第六章 【七】

 夜会の華やかな音楽や光が零れてくる。遠く離れた廊下からも確認できるほど盛況であるらしい。
 しばらく無縁だった雰囲気を遠目で確認し、ランルは近衛たちに囲まれながらひっそりと溜息をついた。肩で切り揃えられた髪であるが、今は頭の上で固く一つに纏められている。元々滑りやすい髪質なので、既に一房が解けていた。
 ユーハが嘆くわね、と。ランルは解けた髪を耳に掛けながら瞳を伏せた。
 手首を持ち上げると直ぐに細かな装飾品が音を立てて、ランルの存在をその場に示す。肩に掛けた柔らかな羽織が夜に透けて風に舞い、近衛の外套を撫でた。
 セフダニアの結界が揺らいだのは先日の事だ。
 通常、通り抜ければそのまま人物たちの詳細が評議会へ伝わるように施されている結界。その結界を少々捻じ曲げ、評議会へと伝わらぬように細工を施して通り抜けた、幾つかの気配。そんな事が出来るのは同じ宝珠を持つ者に限られている。だからあの時に感じたのはサウスたちの気配だ。ガラディアから出立した日を逆算しても合っている。
 真っ直ぐにカナンへ向かうとばかり思っていたランルは、意外な場所で伝わってきた彼らの存在に心を動かされた。サウスのいない生活に慣れようと奮闘しているのに、それを嘲笑うように音信を伝える彼に腹を立てた。
 ――今ならばまだ、セフダニアへ行けば会える。
 部屋を出てから粛々とした歩調を守っていたランルだが、今では踵でガツガツと床を抉るような歩調になっていた。近衛たちの視線がランルに向けられるがランルは気付かない。いつもなら側にいる女官のユーハがたしなめるのだが、彼女はいない。今回の夜会は一定以上の身分がなければ出席できないものだからだ。
 会場に近づくにつれて華やいだ人々の声も流れてきた。誰もが楽しげな雰囲気に満ちていて、ランルは更に気鬱な溜息を洩らすのだ。
「そろそろいいわ」
 階段を上がって渡り廊下を抜ければ会場まで目と鼻の先である。
 躊躇う様子を見せた近衛たちに、ランルはニコリと笑って輪から抜け出した。髪を飾るレースが彼らの武具に絡まりかけたが、ランルは身軽に体を捻って回避した。
「ではね。後は通常の勤務に戻って頂戴。ヨールを見かけたら会場に顔出すよう言っておいてね」
 一番前を歩いていた近衛にポンと言い置いてランルは一人で歩き出した。
 サウス直属の上司であったヨールには、評議会から降格処分が言い渡されていた。国の人事にまで関わる評議会に、ランルは冷静に反論してその命令を棄却した。軍の人事を管理する者達へその事も伝えた筈であるけれど、ランルはヨールとまだ一度も顔を合わせていなかった。いい加減に息が詰まりそうだ。
 冷たい風に体を震わせて渡り廊下を抜ける。会場から漏れる明かりで星は一つも見出せない。
「最近は夜が長いわね……」
 呟く声は誰にも届かない。
 立ち止まったランルは背後から視線を感じて苦笑した。近衛たちはランルが警備兵たちの所へ辿り着くまで監視するつもりなのだ。
 ランルは階段を上り、渡り廊下を渡りきった。角を一つ曲がって警備兵たちを見出す。お疲れ様、と声を掛けようとしたが、彼らの傍に小さなエリオスが立っている事に気付いて目を丸くした。
「ランル姉さま」
 エリオスは顔を覗かせたランルに笑顔で駆け寄った。駆け寄る勢いそのままランルに飛びついて、ランルは彼を抱えて僅かに後退する。彼は日増しに成長し、今では抱えるのも重い程だ。
 ランルはエリオスを抱えながら声を失くしていた。ランルに気付く前、空を見ていたエリオスの無表情が忘れられない。初めて見るエリオスの表情が知らない男に思えて戸惑った。
「エリオス?」
「寒くはありませんか? 今日のランル姉さまのエスコートは僕に任されたんです」
 無邪気な笑顔でエリオスは喜びを顔に出す。彼はランルと同様に飾り立てられていて、幼い体には少し重そうである。
「貴方こそ寒くはないの? 幾らエスコートを任されたからといって、外で待ってるなんて」
 抱いたエリオスの肩は小さくて、柔らかな頬は赤く色づいていた。
 ランルは控え室の入口に立つ兵に視線を向ける。彼らは慌てたように頭を下げ、それを見たエリオスが次に慌てた。
「違いますランル姉さま。外で待つと言ったのは僕なんです」
 エリオスは体が強い方ではない。子供なら誰もが通る道なのかもしれないが、エリオスは周囲の子供に比べて頻繁に熱を出している。カルミナ二妃もそれがある為、エリオスの体には何よりも気を配って神経質になっている。幼いながら、エリオスもそれを分かっている筈である。
 なぜ、と視線で問いかけたランルは、エリオスの視線が動くに合わせて自分もそちらを見た。
 王宮の中心よりも少々ずれた位置にある広間であるが、高さがある。いつもであればガラディア王家の庭を突き抜けて、向こう側に広がる川まで見渡せる。しかし今は夜の闇に沈んでおり、木々の影が浮かぶだけで何も見えない。川の向こう側にあるセフダニアも闇に沈んでいる。
 エリオスはセフダニアを見ていたのだろうか。
「時折、光が煌くように感じたんです」
 エリオスを抱えたまま控え室に入ったランルは、彼を椅子に下ろしてそんな声を聞いた。エリオスはまだ何かを見ているように、視線を外へと向けている。今はもう扉も閉めてしまい、外は見えないはずであるのに。
「……貴方の瞳には何が映っているの?」
 以前、翠沙がエリオスの瞳を褒めていたことを思い出して訊ねた。
「とても……とても哀しくなるものが、もがいているんです。僕はそちらに行きたい。助けてあげたい。でも、僕の声は届きません」
 柔らかく色づいたエリオスの頬を涙が伝った。エリオスは小さな唇を震わせながら俯いてしまう。その事に驚きながらランルが抱き締めると小さな手で強くしがみ付く。エリオスの体は熱を持ったように熱い。純粋な声はランルの心まで熱くさせた。
「誰か気付いてくれるでしょうか。光は遠く離れてしまいました」
「……貴方の声は、私に届いているわエリオス。泣かないで。あちらには今スイサたちがいるはずだから」
 そうは言いながら、ランル自身も身の内に溜まっていく不安に眉を寄せた。サウスは大丈夫だろうか、そんな事にばかり囚われる。
「さぁ涙を拭いて。エスコートしてくれる紳士が泣いていたんじゃ様にならないわ」
「はい、そうですね。スイサ姉さまがいらっしゃるなら大丈夫ですよね」
 幼い顔立ちで精一杯微笑んで、エリオスは椅子から立ち上がった。兄弟の欲目を差し引いてもエリオスは非常に可愛らしく、ランルは笑みを零す。
 彼が涙を拭いた所でカルミナ二妃が顔を出した。
「諸侯らが待ちわびておるぞ。早うしぃや」
 エリオスの様子に怪訝な顔をした彼女であるが、当のエリオスから無邪気な笑顔と返事を向けられて何も言えない。その瞳が探るようにランルを捉えたが、ランルもまたエリオスに倣って笑顔を見せた。毒気を抜かれたようにカルミナ二妃は立ち去る。
「さあ、私もこれから頑張らないとね」
「はい」
 差し出した手を力強く握り返され、やっとランルの半分ほどに身長を伸ばしたエリオスは頷く。
 そうした二人の姿を目にすれば、誰もが微笑ましく思うであろう事を胸中で思い。ランルは純粋に喜んでいるエリオスの姿に、幾つかの苛立ちを紛らせた。

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 クーリュエンの腕を掴んで路地へと入る。包む闇の濃さに瞳を細める。川岸にいるかのような寒さに息が白い。
 無人となり閑散としたセフダニアの様子を覚えていた響希は、路地から出た途端に広がる光景に愕然とした。
 炎とも電気とも思えぬ淡い光が、様々に趣向を凝らしたガラスの中に封じられている。光は仄かに明滅を繰り返し、大きな器の中では綿毛が風に吹かれるように舞い踊っている。
 柔らかな曲線美を描くガラスの先端から零れる光が、セフダニア城下全体を穏やかな光で包んでいた。各々の扉付近に取り付けられている様は、まるで電灯の代わりに思えた。
 響希は幻想的な風景に絶句し、双眸を見開いて眺めていた。
「滅びる前のセフダニアじゃこんな夜が主流だったんだ」
 立ち止まった響希の隣に並んだクーリュエンが瞳を細めた。懐かしく、決して戻らないそれらを慈しむように零れた声音だった。
「これも、宝珠の影響……なのか?」
「俺には良く分からない。でも、あの日から夜になるたび、セフダニアは蘇る」
 クーリュエンの声は苦しげだった。響希の腕を掴む手に力を込める。
 響希が彼に視線を向けると、クーリュエンは必死で唇を引き結んでいた。まるで泣き出しそうな雰囲気である。
「だから、子守を俺の専門にしてんじゃねぇと……」
 誰に向けての呟きか。響希はうんざりと息を吐いて歩き出した。
 クーリュエンは瞳に焼き付けるように風景を眺めた後、響希を追いかけた。今度こそ訣別するぞという意志なのか、真剣な表情をした彼を横目で見やり、響希は足を速めた。
 翠沙やサウスとガラディアを出て、セフダニアで何度も夜を明かした。けれどその時にこのような現象は一度も無かった。もしあればサウスが黙っていなかっただろう。だから、この現象はセフダニア城を中心とした一定地域にのみ見られる物と考えていいだろう。
 響希は眉を寄せた。
 国を出るつもりでセフダニア城に背を向けるように歩いていたのだが、立ち止まって振り返る。クーリュエンの視線が突き刺さるが説明はしない。響希は城を凝視する。
 セフダニア城にも様々な光が灯され、それを囲う森も光を帯びていた。
 幻想的な風景だ。水に淡い水彩絵具を落としたように優しい色で森が彩られている。数瞬ごとにゆっくりと色を変え、まるで森が血を通わせて生きているように感じられる。
 ランルとセフダニアで出会った当初も夜だった。けれどその時には何もない、薄暗い森しかなかった。もしこのような幻想的な森が広がっていたら、李苑が歓喜の声を絶叫するだろう。
 セフダニアが夜毎蘇ると言うのなら城の中はどうなっているのか。昨日まで城の中、そして森の中にもいた筈なのに、なぜ何も気付けなかったのか。評議会の者達は今も活動を続けている筈だ。しかし何の騒動も起きていないということは、城内では気付かないようになっているのか。
 響希は眉を寄せて躊躇った。城へ行こうか行くまいか。
「……クーリュエン」
 響希はクーリュエンに声をかけた。彼は放さないとでも言うように響希の腕をガシリと掴み、ぴったりと寄り添っている。見上げてくるのは不安に揺れる蒼い瞳。それは淵底近くで漂う青に良く似ていた。闇に近似した境界の色。
「……セフダニアを出るには何日かかる」
「どこを通っていくかによるけど――最短で一週間かな」
 最初に口にしかけた言葉を、響希は寸前ですり替えた。
 質問した辺りのことはランルやサウスなどと何度も交わした会話の内であり、実際に響希も歩いてセフダニアに入った為、熟知していたのだが。響希は「そうか」と頷くに見せて再び歩き出した。
 クーリュエンは怪訝な顔をしたが、響希は黙々と白夜の中を進んでいく。
 絵具の白を溶かしたような風景は、吹けば飛ぶように儚く脆く見えた。