第六章 【九】

 渦巻く水流は「邪魔」の一言に尽きる。一歩踏み出す度に飛散する水は容赦なく跳ね返る。元々豪雨の中を走っているのだから、服は既に重たく濡れている。たとえ跳ね返って服が汚れようが、そんな事に頓着する響希ではない。
 けれど走りにくさは別だ。足首よりも上に来た水位では、水から足を抜くのも一苦労。激流とも言える流れに足を取られ、転びかける事もしばしばだ。
 この分では荷物も水浸しだろう。物は大して入っていないが、布製の為にかなり重くなる。
 響希は険しい表情のままひたすら前を見て走っていた。時折、外套を引っ張られるような感覚がある。クーリュエンがまだ外套を握り締めているのだろう。振り返る余裕もないので、その感覚だけでクーリュエンが無事に隣にいると推測する。
 一つ、二つ、街外れへ行くに従い民家の明かりは絶えていく。家屋自体が少なくなり、隣家との間隔も大きくなる。丁寧に舗装されていた街道が徐々に、手抜きのように古びてきた。
 行く先に荒野が見出せた。
 降り続ける雨は街道を駆け抜け、全てがその荒野へ向かっているようだ。地盤が低いのだろう。街道の端に側溝はあるが、この雨では間に合わないらしい。
 荒野を目前にして響希は立ち止まった。
「でっ」
 下を向いて走っていたのか別の理由か、後ろからついてきていたクーリュエンが響希にぶつかった。勢い付いていた為、まるで体当たりだ。クーリュエンは水に足を取られたらしく、派手な水飛沫を上げて尻餅をついた。
「何だよ。何でいきなり」
 素早く立ち上がり、クーリュエンは鼻を押さえて訴える。
 立ち止まったままの響希は彼を一瞥した。視線を合わせ、顎をしゃくって荒野を見るよう促した。
 クーリュエンは示されるまま視線を動かし、唖然とする。
 街から荒野へ続くその境界で水が停滞していた。まるで板でも立てているようだ。とめどなく流れてくるので水位は上がる。
 セフダニアを包む結界のせいだろうかと思ったが、響希は直ぐに否定した。結界を維持するには宝珠が必要だという言葉を思い出した。肝心の宝珠はセフダニアに無いのだ。それならこれは一体なんだろうか。
 先ほどより強まる雨の中で、響希は街と荒野の境目を見つめる。睨むと言った方が正しい眼光だ。
 瞳に意識を集中すると、そこに結界が張られているのが分かった。セフダニア城の周辺を囲んでいた結界と等しい物を感じる。宝珠による物かどうかは分からないが、結界が張られている事は間違いないらしい。
 さてどうしようかと腕組みをした所で変化が現れた。
 白光が満ちる周囲に、色を帯びた光が舞い踊ったのだ。まるで鬼火だ。
 視界の端でクーリュエンが顔を強張らせた。それを見ながら響希は腰から剣を引き抜いた。胸元の宝珠が微かに、共鳴するかのように鳴動したのが不愉快だった。
「このまま抜けてもいいが――納得しないだろうからな」
 誰に向けての呟きなのか。響希は笑みを浮かべながら警戒する。
 上がった水位が揺れ、響希が眉を寄せたのも束の間、波間から滲むように影が浮かんできた。人影は小さい。子どもの背丈だ。
「キョウキ!」
 容赦なく剣を振り下ろそうとした響希は、クーリュエンの抵抗にあって止められた。
「何をするっ?」
 剣を止められた響希は叫んで振り解く。その間に影は形を取った。
 水から切り離された影は黒く染まったまま足を出し、その闇が徐々に払われていく。どこかで見たことのある顔へと変化していく。
 城近くで襲ってきた子どもの一人だと悟った。
「こいつらは……っ」
 鬼火が舞い踊る中でクーリュエンの悲鳴が上がった。
 響希に掴みかかることで彼の肌を覆っていた外套が捲くれ、黒い肌が露になる。そこに雨が降りかかると、ジュウ、と硫酸でもかけられたかのように嫌な音がして、クーリュエンはその場に膝を折った。ガクリと勢い良く水に沈む。
 まるで煙幕だ。
 クーリュエンの黒い肌と化学反応でも起こしているのか。彼の肌と雨は結合して溶けるらしい。過程で起こった煙が響希の視界を奪い、クーリュエンの苦しげな呻き声だけしか分からなくなる。
 水から湧き出た子ども達が周囲を取り囲み、様子を窺っていた。
 雨が瞳に入った響希は舌打ちする。嫌な焦燥ばかりが募って見えてこない。
 ひとまずクーリュエンを立たせようと屈んだ響希は双眸を瞠った。
 水の中に突いていた彼の両腕が消えていた。外套の袖は、腕がない事を示すように潰れており、水流に遊ばれて捻られている。
 クーリュエンは悲鳴も出せないのか、両膝をついたまま震えるように硬く瞼を閉じている。
「……おい?」
 響希の脳裏に浮かぶのは、彼の姉だったという腕。
 あんな風に消えるのだろうか。
 思った響希は強く否定した。
 助けを求められたのだ。むざむざ消えるのを待っている訳にはいかない。一度助けると決めたのだから、今更見捨てるなど許さない。
 響希は自分に強く言い聞かせて屈んだ。
「クーリュエン!」
 彼の脇腹に腕を差し入れ、抱えるようにして立ち上がらせた。クーリュエンは意識が虚ろなのか、足に力が入っていない。酷く重い。服が吸った雨のせいで更に重く、響希もろとも倒れかかる。
「……最初に、さ」
 聞こえた声に視線を向けるとクーリュエンが薄く目を開けて笑っていた。
 既に両腕は消え、両足も存在を薄れさせている。痛みが尋常ではないのか、青い顔にはびっしりと脂汗を浮かべている。彼の視線は子ども達に向けられていた。
「姉貴たちを連れて国を出ようとしたんだ。けど、こんな風にいきなり夜が来て……化け物が現われた。人間の形を無理矢理に保とうとした、腐った化け物だった」
 響希はその話を聞きながら結界を破ろうとした。クーリュエンを抱えているより外へ出て、水を流した方が早い。しかし結界は僅かにたわんだだけで破れない。まるでゴムのように手ごたえがない。
「雨で視界が悪かった。俺が斬ったのは姉貴だった。雨に倒れて、血が流れるのが早かった。助けなんて誰もくれなくて、俺は化け物たちに囲まれたんだ。姉貴と別れて必死に逃げて隠れて、時を見て合流するつもりだった。でもそれより早く、城から凄い圧力みたいな風が吹いて来てさ。気付いたら俺の手は真っ黒になってて。戻ったら、姉貴も街の奴らも子ども達も、全員消えてた。ただ、俺が斬った化け物たちがそこに倒れてて――そいつらは見る間に形を崩して――下から人間が出てきた。子ども達だった。俺が斬ったのは、連れ出そうとしてた姉貴とか子どもとかでさ」
 響希は振り返ってクーリュエンを見る。彼は諦めきったように全ての力を抜いて、倒れようとしていた。その背中に響希は腕を回し、なんとか倒れるのを防ぐ。クーリュエンが小さく笑う。
「どうしてだろう。俺、キョウキ達が城に入るのも見てたんだ。緑の女と、紫の女も一緒にいたよな。王を倒してくれるんなら誰でも良かった。キョウキ達が城に入ってから直ぐに……俺の全身はこんなになっちまった」
 声は消え入りそうに小さい。声量は変わっていない筈なのに聞き取り難くなってくる。
 響希はクーリュエンを抱いたまま歯噛みし、剣の柄を強く握る。周囲に向けて力強く一閃する。
 響希たちを取り囲むようにただ立っていた子ども達が切崩された。
「キョウキ!」
 水へと還った子ども達を見てクーリュエンが叫ぶ。彼の両足はまだ消えていないが、時間の問題だ。
 響希は非難の声を、鼻を鳴らせて聞き流す。
 同胞とも呼べる子どもたちが斬られたのを見て、ただ傍観していた他の子どもたちが瞳を輝かせた。爛々とした瞳を響希に向け、小さな唇には純粋からかけ離れた笑みが浮かぶ。我先にと響希に向かって走り出した。
 やめろ、とクーリュエンの叫びが響いたけれど、響希は一笑に付して向かい来る子どもたちを斬り払う。剣閃は容赦も躊躇いもない。瞬く間に勝負がついた。
 水の中に投げ出されていたクーリュエンは、累々と横たわった子どもたちを呆然と見つめる。
 響希は剣を鞘に戻した。子どもたちは斬っても血も流れない。クーリュエンの非難は一瞥しただけで退ける。
「自分が消えかかってるっていうのに呑気な奴だな。他人のことは二の次だ」
「信……じらんねぇ」
「死にたいから掛かってきたんだろう。狂気のみに捕らわれて、他のことも考えられなくなるくらい」
「だから、俺は殺すなと……っ」
「それで生きる術が奴らにあったなら俺も躊躇ったかもしれないがな」
 クーリュエンは悔しげに息を呑む。
「お前がしていたことは単なる問題の先送りだ。何も解決しない。苦しみばかりが育つだけだ」
 響希は落とした荷物を拾って雨を払った。見上げると雨はまだ勢いを弱めない。鬱陶しいばかりだ。
 結界を振り返ってみたが相変わらずだ。
 剣で斬ろうかと思った時、響希は結界の向こう側に誰かの影を見た気がして瞳を細めた。
 単身で馬を駆り、鮮やかな紫色の髪を翻すのは。
「……ランル?」
 まさか、と口中で呟いた。けれど見る間に近づいてくる影は本物だった。
 結界の前で馬を下りたランルは驚いたように瞳を丸くする。
「どういうこと?」
 硬い声が響希を打った。