第六章 【八】

 夜が終わらない。
 そんな馬鹿なとは思うものの、かなりの距離を歩いて、都心から大分離れても、月の位置は相変わらずの場所にあった。夜の闇も同じ深さで漂っている。更には、夢か幻かと思っていたセフダニアの様子も変わらなかった。
 クーリュエンに案内されるままセフダニアの国境へと近づく。何度か野宿を繰り返して目覚めようと、夜が朝になる事はなかったのだ。
「あと少しで国境だ」
 クーリュエンが告げた。彼は集落を離れてからずっと響希の袖を掴んでいる。まるで子どものようだと思いながら、響希はその手を振り払わなかった。
 クーリュエンの蒼い瞳は未知なる期待に輝いて見える。
「そうか」
 響希はクーリュエンを見下ろしながら頷いて、視線を外した。
 遠くを眺めすかして見ても、セフダニアの状態は変わらない。玄関先の外灯は一度も明かりが消えず、絶えず白光が漂っている。夜の静けさを保ち続ける。
 翠沙やサウスと歩いた時は廃墟でしかなかった。しかしクーリュエンと歩く今、同じ場所には店が軒を連ねている。商品棚に布が掛けられているのは夜だからだろうか。朝になればそれを取り払い、そのまま商売が出来そうな雰囲気である。
 延々と続く夜に、案内人であるクーリュエンは最初怯えた様子であったが、何日かすると慣れたのか、怯えも消えていた。
 変わらないことは、彼が荷物を手放さないこと。そして響希から離れないこと。腕が駄目なら外套でもいい、とクーリュエンは必ず響希の側にいたがった。
 響希は複雑な心境だった。相手が年端もいかない子どもというなら分かるが、クーリュエンはどう見ても義務教育を終えた青年である。浮かぶ表情は頼りなく思えるが顔立ちは精悍さを漂わせ、しっかりとした体格はこれからグンと伸びるだろうと容易く予想がつく。そんな彼から子どもの様に頼られると妙な気分である。
 普段であれば『鬱陶しい』の一言で一刀両断する響希であるが、この異常事態で多少の心細さは感じているのか、あえてクーリュエンを遠ざけようとはしない。眉間の皺がいつもより多く刻まれているだけで、クーリュエンにとっては幸運である。
 クーリュエンから国境へ近づいたことを告げられた響希は改めて周囲の様子を観察した。
 相変わらず白光が立ち込め、霧のように判然としない周囲。もしかしてその光は詳細を悟らせない為にあるのではないかと穿った見方をしてしまう程だ。
 響希は眉を寄せ、瞳を細めて眺める。磨き抜いた黒曜石のような瞳に鋭い光が閃く。その様は、たとえ腕に覚えのある屈強な男性であっても慄きそうなほどだ。
「姐御?」
 恐る恐るといったていを隠しもしないクーリュエンの声が上がった。
 不快な呼称に響希は拳を握る。ひとまず隣を殴って舌打ちする。
 響希の視線は周囲を観察し続けていた。サウスと翠沙と、この場所を歩いた事は記憶に新しい。誰もいない朽ち果てた町並みだった筈が、今ではしっかりと人の手が入っているように生活感が溢れている。
 響希は眉を寄せた。光が灯る家々を覗けば生きている人間がいそうである。
 ポツリと響希の頬を何かが掠めた。
 見上げた響希の髪に、鼻に、間隔を徐々に狭めて降ってくる。
「――雨?」
「うわっ」
 クーリュエンが慌てたように響希を引っ張る。近くの軒下で雨を凌ごうと言うのだろう。響希にも異論はなく大人しく従ったが、何かが腑に落ちないような気がしていた。
 連れて行かれた民家の軒下で、響希は手の平を空に向けた。
 こちらの世界に来てから初めて“雨”に触れた気がする。
 響希は晴天である夜空を見上げた。雲ひとつなく、月は細く弓なりにしなり、星は小さく存在を主張している。雨に紛れてそれらは判別し難くなっているが、それだけである。どこからこの雨が降り注いでいるのだろうと、響希は純粋に疑問に思った。もしかしてこちらの世界ではこれが普通なのだろうかと思ったが、隣でクーリュエンがポカンと間抜け面を晒しながら空を見上げているのを見て考えを改めた。
 ヒヤリと嫌な焦燥が胸を掠める。
 雨が降る前に感じた匂い、だ。雨に消されてしまったが、意識して呼吸してみると微かに残っている。甘ったるい、吐き気を催す匂い。
「おい。国境までは直ぐだと言ったか」
「あ、ああ。セフダニア領域はこの町外れまでだ。あとは山とか荒野とか、評議会が管理している土地が広がってるだけ……」
 思ってもみなかった所で”評議会”の名を出され、響希は剣呑な笑みを浮かべた。クーリュエンが一瞬言葉を切って、凝視する。
「ではこの町から出れば、馬鹿馬鹿しい幻影からも抜け出せるという訳だ」
 石畳を濡らすだけだった雨はいつの間にか強く激しいものへ変わっていた。まるで滝の瀑布であるかのような轟音を響かせ、石畳の上を水流が渦巻き出した。一呼吸する間に水位が上がる。
「走るぞ」
 響希は短く告げると、反応を待たぬまま軒下から走り出た。背後で驚くような声が上がったが止まらない。小さく振り返った響希は、クーリュエンがしっかりと側についている事を確認して軽く驚いた。そんな近くにいても雨音に声が掻き消されてしまう。
 鼻腔に絡みつく甘ったるい匂いは警告の証。
 サイが暴走させた宝珠の影響は、完全には拭えていなかったのだと。

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 ガラディアは血の広がりを好まず、一夫一妻制度を保ってきた国だ。
 しかしながら何事にも例外はあるもので、崩御した前王ファーナン=ガラディア=サヴュトルは二人の王妃を娶っていた。第一の王妃、ライール=ヴォーレンとの間には女の一子しか誕生しなかったからである。
 宝珠の歴代管理者たちを振り返ると男である事が多かった。
 ”宝珠の管理者には性別で選ばれる”などという根拠は無いが、失う事を恐れた者達は苦肉の策として第二の王妃、ファーナン=カルミナを王族に迎え入れた。
 かくして生まれたのはファーナン=エリオス。待望の男児だ。
 今年四歳を迎えるエリオスは周囲に愛され、どんな事にも素直に従順し、綿が水を吸い込むように知識を吸収していく。密かに影では神童と呼ばれていたが、誰が聞いても納得できるものを、エリオスは備えていた。
 控え室と広間を仕切る幕を抜けたランルは、手を繋いでいたエリオスを見下ろした。
 母が違うとは言え、同じ父を持つエリオス。ランルは彼を本当の弟のように思い、接していた。カルミナ二妃や周囲がどう思おうと、エリオスも本当の姉のようにランルを慕っている。
 生まれたその瞬間から周囲の賛辞を浴びてきた子供。
 エリオスと繋ぐランルの手に、知らず力が込められた。エリオスは愛らしく小首を傾げ、丸い瞳でランルを見上げる。
「どうされましたか?」
「緊張しているの。今日が初めての顔合わせですから」
 ランルは微笑んだ。全くの嘘ではないが、真実でもない。
 しかし幼いエリオスは素直に納得して「そうですね」と相槌を打つ。
「僕にはまだこういう事が良く分かりませんけど、ランル姉さまが苦しくなったら、いつでも僕が助けます。ランル姉さまを補佐するのが僕の目標なんです」
 瞳を輝かせたエリオスは会場へ繋がる階段をゆっくりと下りた。待ち受ける貴族達が固唾を呑んで二人の到着を待つのだが、本人達は会場の様子などどうでもよく、ただ仲睦まじく互いに談笑を交わす。ランルはエリオスの足がもつれぬよう、彼に気付かれないようエスコートしながら少し腰を曲げた。
「ではいつか、私の王佐を頼みたいわね」
「ええ。許されるのならば、僕は“勿論”とお答えしますよ」
 二人は誰にも会話が洩れぬよう小さな声で、クスクスと笑いあった。
 この会場内でエリオスは、婚約者選びをするランルに近づける唯一の異性であった。彼女を会場まで導く役目を与えられていたが、会場へ着いてしまえばエリオスの役目は終わる。後は会場にひしめく数多くの婚約者候補に渡さなければいけない。
 階段下で待ち受けていたエルミナ二妃に並ぶようにするとエリオスはランルの手を放し、ランルはエリオスに微笑みを向けて礼を述べる。そうしてカルミナ二妃に視線を向け、にじみ寄るように囲みを狭める婚約者達に視線を向ける。
 カルミナ二妃の社交辞令で貴族達に橋渡しが行われた。エリオスはカルミナに抱えられて去って行く。その途中、ランルに手を振る姿が愛らしくてランルは微笑み、彼に応えて手を振った。
 ――さぁここからは私の役目。
 ランルはそう、気合を入れ直した。
 けれど。
 今日は単なる顔見せだった。当たり障りのない会話を交わしながら、名を上げた婚約者たちの顔や名前、立場を覚えるだけの筈だった。宝珠に関しての知識を含ませ、自分を軽んじるなと牽制するつもりだったのだ。
 それなのに、どういう成り行きでそのような話になってしまったのか。
 ランルの婚約者として名を上げた者の中からでは無かったような気がする。彼らの世話をする取り巻きの一人から、世間話のように持ち出された話だ。
「……それは、本当の事なのですか?」
 ランルの顔は色を失くしていた。
 それまで誰に対しても気を配り、平等に話を持ちかけて引き出し、他に差がないようにしていたランルの異変だった。
 ランルの興味を引くことが出来た。
 実際に話を持ち出した男は饒舌に話し出した。彼の主人が咎めるような視線を送ったのにも気付かず、彼はランルの視線を自身に向けることに夢中だった。
 ユーハたち女官の苦労は報われている訳だ。それが幸か不幸かは、今となっては判断できない事であるが。
「ええ。旅人からちょいと聞きかじった話なんですけどね。夜ともなると、セフダニアは復活し、再興されたように活気付くんでさ。噂によれば、セフダニア前王の亡霊までも現れるとか」
 パシャリ、と。
 ランルは自分がグラスを傾け、アルコールを零していた事に気付いた。
 その様子に男はさすがに不味いと悟ったのか、饒舌から一転、無口となった。今が点数の上げ時ですぜと主人の脇腹をつつく男だけれど、ランルはその前に体を翻していた。周囲に集っていた男たちが驚いた声を上げる。
 ランルは視線でカルミナ二妃を捜した。彼女はエリオスを抱えて去ってから、まだ戻ってきていないようだった。彼女の侍女を務める者たちも会場から姿を消している。
 ランルは他に話の出来そうな者は、と捜したが、生憎と誰も見つからなかった。
「サラン皇女。セフダニアの噂がお気に障りましたか?」
 零れたグラスを握り締めたままだったランルは、それを取り上げられて振り返った。
 先ほどランルにセフダニアの事を話した男の主人だった。
 端整な顔立ちと揺れる金の髪。サウスが良く武術に秀でている立ち姿であるのに対し、男にはそういった要素が感じられなかった。屋敷の中でただ学問に打ち込んでいる様を思わせる。まさに絵本の中の王子様といった風情に、周囲の女性たちの視線を一身に集めているようだった。
 ランルは自分が取り乱したことをようやく客観的に見つめ、息を整えた。強張った顔で体ごと振り返る。
「ええ。その噂が本当に起こっている事ならば、宝珠の管理者として見過ごす訳にはいかない出来事でありましょうから」
「なるほど。しかし彼の言うことはいつも冗談ばかりでしてね。その場を和ませようと、嘘八百なのですよ。私が言えることではありませんが、先ほどの言葉は聞き流して頂きたい。そして、私たちともう少し、交流を深めては頂けませんか」
 ランルは彼の言葉に周囲を窺った。他の候補者たちが真摯にランルを見つめている。先ほど、ランルにセフダニアの事を話した男は小さくなって輪の外側へ隠れていた。
「さぁ」
 男はランルのドレスについたアルコールをサッと払った。
 ランルはもう一度会場を見渡す。危機感を誰にも告げることが出来ず、ただ焦燥を募らせる。
 ランルは青年の手を取った。