第七章 【一】

 李苑はレンガのような石壁に造られた窓を見ていた。
 灼熱が駆け抜けるイフリート。最も気温が高い正午ともなれば、外を出歩く者はいないと聞く。ジュラウン王が張り巡らせた静かな冷気に身を委ね、水音に耳を傾けるのが最も贅沢な過ごし方だ。この炎天下を歩くなど自殺行為に等しい。
 下働きとして王宮を闊歩していた頃、李苑はその容赦ない熱風に顔を顰めたものだ。しかし現在は完全に外の世界と切り離され、そんな不快感を覚えることはない。窓も扉も閉めてしまえば、密閉されたこの空間の温度が揺らぐことはない。巫女が過ごす部屋に死の匂いは届かない。
 天井に散りばめられているのは砕かれた力石だった。それらが常に涼風を巡らせ、温度と湿度を一定に保っている。部屋の主が望めば、雪を降らせることも初夏の陽気を楽しむことも豪雨を体験することも可能だ。もちろん部屋の中でそのような暴挙に及ぶ輩は少ないが、力石は蓄えられた力によって殆どの望みを叶えることが出来た。
 力石に封じられた力は宝珠の力だ。ジュラウンの力がなくては生まれない。一般の人々が買い求めるには少々値段が高い物になるが、それでも人々は贅沢を望み、国益は潤っていく。
 李苑はキラキラと光り輝く天井を見上げた。パチンと留められた髪飾りに顔を顰めた。
 ジュラウンはこの部屋にいない。
 一度眠った後、全てを聞きだそうと思っていたけれど、彼の代わりに李苑を待っていたのはファイナンだった。熟睡した後の李苑は体力気力共に回復し、ファイナンとの再会を素直に喜ぼうとした。しかし李苑が飛びつくよりも先に、ファイナンは容赦なく李苑を着せ替え人形に仕立て上げたのだった。
 口を挟もうものなら「静かにして」と遮られる。肌を滑る生地に身をよじると「動かないで」と口調を強められる。たった今、留められたばかりの髪飾りに触れようと手を伸ばすと甲を叩かれた。ジュラウンよりも聞き出しにくい相手だ。
「崩すんじゃないわよ。私の最高傑作なんだから」
「私、今いったいどんな面白い髪型になってるの」
 邪魔さえしなければファイナンは非常に楽しげにお喋りをしてくれる。ただし、彼女の現在の仕事に関すること限定だ。他の事で口を挟もうとすれば集中を乱されるという理由で容赦なく無視されるか怒られる。そんなファイナンは、それは鏡を見てのお楽しみ、と楽しげに口ずさんだ。
 李苑は目覚めてから今まで食事も摂っていない。絶食していたので大した違いはないだろうが、既に諦めの境地にあった。
「頭が重い……」
「空っぽのくせして何言ってるの。ほら、手」
 ファイナンは密かに毒舌である。彼女の細い手首に巻きつけられた銀鎖が、彼女が動くたびに涼やかな音を奏でている。不快ではない音だ。心の中に自然に入り込んでくる。
 一緒に働いていた頃は身の回りのことで精一杯で、お洒落など二の次であったけれど。いつの間にこんな女らしさを身につけたのだろう。
 李苑はくすぐったくなる気持ちに口を曲げて変な顔をした。再会したファイナンはどこか以前と違って見える。
「あと少しで終わるんだから我慢なさい」
 椅子に座らせられて一時間以上が経過している。そわそわと落ち着きを失くし始めた李苑に容赦ない喝が飛ぶ。
「はい、仕上げ」
 首に触れた冷たい感触。李苑が視線を落とすと、首には豪華な飾りが掛けられていた。銀の鎖で編まれた装飾品。中央には大粒の翡翠。薄い若葉色をしたそれはジュラウンの髪色のように優しい印象を与える。
 慣れない自分の姿に李苑は眉を寄せ、それでもようやく動く許可を与えられて、嬉々として椅子から立ち上がった。
 ――よろけた。
「重たいんだけど!」
 上から下までくまなく飾りつけされた李苑は立ち上がるのが精一杯だ。
 唇を尖らせて叫んだが、ファイナンは「そう?」と笑うだけで何もしない。李苑が少しでも身軽になろうとすれば拳が飛んでくるのだろう。
 李苑はファイナンを睨んだ。彼女は笑うだけだ。
 仕方なく、何とか慣れて動こうとする。
 ズカズカズカと歩くとジャラジャラジャラと音がした。
「うるさいし!」
 散歩進んで息切れだ。肩を怒らせようとしても、肩すら上がらない。肩が凝りそうだと思った李苑はハッとした。
「もしかしてこれに慣れたら筋力増強? リハビリ完了?」
「それだけ付ければ貴方も大人しいし、黙ってどこかに消えようとは出来ないでしょう?」
 単なる、猫に鈴なのかと李苑はうな垂れた。頭を下げると結い上げられた髪が頬を滑る。それに気付き、李苑は慌てて顔を上げた。頭にも飾り付けがされているようだ。下手に頭を下げて髪飾りを落としてしまったら、弁償できる金銭的余裕など李苑にはない。
「……お腹すいた」
 固く縛り上げられた腰帯に手を当てて李苑は唸る。腹の音など聞こえないほどギュウギュウと締め付けられている。胃まで捻り潰されているような感覚である。
 李苑の着替えを済ませたファイナンは忙しそうに次の仕事に入っていた。李苑が起きた事でようやく寝台を手入れできると思っているのか、その横顔はどこか嬉しそうだ。寝乱れたシーツを取り替える。真っ白なシーツが宙を舞う。ファイナンは慣れた手付きで素早く取り替え作業を完了させる。皺など許さず、真っ直ぐにピンとシーツを張る。鮮やかな手腕を、李苑は黙ったまま見入った。
「ねぇ。ジュンとザーイは?」
「もうしばらくしたら見えるわよ。まだ朝議のお時間ですから」
 どうせこれも無視されるのだろうと思っていた李苑は、返答があった事に驚いた。この機を逃すまいと次の話題を探り当てる。
「ファイナンは、今まで何してたの?」
「今日の予定確認やら仕度確認やら、貴方が起きるまでそりゃもう忙しかったわよ」
「いやいやいや。今のことじゃなくて」
 手早く寝台を整えたファイナンは首を傾げた。やるべき事は全て終わったのか、その場に佇んで李苑を見る。力石からの送風に金髪が揺れている。どことなく今までと雰囲気が違うように思えるのは、時間が為せる技だろうか。李苑は軽く眉を寄せる。
「私が、いない間。今まで何してたの?」
「貴方が消えてから? どこに行ったんだろう、って徹底的に捜したわよ。絶対迷子になったんだわって思ってたから、それこそ王宮の隅から隅まで探し回ったわ。王宮の中で迷子届け出そうかと思ったくらいよ」
「私に対するファイナンの認識ってそんななの!?」
「普段の行いが物を言うのよ」
 李苑は納得がいかなくて唇を尖らせたが、ファイナンには笑われただけだった。立っているのも疲れて、李苑は再び椅子に座り直した。
「ガイナン皇子に連れて行かれてから姿が見えなくなったっていうのは分かっていたから、無理を承知で皇子に近づこうとまでしてね」
 李苑は双眸を見開かせた。既に懐かしく思うようになってしまった名前だ。そういえば国葬の時からこんな軟禁生活を強いられているのだと、改めて思い出した。
「ガイナンって今」
 李苑が問いかけようとした時だ。常ならぬ強さで部屋の扉が開かれた。それに驚いた李苑はいつもの調子で椅子から勢い良く跳んで構えようとしたが、体が重くて上手くいかない。椅子から落ちて尻餅をついた。あり得ない失態だ。
 痛みに片眉を上げた李苑は、入ってきたのがザーイだと知って顔を顰めた。確実に目撃された。ザーイは双眸を瞠って李苑を見つめる。
 よりによってザーイに見られるなんて、と李苑は紅潮した。
「……また、えらく重そうに飾られたもんだな」
 しばらくの沈黙の後に、しみじみと呟かれる声。
 李苑は唇を尖らせたままそっぽを向く。
「どうせ似合わないとでも思ってるんでしょ? 私だって不本意だけどファイナンが口を挟ませてくんないんだもん」
「そんなことは思っていないが?」
 憮然とブツブツと呟きながら立ち上がった李苑は、意外な言葉に顔を上げた。ザーイは嘘をついているとは思えない表情をしていた。李苑はどういう反応をすべきか迷って瞳を瞬かせた。
「ジュンは、まだ来ないの?」
 ザーイの視線が居心地悪い。李苑は不自然ではない程度に視線を彷徨わせた。心臓が煩くて、得体の知れない不安に苛まれているようだ。
 ザーイは我に返ったように体を揺らせた。扉をあけた時のように表情を険しくした。いつもと違う真剣さに、李苑はそれまでの動揺を忘れてザーイを見た。首を傾げる。問いかける前に腕を掴まれる。
「何?」
「ちょっと、お前の友人たちに関わることだからな。ジュンの私室の方が都合いいだろう」
「……え?」
 李苑が目を丸くした。ザーイはファイナンに視線を向けたが、李苑は気付かずザーイの腕を掴み返した。李苑の脳裏からは雑多な悩みが全て吹き飛んだ。
「響希たち? 何かあったの?」
「行ってから話す」
 李苑はそのまま引き摺られるように外へと出された。ジュラウンの結界内であるとはいえ生温い風に顔を顰める。重ね着をしているせいで余計に熱が篭る。
 もう少し身軽になりたいと思って振り返った李苑はファイナンがいない事に気がついた。どこに行ったのかと探ると、彼女は部屋の中から心配そうに李苑を見つめている。李苑とファイナンとの距離はどんどんと離れて行き、李苑は慌ててザーイを見上げた。
「ファイナンは?」
「ジュンの私室に入ることが出来るのは限られた者だけだ」
「そう、なの?」
 もう一度振り返った李苑はファイナンの姿が見えなくなってしまって寂しさを感じた。扉は開け放たれたままになっている。戻ることは許されず、早く響希たちの安否を知りたいという想いも李苑を戻らせず、小さな葛藤を抱えた後に李苑は唇を引き結んだ。