーリュエンは青褪めていた。薄い筋肉のついた腕を響希に伸ばし、外套をつかんで見上げる。その表情は紛れもない恐怖に彩られている。
「……夜だ。キョウキ」
 彼が見上げたのは響希ではなかった。響希を飛び越した更に上。空を見上げていた。
 響希は眉を寄せる。クーリュエンの言葉を訝ったのも事実だが、それよりも先に、現れた大きな影が二人を包んでいた。まるで背後に巨大な大男が出現したかのように。
「……なんだ?」
 人の気配は何もなかったはず、と素早く振り返った響希は絶句した。
 空が紫紺に染まろうとしている。先ほどまで真昼の下を歩いていたことは間違いないのに、だ。時間移行の異常さに響希はますます警戒心を高めていく。
 暗雲が広がるということではなく、辺りは正真正銘、夜に移行しようとしている。見る間に星が輝きだす。
 そんな様を呆気に取られながら眺めていた響希は、何かに体当たりされて視線を落とした。見ればクーリュエンが胸にしがみ付くようにして震えていた。
「おい」
「キョウキ、キョウキ助けて」
 セクハラかと剣呑な声を出した響希だが、クーリュエンの悲鳴は切迫していて怒気を緩める。何も言わずに彼の肩を抱いた。震えは本物だ。
「お願いだ。俺を連れて行ってくれ!」
 細い路地で、響希に縋って訴えるクーリュエンの声は哀願だった。
「クーリュエン?」
 とっぷりと夜に支配された。その異常さとクーリュエンの様子に寒気を感じて周囲を警戒する。今度こそ、背後に気配を感じて振り返る。
 背後にいたのは少女だった。
 ランタンを掲げ、闇に光を浮かべた彼女は、驚いたように瞳を丸くしていた。
「な……?」
 響希は仰け反ったが、少女は直ぐに驚きから立ち返ったようだ。掲げていたランタンを下ろして微笑みを浮かべる。誰からも好かれるような、可愛らしい笑顔だ。
「お客様? クーリュエン」
 響希に縋っていたクーリュエンの体が大きく震えた。響希からゆっくりと体を離し、静かに顔を上げた彼は少女に視線を向ける。
「うん……そうだよ。姉貴」
 響希はクーリュエンを振り返った。無言の問いには気付くだろうに、彼は何も答えない。否定もしない。ただ静かに少女を見る瞳はとても穏やかで、先ほどまでとは別人だ。開かれた瞳には恐怖が宿っていたのに、それも消えている。響希は自分の感覚がおかしいのかと思った。
 脳裏に浮かぶのは天幕で紹介された『姉貴の腕』だ。クーリュエンの態度を訝りつつ少女をもう一度眺め、更に分からなくなる。彼女には両腕がついている。痛みを覚えているようにも見えない。
 どういうことなのかと響希は混乱した。
 少女は響希の混乱など意に介さず、そう、と頷くとクーリュエンに微笑んだ。まるで聖女のように温かな眼差しだ。彼女は次に響希に視線を移す。その仕草は、初対面の者に対する態度としては充分に礼儀を備えたものだった。粗野な様子は見られない。この少女が殺風景なスラムで育ったとは、にわかには信じ難い。
「初めまして、お客様。何もないところではございますが、今晩は我が家でお寛ぎ下さいな」
「だが」
「さぁクーリュエン。いつまでも留まっていては邪魔になるわ。お客様をご案内してさしあげて」
「……ああ。こっちだよ、キョウキ」
 クーリュエンは従順に頷いた。今までの必死さと覇気はどこへ行ったのだろう。消沈して虚ろだ。声も淡々としている。彼は響希の外套をつかんだままスラムに引き返す。
「おい、クーリュエン?」
 響希の問いにも答えない。困惑した響希は振り返り、更に驚愕した。
 少女の後ろには、他にもランタンを掲げた者たちが多くいた。老若男女、顔ぶれは実に様々だ。路地は一人しか通れない狭さのため、まるでクーリュエンが先導を務めている構図だ。彼らは前方で足止めされている理由を知りたいのか、しきりに背伸びしたり横から顔を出したりと、まるで普通の人と変わりないような仕草を見せている。
 強い風に邪魔された路地だが、再びスラムへ戻る際は実に簡単だった。まるで人々を引き寄せるかのように何の抵抗も加わらない。
 寂れたスラムでしかなかったそこは今や華やかに輝いていた。ランタンに火が入れられ、人々の門前を暖かく彩っている。人の往来も盛んで活気に溢れている。壊れていた噴水はしっかりと直され、水も溜められているようだ。
 響希はまるで自分が狐に化かされているように思えた。試しに頬をつねってみようかと思ったが、あまりにも古典的過ぎて馬鹿馬鹿しくなった。
「どういうことなんだ……?」
 黙って手を引き続けるクーリュエンに問いかけたが、彼は何も答えようとしない。そうこうしているうちに元の天幕に戻されてしまった。
「おい!」
 声を荒げるとようやくクーリュエンが振り返る。その瞳は虚ろだ。何も映さない。絶望のただなかにいるかのように希望がない。
 響希は眉を寄せて彼の頬を両手で挟み、持ち上げた。
 クーリュエンの瞳が響希を映して微かに揺れる。その瞳にはゆるゆると恐怖が満ちていく。喘ぐように、彼は口を開く。
「駄目なんだよキョウキ。もう逃げられない。夜に捕らわれて、俺もいずれ消えるんだ」
 消極的な言葉に響希は顔をしかめる。両手を外すと彼は諦めたように再び俯く。そんな様子を見ながら響希は鼻を鳴らした。
「つまりは正真正銘の夢だというわけだな。馬鹿馬鹿しい。さっさと出るぞ。出ればお前の根性も少しはマシになるだろう」
 響希はクーリュエンの腕をつかむと引き返した。彼の肩には袋が担がれたままだったので丁度いい。
 一片の迷いもない響希の足取りにつられ、クーリュエンは転びかけながら歩き出す。力強い歩調に驚いたように目を丸くする。
「キョウキ。キョウキ、無理だ」
「何が無理だというんだ。今回は俺が一緒にいてやる。やってもみないで決め付けるな」
 まるで道を阻むように現れた者たちを一瞥して響希は剣をつかんだ。鞘から抜いた刀身をランタンの光に反射させる。
「どけ。俺たちはそこを通る」
 剣を掲げて宣言する。集った者たちは視線を交わして囁きあう。積極的に止めようとはしない。まるで戸惑うように、響希に向ける視線は頼りないものだ。
 響希は拍子抜けしてただ歩いた。それでも彼らは止めようとしない。通り抜けた響希たちを振り返って囁き交わすだけだ。
「害はないじゃないか」
 これなら剣で威嚇する必要もなかった。単なる弱い者いじめだ。
 響希はそのまま細い路地に向かおうとした。
 そのときだ。
 目の前に少女の姿が浮かんだ。闇の向こう側から輪郭を現し、響希たちの前に立ちはだかる。彼女は驚いたように響希とクーリュエンを見比べていた。
「姉貴……」
 ただ黙って響希に手を引かれていたクーリュエンが弱々しく呟いた。手を繋いでいた響希には、彼が震えたのが分かる。
 響希の険しい表情に怯えた少女だが、クーリュエンの呟きによって表情を改め、眉を険しく吊り上げた。
「クーリュエンをどこへ連れて行こうというのです?」
「セフダニアの外だ」
「いけません。クーリュエンはここに居たがっています」
 少女は凛とした声音で響希と対峙した。肩から掛けられた羽織は鮮やかな民族衣装のようだ。長年使い込んできたようにくたびれていたが、少女はそれをしっかりと胸元で寄せ合わせている。ハイロウトのものなのだろう。
 響希は瞳を細めた。
「本人に確認したのか」
 少女に一歩詰め寄ると、恐れたのか少女の気丈さが微かに揺らいだ。肩を震わせて響希を見上げる。
「キョウキ、やめてくれ。姉貴が怖がる」
 クーリュエンが横から止めた。響希は表情を更に険しくさせる。
「あのな! 連れて行けと言ったのはお前だろうが。つまりそれは、ここから出たいということだろう?」
「そうなの、クーリュエン?」
 女二人に詰め寄られたクーリュエンは迷うように視線をさまよわせた。
「俺は――」
「男ならはっきり自分の意志を貫き通せ!」
 響希は怒鳴りつけ、つかんでいた腕を乱暴に突き放した。よろけた彼を少女が支える。クーリュエンの胸に回す白い腕は、生身の人間であるかのように確かだ。
「行かないでクーリュエン。貴方が行ってしまったら私は独りになってしまう」
「姉貴……」
「決めるのはお前だ。行くなら行くで訣別しろ。残るなら俺は先に行く」
 薄情と罵られようと構わない。響希は本気だった。
 連れて行かないと断言したばかりなのに気が変わったのは、彼がこの場に捕らわれていると感じたからだ。響希は後押しするだけで、決断はあくまで彼に委ねられる。響希は腕組みをして彼を見つめる。
 黒の宝珠を掲げ持つ、審判者の瞳。
「俺は――セフダニアから出たい。消えるのは嫌だ!」
 響希の瞳だけを見つめていたクーリュエンに、不意に覇気が宿り、彼は叫んでいた。
 聞いていた響希は「上等だ」と笑い、伸ばされた彼の手を取る。少女の悲鳴が木霊する。
「クーリュエン! 私を置いて行ってしまうの?」
「姉貴」
 そのまま去ろうとした響希だが、クーリュエンが振り返ったため響希も留まることを余儀なくされる。舌打ちして振り返る。
「行かないで! 生きましょう、二人で。それとも私が嫌いになったの? だから私を殺したのっ?」
 錯乱したように少女は叫んだ。流す涙は本物だ。響希は眉を寄せたままその言葉を聞いた。よろめくように少女は近づき、クーリュエンの両肩をつかむ。強く揺する。しかしクーリュエンは何も答えない。
 周囲には野次馬が集まり出そうとしていた。何をするでもなく、ただ二人のやり取りを眺めるだけ。そんな皆の様子を、響希は不思議な気分で眺め渡す。
 まるで普通の町並みに、普通の反応を返す人々。クーリュエンと少女のやり取りも、多少のズレはあるものの普通の者たちが交わすやり取りと変わらない。違和感を覚えるのは何に対してなのかと、響希は宝珠を握り締めた。視線を戻す。
「クーリュエン。私には貴方だけよ。お願い。行かないで」
「姉貴……」
 胸にすがりついて泣き出す少女に、クーリュエンはどうしたらいいのか困惑して、腕を中途半端に持ち上げていた。抱き締めてしまったら二度と離れられない。
 しばらくそのままでいると少女が涙を拭いて響希に向き直った。
「連れて行かないで。たった一人の弟なんです。彼には私を最期まで見届ける義務があるわ。お願い。連れて行かないで!」
 泣き腫らした瞼は腫れぼったくなっている。
 響希は冷めた目で彼女を見つめた。
「俺に泣き落としは通用しないと考えた方がいい」
「泣き落としなんて!」
 少女は頬を膨らませて憤慨する。響希はせせら笑った。
「では聞くが、その義務とやらは何だ。クーリュエンはここから出たいと言っているんだ。このままここに居ても死を待つだけだろう。素直に行かせてやることもお前の役目なんじゃないのか。それともクーリュエンを殺したいのか」
「違うわ! クーリュエンは私を殺したのよ! だから」
「さっきから言っているが」
 腰に固定していた鞘から響希は剣を抜く。現れた白刃に少女は怯えて一歩下がる。クーリュエンが我に返ったように反応し、響希と少女の間に割って入った。
「やめろ!」
「何が」
 傷つける目的はない。ただ脅そうと思っただけだ。
 響希は硬い声で応じる。
「俺は姉貴が死ぬのを見るのはもう嫌だ!」
「そいつの言うことを肯定するのか?」
「肯定……俺は……俺は、確かに姉貴を殺したんだ。今度こそ、守らなきゃ……」
 響希から視線を外したクーリュエンはうわ言のように呟いた。庇われた少女が嬉々としてクーリュエンを抱き締める。彼の瞳は再び虚ろになっていく。
「そうでしょう? クーリュエンはここを出ることなんてないのよ。ここでずっと私を守っていくの。私を殺した分まで」
 クーリュエンの頬を挟んだ少女は愛しそうに唇を寄せた。溶けそうなほど柔らかい笑顔だが、毒を内包する花弁を思わせる。
「――馬鹿馬鹿しい。俺はもう行くぞ」
「キョウキ!」
 剣を収めて背中を向けた響希は舌打ちした。クーリュエンの手が外套をつかんでいる。その手を無理に剥がして出立しようと思ったが、響希は振り返っていた。
「俺と共に国を出るか、その女とここで朽ちるか、今すぐ選べ!」
「死ぬのは嫌だ!」
 怒鳴りつけた響希にクーリュエンは怒鳴り返した。はっきりとした生存欲に、響希は笑ってクーリュエンの手をつかんだ。
「では振り返るな」
「クーリュエン!」
 悲鳴に後ろ髪を引かれる。振り返ろうとするクーリュエンを感じて響希は繋いだ手に力を込めた。その力にクーリュエンは思いとどまる。奥歯を噛み締め、泣き出しそうになるほど顔を歪め、必死で振り切った。
 響希にあわせてクーリュエンは走る。狭い路地に体を滑らせる。
 背後で泣き出した声は追いかけて来ることもない。直ぐに小さくなった。