第六章 【十】

 ランルは結界に手を伸ばした。脆く揺れているが、宝珠で張られた確かな結界だ。ランルは眉を寄せながら響希を睨む。
「どういうこと?」
 その一言で響希は我に返った。久しぶりに見るランルの姿だ。あまりにも場違いな人物だったため、まるで夢でも見ているような気分にさせられていた。
 響希に支えられているクーリュエンは無気力な様子を見せていたが、ランルの声に顔を上げ、彼もまた驚いたように双眸を瞠らせた。息を呑んで動こうとしたようだが、その行動は途中で諦められたようだった。
 彼の様子を視界の片隅に捉えていた響希は不思議に思いながら気付いた。クーリュエンはランルの顔を知らない筈だ。彼は先ほど、響希たちを以前に見かけた事があると告げた時、ランルの事には触れなかった。自国の皇女であればまだしも、他国の皇女となれば知らない方が当然なのかもしれない。そう思って響希は彼の話を聞き流したのだ。しかし今、クーリュエンは明らかにランルを見知っているかのような反応を示した。一体何に驚いたというのだろうか。
 口を開こうとした響希だが、その機会は失われた。
「キョウキ。貴方は何を抱えているの?」
 響希は視線をランルに戻した。剣呑な表情だ。緊迫感がランルを包んでおり、妙な迫力を醸していた。これまでとは全く違う彼女の雰囲気に、響希は眉を寄せながら「これは本当にランルだろうか」と訝った。それほど別人に思える。
 ランルに言われるがまま、響希は自分が支えているクーリュエンに視線を落とした。彼はランルの視線に貫かれたかのように震える。視線を逸らし、手足を失い、青褪めた表情のままで。
 響希は首を傾げた。何がランルを不愉快にさせているのか分からない。
 再び顔を上げた響希は、ランルの背後から二つの影が近づいて来るのに気付いた。ランルと同じように馬を駆り、雨の中で朧だった輪郭を確かにさせてくる。簡単な武具を身につける彼らはガラディアの兵だと知れた。新たにランルの近衛に任命された者たちだ。外套を留める金具に、ガラディアを表す紋章が刻まれている。
 ランルより数分遅れて辿り着いた彼らは直ぐに馬からおりてランルに駆け寄った。ランルを見つけた安堵と、一人で勝手をされた苛立ちと。彼らの表情は複雑だ。
 諌めようと口をあけた近衛だが、その口から言葉が発せられる事はなかった。ランルの視線を辿り、そこに響希を見つけ。目の前に広がる光景に声を失ったのだ。唖然とした表情で、彼らは結界と響希を見比べる。
 ランルは追いついた二人を一瞥しただけで響希に視線を戻した。
「とりあえず、この結界を解いて頂戴」
「って言われても、俺だってそうしたいんだが……」
 響希は言葉を濁した。この雨を抜けなければクーリュエンの命が危ないのだから、結界を解きたい気持ちは響希の方が強い。しかしランルにそれは伝わらない。
 ランルは視線をクーリュエンに移した。険しい紫紺の瞳が糾弾する。
「セフダニアの、サイ王」
 ランルから零れた言葉に響希は双眸を瞠った。
 ランルの視線は真っ直ぐにクーリュエンを見下ろしている。響希もその視線を辿ってクーリュエンを見たが、そこにはサイ王とは似ても似つかない黒い髪がある。少々赤く焼けてはいるようだが、サイ王の明るい髪色には及ばないクーリュエンの黒髪だ。
 クーリュエンも目を丸くする。両腕を失くした姿で響希に身を預け、なぜそのような事を言われたのか分からないようだ。ランルの険しい視線を受けた彼は萎縮するように心持ち体を引いた。その間にも彼の両足は形を崩していく。
 響希は焦る気持ちを覚えてランルを仰いだ。
「ランル。ひとまずこの結界を」
「キョウキ。彼の荷物を外しなさい」
 有無を言わさぬ強さで響希の言葉は遮られた。
 響希は今日までランルのそんな態度をあまり目にしてこなかったため驚き、命じられるままクーリュエンの荷物を手にした。
「やめろ!」
 我に返ったクーリュエンが抵抗したが、瀕死の彼には何もできない。叫ぶ事がせいぜいだ。響希は躊躇うことなく荷物を奪う。袋の口を開ける。袋を引っくり返し、全てをぶちまけるように袋を振る。布製の袋は雨を吸って重くなっていた。旅に必要な諸々が水の中へ沈み――最後に。ひときわ大きな音を立てて沈む物があった。
 響希は絶句した。
 荷物を奪われ、水の中に尻餅をついていたクーリュエンは悔しげに唇を噛み締めながらそれを見た。そして耐えるように視線を逸らす。俯いた。
「……姉の腕、か」
 クーリュエンの家で見た姉の腕がそこにあった。
 包帯は全て払われて生身の腕が晒されている。前に見た時は付け根から黒く染まり出していたが、今は腕全体がどす黒く染まっていた。水に沈んだ腕はコポコポと小さな気泡を吐き出し続ける。
 これをどうしたらいいのか。響希はしばらく腕を見つめていたが、息を呑んだ。
 水中で静かに形を崩し始めていた腕が、一人でに動いたのだ。人差し指を上げ、中指で地面を叩き、まるで生きているかのようにオロオロと逃げ出した。ここにいては危険だと判断したのかもしれない。
 響希は驚いて体を引いたが、目の前で逃げようとする腕を見た瞬間、咄嗟に足で踏みつけていた。クーリュエンの非難の声が上がる。
「キョウキ!」
 響希は姉の腕を足で踏みつけたままクーリュエンに視線を移した。
 どうすればいいのか分からない。しかし、このまま腕を逃がしては取り返しがつかなくなると直感が告げている。薄気味悪い、単なるホラー映画にしかならないような出来事だが、選ぶ道は一つだ。足の下で何とか逃げようとする手の動きを感じ、更に強く体重をかける。
「罪悪感と自分の命と、どちらを選ぶかだな」
 響希は抜いていた剣を強く握った。剣先は真っ直ぐ、足の下でもがく腕に向けられている。
「この国を抜ければ! 全部終わるんだ!」
 何を根拠にそのような事を信じているのか、クーリュエンは必死に叫んだ。
 彼の両肩は雨に濡れ、輪郭を朧にしている。目の前にいるのに、今にも消えてしまいそうに存在が薄い。時間が惜しい。
 響希は剣先を腕に定めたままクーリュエンを一瞥して薄く笑った。
「終わるのはお前の命も、だろう?」
 クーリュエンはいまだ水中に座り続けている。立ち上がる足がもう無いのだ。それでも何とか響希を止めようともがき、水の中に倒れる。姉の断末魔とでも言うように、悲鳴が上がる。
 響希は泣き叫ぶようなその声に眉を寄せながら手に力を込めた。最後の足掻きとばかりに抵抗を強める腕を、更に強く押さえつけ、剣で一突きした。
 ――腕の動きがピタリと止まった。吐き出されていた泡も止まった。
 その数秒後だ。
 視覚では確認できない場所で、宝珠による暴走の欠片が破裂した。
 爆発した思い出が響希の脳裏に焼き付けられる。
 李苑が助け出したサウスと共に引きずり出されていたサイの力の欠片。宝珠の暴走で既に全滅していた城下へと広がり、力の欠片は夢を張る。前王が健在で、サウスがいて、暗い感情が芽生える前の、幸せだった頃の夢を。
 滅びていく住民の中で、まだ完全に近い形を残して生きていたクーリュエンに目をつけた。消えた住民と同じく、彼の両腕は黒く染まった。彼の全身までも黒く染まり出したのは、サイによる物だった。
 彼に成り代わり生きたいと願った。彼の全身が黒く染まる時、サイとクーリュエンは入れ替わる。あと少しでクーリュエンの体は完全にサイの物となっていた。
 ランルが見たのは、クーリュエンの体に張り付くように執念を燃やしていたサイの姿。
「お前は、消えていなかったのか?」
 闇に取り込まれ、今もどこかで生きているのか。
 響希は足から力が抜けたように座り込んだ。バシャリと音が聞こえ、自分が水の中に腰を落としていることに気が付いた。見上げれば夕焼けが覗いている。雨は存在そのものが夢だったかのように消えている。風化した石畳だけが、雨の存在を教えるように濡れていた。
 首を巡らせれば先ほどまで幻想的な光を宿していた町並みが崩れていた。翠沙やサウスと共に通った時と同じ、廃墟だけが広がっている。
 結界は姉の腕と共に消失したらしい。ランルたちが近づいてくる。
 クーリュエンはどうなったのだろう。
 ようやく思考がそこに辿り着いた響希は、彼を振り返ろうとして視界が回った。
 飛びかかられたのだと気付いたのは、石畳に勢い良く背中をぶつけた時だ。
 クーリュエンが響希の胸倉を掴んで押し倒していた。戦闘に慣れた体は反射的にクーリュエンを突き崩し、反撃に移ろうとする――だが響希は途中で我に返り、寸前で手を止めた。クーリュエンの腕が細かく震えているのが分かる。彼が本気で殺そうとしたなら今の一瞬で響希は殺されていた。響希が許した唯一の好機だ。けれどクーリュエンはそう出来なかった。サイの妄執が消えたことでクーリュエンの体は元に戻ったようだ。消えていた足も腕も、元の肌色を取り戻していた。しかし力強い腕は今、頼りなく震えている。小さな嗚咽と共に、響希の頬に涙が落ちる。響希は倒されたまま静かに見上げた。
「国を出たいと願ったのはお前だろう。生きたいと願ったのもお前だ」
「そう、だけど……!」
 慟哭に身を包み、感情を抑えきれないのか彼の息は荒い。その姿に響希は自分を重ねた。李苑を失いかけ、本能のままに暴れた様を思い出す。クーリュエンはそこまで我を失っていない。
「……生きろよ。お前を生かした奴らの記憶全てを持って、足掻け」
 クーリュエンは大きく息を詰まらせ、そして思い切り叫んだ。言葉にならない感情をひたすら吐き出して突っ伏す。
 響希は石畳に背中をつけたまま、体の上に乗るクーリュエンの背中に手を当てた。抱きついてくる体温を享受して瞼を閉じる。素直に泣ける彼が羨ましいと思った。
「ランル」
 クーリュエンが取り乱していたのは、ほんの少しのことだ。まだ小さく慟哭する彼の背を抱きながら、響希は視線だけをランルに向けた。彼女の背後には近衛が二人控えており、油断なく響希を見つめている。万が一にもランルを傷つけさせないという意気込みを感じる。
 ランルは唇を真一文字に引き結んで遠くを見ていた。響希に呼ばれると視線を下げ、そのまましゃがみこむ。響希の横に移動してくる。
「何でお前がここにいる」
 ランルは不愉快そうに片眉を上げた。溜息をつきながら乱れた髪を直す。
 響希はランルの出で立ちに気付いた。
 ランルは珍しく髪を纏め上げている。装飾品が体を飾っていたが、その殆どはくたびれて優美さを失っている。乱れに乱れた髪の毛も同じことだ。
「夜会で噂を聞いたの。セフダニアの王が夜な夜な復活して彷徨っているって。その前にも、セフダニアに張った結界を貴方たちが無理に通り抜けてくれたようだし。もし噂が本当だとしたら、宝珠の暴走はまだ続いているのかもしれないと思って」
 皮肉を込めた視線に響希は顔を顰めた。
「結界はちゃんと通れるように穴を開けてから通ったぞ」
「あの結界は通った者を評議会に報告して、評議会が、侵入者なのか研究者なのかを選別できるように張ってあったものなの。たとえスイサの手引きがあって、宝珠で抜け穴を作ろうとしても。正規以外の方法で通ったなら『無理に』と評されても仕方ないわよ」
 響希は言われて思い出した。確かあの時は既にサウスが結界に穴を開けていた。翠沙が補助をした様子も見られなかった。あの時は穴さえ空けて通れればいいと思っていたが、もう少し考えるべきだったか。
 顔を顰めて唸る。
 しゃがみ込んだランルはしばらく響希を見ていたが、その視線を再び遠くへと投げた。
「先ほどの……宝珠の暴走の欠片だけどね。多分こんなに早く成果を上げるような作用にはなかったと思う」
 どういう事かと視線で促した響希に、ランルは瞳を歪ませた。
「もっとゆっくりと基盤を固めて、失敗する要素を排除してから彼の――体を乗っ取ろうという物だったんだと思うわ」
 クーリュエンを気遣ったのか、ランルは瞳を細めて言葉を濁した。いまだ顔を上げられないクーリュエンを痛ましそうに見つめる。
「もっとゆっくりだったら、日常の変化は気付き難いもの。昨日今日みたいに、爆発的に力が広がってしまったら噂にだってなるわ。評議会だって気付かない訳がない。サイだってそれは分かってる。でも、彼は体を持っていなかったから……多分、近くにある力に、簡単に引き摺られてしまったんだわ」
「……俺が、いたせいか?」
「完全には否定しない。貴方がいなかったらサイの目論みが成功して、もっと酷いことになっていたかもしれない」
 何かを誤魔化されている気がして響希は眉を寄せた。
「今回は? 何が起こった」
 夕焼けの逆光でランルの横顔には深い影が落ちている。その表情が不安を物語っている。響希は嫌な予感を育たせながら問いかける。嫌な汗が背中に滲んだ。
「城に、イフリートと私で張った結界は、一度こじ開けられたことで少し弱まっていた。爆発した暴走の力に耐えることができなくて……いいえ。元々、護る為の結界ではなかったから、一度もこじ開けられてなくても、もしかしたら耐えられなかったのかもしれない」
「破られたという事か? さっきの力で?」
 はっきりとしないランルに苛立ちながら響希は体を起こした。気付いたクーリュエンが慌ててよけ、響希の隣に腰を下ろす。その顔はまだ俯けられたままだ。
「城にいた全ての研究員と兵が死んだわ」
 響希は双眸を瞠った。ランルの視線が窺うように響希へ向けられる。その視線の中で響希は囁くように呟きを落とした。
「死んだ……?」
「結界は完膚なきまでに壊された。張っていた私と、イフリートにも伝わっている筈よ。評議会は……どうかしら。もしかしたら、まだ何も分かっていないかもしれない。けれど確実に追及材料よ」
 ランルの瞳は真剣だった。深い紫が真っ直ぐに響希を捉えている。静かな声だからこそ訴えかけてくる物がある。
「結界が壊される前に、評議会から宝珠の巫女を掲げる旨の通信があったの。私が城を出る直前よ」
 ランルは呼吸一つ分目を瞑って立ち上がった。拳を握り締めて視線を遠くへと飛ばす。その方向には城があるが、肉眼では到底見えない。ランルについてきた近衛が心配そうにランルを窺ったが、ランルは何も応えなかった。
「キョウキは私と共にガラディアへ来て頂戴。これ以上評議会に追及される訳にはいかないの」
「待てよ。評議会が掲げる巫女ってのは……翠沙のことだろう?」
「そうだと思うわ」
「なら、李苑はどうなる」
 ランルは視線を戻した。響希と軽く視線を交わす。
「だから、貴方にはガラディアに留まって貰う」
 強い口調でランルは告げた。響希を見る瞳は強い。サウスが失われた当初、彼女が揺らいでいた弱さを微塵も感じさせない瞳だった。
 響希は何も言えずに彼女の瞳を見返す。近衛たちが驚いたようにランルに声を掛けたが、ランルは無視をした。撤回する気はなさそうだ。元々、自分に近衛がつくことを嫌がっていたランルだ。新たに任命された近衛たちを疎ましく思っているのかもしれない。
 近衛たちは自分たちの言葉が届かないと知ると悔しげに身を引いた。ランルを見る瞳は憎々しげで、彼らの瞳は次いで響希に向けられる。彼らは明らかに響希を蔑んで憎んでいる。
 不器用なランルに響希は溜息を禁じえない。
 ふと視界の端で何かが揺れたことに気付き、響希は素早くそちらに視線を移した。
 クーリュエンが響希の側で膝をつき、頭を垂れていた。
「クーリュエン?」
 訝しく思って名前を呼ぶと彼の肩が揺れる。響希に向けられた顔には、既に、先ほどまで泣き喚いていた面影はなく引き締められていた。何かの決意を含んだ真剣な眼差しだ。先ほどまでの落差に響希は戸惑いながら、クーリュエンに体を向けた。
 クーリュエンはまるで騎士が忠誠を誓うように地面へ膝をついて、響希を見つめた。そのまま口を開く。
「生涯をかけて忠誠を誓う。一度は失くした命だ。いかようにも好きに使え」
 突然の言葉に響希は片眉を上げた。これまで何度か、組員たちからも告げられた忠誠だった。しかし今回のクーリュエンは、組員たちとは訳が違う。秘められた決意の重さも、きっと違う。それでもクーリュエンは全く引かずに響希を見つめ、答えを待っている。響希が断ればそのまま命を断ちそうな、そんな危うさがあった。
 響希は視線を彷徨わせた。その素振りが“迷い”と取られたのか、クーリュエンは軽く瞳を伏せて告げた。
「受け入れられないなら、その剣で斬って捨てろ」
 そんな簡単に言えるものなのか。
 響希は微かな不快感を覚えながら剣の柄に手を掛けた。常人には重たい大剣であるが、響希の手に誂えられた物であるので使い心地は良い。
 響希が剣を手にするのを見て、クーリュエンは少しだけ寂しげに笑うと瞳を完全に伏せた。ランルたちが見守る中で、クーリュエンは無防備に首を晒す。響希が本気で剣を向ければ簡単に断ててしまうだろう。
 響希は立ち上がって剣を持ち上げた。
「――ここには盃がないからな」
 部下は特に必要としていない。しかしクーリュエンを死なせることはできない。こちらの世界に繋がりを作っておいても悪くはないだろう。
 面倒な事態になってきたな、と響希は顔を顰めながら剣先をクーリュエンの肩に乗せた。黙って瞳を伏せている彼を見つめながら、反対の肩に剣を移す。剣で両肩を叩いた後は瞳を細め、響希は唇を引き結んだ。瞳を開けたクーリュエンと視線が絡む。
「逃げるなよ」
 まだ、響希の中には迷いがあった。しかしその言葉を聞いたクーリュエンが微かに笑ったのを見て心を決める。
 響希はクーリュエンの心臓に向けて剣を突きつけた。そして腕に力を込める。
 心臓の真上。薄皮を一枚、剣で傷つける。
 響希の手元が狂えば、またはクーリュエンが怯えて少しでも動けば、簡単に大量の血が流されるだろう。しかし今回はどちらも失敗はしない。服に守られているため正確な距離をつかめず、響希の手には知らず汗が滲んでいた。
 薄く切られた肌には血が滲み出した。
 響希は彼の服が赤く染まっていく様を見ながら、彼の前に膝をついた。その気配でクーリュエンが瞼を開ける。目の前にいた響希を見つめる。
 響希は剣で自分の手の平を傷付け、血が溢れ出すまでを静かに見つめた。
「血の契りだ。破ることは許されない」
「望む所だ」
 不敵に笑うクーリュエンへと響希も笑みを返し、傷口を重ね合わせた。
 形だけの儀式めいたもの。しかし酒と盃がない今はこれくらいしか思いつかない。野蛮な、と眉をひそめる近衛の声を鼻で笑う。儀式は直ぐに終わった。
 響希は手の平にパックリと開いた傷口を強く押さえて止血する。数秒もすれば血が止まって薄皮が塞がる。剣刃が鋭いため傷口も綺麗なものだ。
 響希はクーリュエンにも同じ事をしようとしたが、さすがにクーリュエンは真っ赤な顔で拒否した。切られた場所まで服を深く裂いて血を拭う。その上から外套を纏って肌を隠す。
 それまで静かに見守っていたランルが二人の傍に歩いた。同時に振り返る二人に向けて、ランルは厳かな表情のまま口を開く。
「貴方がたの誓いはライール=ガラディア=サランの立会いのもとで行われた。これより誓いを破るような事があれば、ガラディアの宝珠に切り刻まれるでしょう。貴方がたに幸あらん事を」
 ランルは宝珠を握り締めながら口上を述べた。響希はこれまで皇女としてのランルを見た事がなかったため、普段との落差に苦笑しながら礼を述べた。確かに、立会い者は必要だった。
 響希はいまだ膝をついたままのクーリュエンに手を差し伸べる。部下を助けるために手を伸ばす構図は何か間違っている気がしたが、響希はクーリュエンを、自分の手足とする為に招き入れた訳ではない。
 クーリュエンは伸ばされた手に気付くと少しだけ驚いたような顔で響希を見上げ、直ぐにその手を取った。
 黒髪に黒瞳。こちらの世界には多種多様な人間がいるというのに、引き寄せたのは日本人のような色素の人間だ。悔やむ訳ではなく、不思議な気分で響希はクーリュエンを見つめる。
 溜息を零し、仕方ないかと笑った。